スタークラブに関する回想で、一番印象に残っているライヴはといえば個人的には1982年の4月6日の新宿ロフトに於ける3rdシングル"YOUNG ASSASSIN"発売記念ライヴだ。
この時のライヴは確かギターのLOUが加入しての東京での初ライヴだったと記憶している。またこの日の共演バンドが、前々回の自分史で触れた、大学の先輩だった山岡氏の異父兄であるジュネ氏率いるオートモッド、そして前年の1981年に結成され、京都を拠点に活動していたザ・コンチネンタル・キッズという、非常に個性的な2バンドをゲストに迎えたライヴだった。オートモッドについては改めて述べるまでもないが、このライヴ以前にもスタークラブとは何回かライヴをした事があり、必ずしも気安い間柄ではなかったようだが古くから付き合いがあったようだ。
ザ・コンチネンタル・キッズ(以下、当時の略称「コンチ」と記す)はこのバンドを結成する前にギタリストのシノヤンこと篠田純氏とドラムのタカミ氏が在籍していたのはSS(エスエス)という、同時代的に見ても類のない高速パンクチューンを演奏していた伝説の(これは残された音源を聴いても確かに「伝説」と呼べるほど独創的)パンクバンドだったのだが、このSSとも過去にスタークラブは共演歴があった。
SSについては後に篠田氏本人から色々と話を聴いたのだが、活動期間が非常に短期間であり、本人曰く「冗談半分で、何も考えていなかった」との事でこれまた衝動的にやったもので、まさに「パンク」なバンドだったと言える。メンバー全員が坊主頭に黒い少林寺拳法の胴着に身を包み、往年の歌謡曲、5人組コーラスグループ、フィンガーファイブの「恋のダイヤル6700」を高速パンクチューンでカバーしたり、全曲1~2分程度のショートカットナンバーで1ステージ15分程度で「あっという間に」終わってしまうライヴは当時の観客の度肝を抜いたという。メンバーはギターの篠田氏、ドラムのタカミ氏に 加えボーカルのトミー、ツヨシの4人で、米国のパンクバンド、ラモーンズが全員マッシュルームカットヘアに黒い革ジャンスタイルを売りにデビューしたのは有名だが、もしやこれにインスピレーションを得て例のコスチュームを思い付いたのではないかと思い、篠田氏に直接「ラモーンズを意識していたのか?」と質問したところ「全く意識していなかった。そもそも何か深い考えがあって狙ってやった覚えはない。」との返答だった。驚異的なのは結成したのが篠田氏他メンバー全員が高校3年生であり、伝統的に先鋭的な若者文化の発祥地でもある京都という土壌ならではの話だ。京都という街は京都大学や同志社、立命館等の関西の有力大学が軒を連ね、文化・芸術に敏感な大学生の積極的なサポートもあって60~70年代には岡林信康、加藤和彦等フォークシンガーを輩出する一方で村八分や裸のラリーズ等アンダーグラウンドでカルトな存在のロックバンドも数多く活動していた。また後に篠田氏が中心となって立ち上げたコンサート・イベント企画集団(同名レーベルも発足)「ビート・クレイジー」は、そうした京都発の音楽文化の拠点だった京都大学西部講堂をベースに精力的な活動を展開していた。この「ビート・クレイジー」というプロジェクトについては後々別項でもう少し詳しく触れる事にするが、篠田氏及びSSについてはWIKIPEDIAにかなり正確な記述が掲載されているので興味のある方は参照されたい。それに加えてフォローするとすれば同時期に音楽活動を始めたINUの町田氏(最初のバンドは「腐れおめこ」)が関西のバンドに呼びかけて制作した自主制作オムニバスレコード『ドッキリ・レコード』に篠田氏はSS解散後に新たに結成したチャイニーズ・クラブとしてこの作品に参加、同じ京都出身のGSバンド、ザ・タイガースのヒット曲『シーサイド・バウンド』のカバーを含む数曲を披露しているが、SSでの高速パンクナンバーを期待すると肩透かしを食らう、オブスキュアな印象のポップナンバーばかりである。SSに関しては解散後、活動中のライヴ音源を収録したライヴアルバム(オリジナルはアナログLP、CD化の際に新たにボーナス音源を追加)がリリースされている。さて、肝心のコンチは前出のチャイニーズ・クラブの後にFUN(いずれも活動時期は1980年)という、これまた短命に終わったバンドを経て1981年に結成された。オリジナル・メンバーはボーカルがツキイズミ(当時は単に泉と呼ばれていたが、幾つかのプロフィール・データによるとこう表記されている)、ギターにシノヤンこと篠田氏、ドラムがタカミ、ベースにラン子という4人編成で、後にもう一人ギターにKITCHIを迎え、ボーカルがアキラに変わり、1991年まで活動を続けた。後に加入したアキラとKITCHIに関しては殆ど面識がないが、アキラは沖縄出身で出自が複雑でその特異なパーソナリティがジャーナリスティックな注目を集め、彼を題材にした出版物もある。
このバンドで特筆すべき存在はベースの紅一点、ラン子さんだろう。彼女はこの時点(1981年)で既に28歳、スタークラブのヒカゲ氏や篠田氏が皆20代前半だった事を考えても、かなり遅咲きのパンクスだったという事になる。何でも彼女はまだ10代だった60年代後半にGSや洋楽ポップスを聴いて音楽に目覚め、後に女性ハードロッカーとして大きな成功を収めるカルメン・マキに触発されてバンド活動を志すも厳格な家庭環境故に思うに任せず、高校卒業後は京都工芸繊維大学で造形デザインを学び、70年代前半の頃にはパンクの始祖とも言えるグラムロックに傾倒し、T REXやデビッド・ボウイ等をよく聴いていたらしいが、パンクロック出現時迄は割とスクエアな生活を送っていたらしい。篠田氏と出会ってコンチ結成後はバンド活動以外にもイベント企画やレコード制作等、水を得た魚のように自分のイメージ通りの人生を歩んだようだ。話が横道に逸れるが、この時代にパンクバンドをやっていた連中は得てしてパンク至上主義のようなところがあり、他のジャンルに排他的な態度をとったり、特にパンクロック出現以前のロックを敵視さえする傾向があった。例えば町田氏は、INU解散後に結成したFUNA(ふな)というバンドのメンバーであったベーシストの爆発五郎氏によると、知り合った当初は「俺はセックス・ピストルズ以前のロックは聴いた事がない。」と豪語していたそうだが、後に打ち解けて酒を酌み交わすようになると、酔いに任せてふと「やっぱオールマン(ブラザーズ・バンド⇒※米国南部出身でのブルース色強い演奏が身上のロックバンド)、ええなぁ」と本音を漏らしたりする事もあって苦笑させられたという。バンド関係者でなくとも当時のパンク~ニューウェイブ系の音楽ファンはハードロック(今で言うヘビィメタルのルーツとなる、当時の音楽カテゴリー)等パンクロック出現以前のロックを「オールドウェイブ」と呼んだりしてダサい、古臭さい音楽として蔑視する傾向があった。町田氏率いたINUのレパートリー『夢の中へ』という曲中に「田舎町のパーティーの夜/皆はイモハードロックバンドの演奏に/うんざりしてうっとりとなった」というフレーズがあるのだが、これなどはそうしたパンク~ニューウェイブ音楽ファンの心情をそのまま代弁したものだ。そんな風潮の中、ラン子さんは割と屈託なく(当時からしたら)往年のハードロックや当時ちらほら現れたヘビィメタルバンド(モーターヘッドが代表格)でも好きなものは好きと、はっきり意思表示していた。また「モトリー(クルー)最高やわ」とデビューしたばかりで当時、それ程知名度が無かったグラムメタルバンドのモトリー・クルーを絶賛していたのが印象的だった。ラン子さんは肝心のベーシストとしても努力家だったと見え、キャリアを重ねる毎にドライブ感溢れるピッキングに磨きがかかっていき、常にリズム隊として安定感のあるプレイだった。当時(80年代初頭)はパンク~ニューウェイブ系バンドは女性ベーシスト花盛りでラン子の他にもINUの西川成子さん、女性バンド、ゼルダのチホこと小嶋さちほさん、NON BANDのNONさん等、バンドの核とも言える、存在感のある女性ベーシストが数多くいた。その中でもラン子さんは最年長だったが、派手でグラマラスな出で立ちはキャラ立ちしていてゼルダのチホさんと共にメディアに取り上げられる機会も多かったように思う。また僕の知る限りでは、例えば年少のパンクス達に歳の事でおちょくりネタにされても腹を立たりすてる事もなく、余裕で受け流していた。一緒にライヴをする機会も多かった原爆オナニーズのエディ(元スタークラブ)のファンでもあり、「エディの事気に入ってんねん。」と、これまた屈託なく広言してもいた(笑)。コンチと並行して篠田氏と共にスペルマ(!)というバンドも結成して、ここではボーカルを取っていたが、このバンドもコンチ同様ワイルドなロックンロールバンドでライヴにレコーディングにと、精力的に活動していた。またずっと後の話になるが、1990年には当時コンチのレコードのリリース元であったSUNSHINE SHERBET RECORDSで企画されたL.O.X.というバンドのアルバムでは『Blaze Woman』という曲で一曲、作詞とボーカルを取っている。この作品は当時、メジャーデビューしたてで飛ぶ鳥を落とす勢いだったX(後
にX JAPAN)のYOSHIKI(ドラム)と、ハードコアバンド・LIP CREAMのNAOKI(ギター)、ロックンロールバンド・ORENGEのアクト(ベース)の3人が中心となってバックトラックを制作し、そのボーカルに彼とら親交のあった面々を招いてレコーディングされたもので、その名も『SHAKE HAND』という、作品コンセプトままのタイトルでリリースされた。L.O.X.というバンド(プロジェクト)名自体、先の3バンドのイニシャルから命名された。このバンドのボーカルは元々、グールやバッドロッツ等のバンドでボーカリストとして活躍していた故・マサミ氏という、非常にカリスマ性のある、特異なパーソナリティーを持っていたアーティスト(というか、バンドマン)がボーカルを務めていたのだが、マサミ氏が病の為に床に伏し、入院してしまった為、マサミ氏の代役としてXのTOSHI、ザ・フールズの伊藤耕他何人かのゲストボーカルを迎えて制作された。当時のライヴハウス・シーンのある種、顔役でありYOSHIKI他、皆に慕われていた兄貴分的存在のマサミ氏についてはルポルタージュ作家・鶴見済氏の著書『無気力製造工場』に、その生涯を回顧した記述がある。話が随分と寄り道してしまったが(笑)、そんなプロジェクトに請われてゲスト・ボーカルに迎えられたのはラン子さんの強烈なキャラクター、そしてやはりジャンルを問わず慕われた人となりあればこそ、だと思う。そのラン子さんは1997年11月、子宮ガンで亡くなった。享年44歳。僕はこの訃報を、ラン子さんの出身高校(京都女子高)の後輩に当たる、ある女性バンドの元ドラマーから聞かされた。ラン子さんの追悼イベントもゆかりのある多数のミュージシャンやバンドが参加して開催され、かつてラン子されの憧れの存在だったカルメン・マキさんもそのイベントに参加したという。コンチの篠田氏やラン子さんについてはまた改めて書いてみたい。
スタークラブとコンチは1982~1983年にかけて一緒にツアーをする機会がよくあった。最初に共演したのは前年の夏、名古屋エルでのスタークラブのシングル『CLUB TAKE ONE』発売記念ライヴに結成間もないコンチがゲスト参加したものだったと記憶している。この2バンドが揃い踏みした楽屋やリハーサル中の情景は今思い出しても壮観だった。金髪のモヒカンヘアに身長190近いコンチの篠田氏と、ド派手なメイクにギンギンのグラムロックファッションのラン子さん、これまた身長190近いスタークラブの狂児と190超のNo-Fun-Pig、この4人を初め他のメンバーもロック・ミュージシャン云々する前にその存在感は圧倒的なものがあった。この日はその2バンドに加えて、バンドとしてまとまりの出てきたヒップなグラムパンクのオートモッドもゲストに迎えた、非常にバランスの取れたブッキングだった。冒頭にも書いたが、オートモッドにはボーカルのジュネ氏の異父弟で、僕の大学の先輩であった山岡氏もリズムボックス他、ステージでのエレクトロニクス関係を扱うスタッフとして来場していたが、この当時スタークラブとオートモッドはあまり親密な関係ではなかった為、僕も当時CLUB THE STAR TOKYOを名乗っていた手前(笑)、何となくそれに倣ってオートモッド側の山岡氏とも殆ど口をきかなかった(笑)。この辺りのバンド間の微妙な緊張感や対抗意識と言うのも今思い返すと面白い。この時期のオートモッドはギターに布袋氏が参加する直前で、英国の新しい潮流、ニューロマンティックスやフューチャリスト等と呼ばれた派手なメイクに奇抜なファッションで、リズムを強調したダンサブルなエレポップ・サウンドが特徴のアダム・アントの影響が色濃いパフォーマンスを披露した。オートモッドのファンは殆どが洋楽(英国モノ)好きな女性だった。この日の出順は確かコンチ→オートモッド→スタークラブだったかと思う。やはり東京をベースに活動していたオートモッドが一番固定の客を持っていたが、その客もオートモッドの演奏が終わっても帰路に着くことなくスタークラブのライヴも最後まで観て、楽しんでいた。スタートのコンチから本当に雰囲気の良いショウだった。ライヴハウスに足を運ぶ客というものはまず自分の目当てのバンドのライヴを観るのが第一で、それ以外のバンドは眼中にないというケースが多かったが、やはり「場の空気」というものは非常に重要で、ショウ全体がこの日のような良い雰囲気に包まれたものであれば、客も目当てのバンドのステージが終わったらそこで帰ってしまうという事もなく最後まで楽しんでいくものだ。この後、7月にもスタークラブとコンチは新宿ロフトで一緒にライヴをやったのだが、何かこの時期のスタークラブとコンチというブッキングは相性が良かったのか、4月より更に動員数も増えた。この2バンドのツアーを体験して、双方のバンドのファンになり、ミニコミ誌を発行するようになったという人物もいた。コンチの曲で一番気に入っていたのは英国のパンクバンド・The Clashの『Tommy Gun』にインスパイアされたと思しき『Johnny Gun』というワイルドなロックンロール・ナンバーだ。コンチの代表作に1988年にリリースした『OUTLAW IS A NICE GUY』というアルバムがあるが(同名曲を収録)、このタイトルは言い得て妙、まさに彼らのバンドの本質を表現したものだ。個人的にはこの1982年4月というのは、この前日5日に京都のノイズ・パフォーマンス・ユニットの非常階段が前年の8月に続き2度目の東京ライヴを新宿ロフトで行ったのだが、スタークラブのチラシを配りに行ったついでにライヴも観た(この時は前年やった女性メンバーの放尿ほど過激なパフォーマンスではなかったが、例の客席に向けての生ゴミ投げはやっていた)。さらにこの後、同じ新宿ロフトで9日~11日にかけて女の子バンドばかり出演するイベントをやったりと、何か
とせわしない1ヶ月であった。プライベートでもこの翌月にJR大塚駅界隈から東部東上線・成増駅近くのアパートに引っ越して、さらなる人脈拡大とカオスな日常が始まる事になる。スタークラブ関係の回想をもう少し引っ張って書きます。

参考リンク

SS:Mr.Twist
※現存するSSの唯一の映像。日本のパンク黎明期の貴重なドキュメントフィルム『ロッカーズ』から。
SS:Mr.Twist(インタビュー付き)
※同上の映像にメンバーのインタビュー・カット付きヴァージョン。
SS:Telephone Number 6700(Live)
※SSのライヴアルバムから。フィンガーファイブの1973年のヒット曲『恋のナンバー6700』の高速パンク・カバー。
SS:Coca-Cola
※同じくライヴアルバムから。
コンチネンタル・キッズ 京大西部講堂ライブ 2(1989):Get Off The Law
※スタークラブと共演した時期よりかなり後の映像で2代目のボーカリストのアキラ在籍時のもの。1曲目が初期の代表曲『Get Off The Law』。
SPERMA:LIKE A FIRE ~ SEINARU HIKARI
※コンチのラン子さんがボーカルも取ったるリーダー・バンド、スペルマの映像。
砂守勝巳を探してvol.2「オキナワンシャウト」第三章は「アキラ」 
※コンチの2代目ボーカル、アキラの出自にスポットを当てた砂守勝巳氏のルポルタージュ作品『沖縄シャウト』のダイジェスト。
L.O.X.:Hell Or Heaven (Vo:NAOKI)
※ラン子さんも一曲ボーカル、作詞で参加したスーパーユニット、L.O.X.のスタジオテイクから。LIP CREAMのNAOKIがボーカルを取る『Hell Or Heaven』。
Yoshiki Drums@L.O.X.
上記『Hell Or Heaven』のライヴ映像。ドラムにXのYOSHIKI、ボーカルはハードコア・バンドBASTARDのTOKUROW。
L.O.X.:Tragedy Of M (Vo: Toshi)
L.O.X.のスタジオテイクからXのTOSHIがボーカルを取る『Tragedy Of M』
GHOUL:Jerusalm (Live)
L.O.X.のボーカリストだったマサミ率いるGHOUL。
GHOUL マサミ 80年代インディーズ・シーン ブログ"Overdose Japan"
※故・マサミの簡潔なバイオグラフィーの記述があるブログ『Overdose Japan』。
AUTO-MOD:Love Generation
※オートモッドの初期の代表曲『Love Generation』。
Adam and the Ants:Plastic Surgery+ You Tube Mix
※この時期のオートモッドのジュネ氏に多大な影響を与えた英国のニューロマンティック・バンド、アダム・アンド・ジ・アンツ。
THE STAR CLUB:HELLO NEW PUNKS
※この日のライヴが発売記念ライヴだったスタークラブのシングル『YOUNG ASSASSIN』に収録された『HELLO NEW PUNKS』。
THE STAR CLUB:Shit
※この時期のスタークラブの代表曲だった『Shit』。1985年当時の映像から。
L.O.X.:SHAKE HAND on Amazon.co.jp
※L.O.X.のアルバム『SHAKE HAND』のアマゾンのカタログ・ページ。
The Continental kids:Outlaw Is A Nice Guy
※コンチネンタル・キッズの1988年リリースの名作『Outlaw Is A Nice Guy<』のアマゾンのカタログ・ページ。