今日は東京でも桜の開花が宣言されましたね(^_-)-☆
平年と比べて10日、昨年よりは15日早くて、昭和28年に統計を取り始めてからは平成14年と並んで最も早いそうです(@o@)ヘェ~!!
いつまでも寒くて、水仙や梅の開花も遅れ気味でしたのに、ここに来て急に気温の高い日が増えたので、桜もビックリして咲いちゃったんでしょうかね(^笑^)
さて記事の方は「駅からハイキング」の続きで、佐倉をぶらりの「佐倉城跡公園」の様子をご覧ください!
前回の記事で「佐倉城跡公園入口」から城内に攻め入った(?)散歩おじさんは、やがて本丸まで攻め上がりましたv(。・・。)イエッ♪
画像は台所門跡の門外からの眺めで、広場になっている所に本丸の建物があったのだそうです(^0_0^)
画像は台所門跡の門外からの眺めで、広場になっている所に本丸の建物があったのだそうです(^0_0^)
散歩おじさんが入った公園入口からここまでは、かなり急な坂をエッチラオッチラ登ることになります!
↑で「攻め上がりました」なんて書きましたが、「駅からハイキング」中の散歩おじさん相手に、城を守る城兵の妨害があるはずも無く、ただ単に登っただけなのですが、急な坂は軽装でもけっこう大変でしたw(◎o◎)w
これが具足をつけて敵の妨害を受けながらとなると、登るのも容易じゃないでしょうから、本丸に至る坂も防御の機能を果たしていたのでしょうね!
本丸跡の広場に立ってみると、この場所が土塁に守られていたのがよく分かります!
手前の明るい色の平坦な所が本丸の建物跡なのですが、奥の木が立っている所が土手のように高くなっているの、お分かりになりますか?
手前の明るい色の平坦な所が本丸の建物跡なのですが、奥の木が立っている所が土手のように高くなっているの、お分かりになりますか?
敵が攻めてくるとすれば、あの土塁の向こうからですから、戦の時には土塁の上から石を落したり矢を射かけたりもしたのでしょう!
こちらは「天守台」跡です!
三重構造の櫓だったと言いますから、土塁よりさらに高い所から敵の動きを見張ることもできますね(^_-)-☆
三重構造の櫓だったと言いますから、土塁よりさらに高い所から敵の動きを見張ることもできますね(^_-)-☆
この絵はハイキングの後半で見学した、佐倉の「歴史生活資料館」にあった佐倉城の絵図なのですが、比較的正確で絵も分かり易かったので、↑3枚の画像の撮影場所の説明画像を作ってみました!
天守跡のすぐ近くにある大きな木は「夫婦モッコク」と呼ばれています!
2本が根本近くで癒合した木が「夫婦○○」と呼ばれることは良くあるようですが、この木もやはり根本がくっついたまま大きくなったもののようです(^.^)
2本が根本近くで癒合した木が「夫婦○○」と呼ばれることは良くあるようですが、この木もやはり根本がくっついたまま大きくなったもののようです(^.^)
ところで江戸時代以前の城跡が、後に軍の施設になった例は少なくないそうですが、佐倉城の跡も陸軍「佐倉連隊」の駐屯地になった時期があるそうです!
そして兵隊さんがこのモッコクに文字を刻んだ跡が残っているのですよ(◎o◎)
いかがですか? 「昭十八年十月」と「砲隊」の文字がお判りになりますでしょうか(?。?)
いかがですか? 「昭十八年十月」と「砲隊」の文字がお判りになりますでしょうか(?。?)
それにしても、説明板に記されている駅までの案内が「国鉄佐倉駅まで・・・」となっているのも、なんだか懐かしいですね(^^)
本丸跡に至る園路には、佐倉城主にして老中首座に任じられ、開国を唱えたという「堀田正睦(ほったまさよし)」の像があります!
ちょっと見えづらいのですが、堀田正睦像と並んでいるのは堀田正睦と「日米修好通商条約」締結の交渉を行ったという「タウンゼント・ハリス」の像です(^0_0^)
ちょっと見えづらいのですが、堀田正睦像と並んでいるのは堀田正睦と「日米修好通商条約」締結の交渉を行ったという「タウンゼント・ハリス」の像です(^0_0^)
ちなみ堀田正睦像は平成18年、タウンゼント・ハリス像が平成20年、いずれも佐倉ライオンズクラブが建立したとのことですが、こういう像から佐倉と中央との繋がりが伺えるのも興味深いですね(^_-)-☆
さて佐倉城址公園内の「ぶらり」も、興味深くあちこち見て来たせいで画像枚数が多くなりましたが、「駅からハイキング」はさらに城下へと進みます!
・・・ということで、次の記事に続きますので、よろしくお願いします(^.^)