ことばに対する「解像度」を高める | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

これは一昨日にメールマガジンで書いたものなのですが、反響が大きかったので、こちらにもあげておくことにしました。

 

 

milkを牛乳と訳すことが新規事項になり得るのなら、roundを四捨五入と訳すことも同じはず・・・

この小さな考えが発端になって、諸外国の四捨五入を調べました。

ブログでは数言語をあげて5連載で終わらせたのですが、裏では何倍も多くの日本語→外国語の辞書を引いています。

正直、四捨五入がこれほど「いい加減に」現地語訳されているなんて、考えたこともありませんでした。
誤訳だというわけではなく、四捨五入という単語の持つ意味の一部だけを切り出し、だいたい何となく伝わるだろうというあたりで、手を打ってあるのです。

もちろん、フレーズで説明すれば辛うじて何とかなる言語はありますが、単語として、存在しない。
日本語では国語辞典の見出し語になるほどなのに、これに対応する語が見つかったのは、今のところ中国語と韓国語だけです。
日中韓はいずれもアジアなので、もしかしたら他のアジア言語には何かあるかもしれませんが、欧米言語は、現時点では皆無です。

よく、エスキモーのイヌイット語には雪を表す単語が30種類以上ある、日本語には雨を表す単語が50種類以上あるとか言われますが、ことばというのは、そのくらい文化と結び付いています。

昔から、文化の影響を直接的に受ける文芸翻訳と違って、技術翻訳にはこうした影響が少ないと言われてきました。
ある意味で正しいのですが、ひとたび四捨五入のようなことが生じると、翻訳者の裁量や加筆の余地がほとんどない分、むしろ厄介です。

たとえば、「フィールドの値を四捨五入する四捨五入手段」とか。
特開2006-79277号の請求項です。

a round-down-on-four-and-round-up-on-five means for rounding a field value by rounding down, if the digit to the right of the digit that is being rounded is 4 or less ...といった具合に、なかば強引な造語をした上で、延々説明する?それとも・・・?


翻訳というのは常に、ことばとことばのあいだにある意味のかさなりを考えて、可能なかぎり「ずれ」を小さくする作業です。
名詞であろうと動詞であろうと、文芸翻訳であろうと技術翻訳であろうと関係なく、翻訳可能性と不可能性とのはざまで、知恵を絞ります。

そして特許翻訳の場合はさらに、新規事項の問題が絡みます。
意味のずれがどこまでなら安全で、どこからが危険になり得るかという判断が、必要になるということです。

こうして可能なかぎりずれを小さくしていくにあたり、ことばに対する感性というか勘というか、そういうものが必要になってきます。

ブログで連載した例でいえば、「善処」「シダ」「整数」などの語には1つの単語に意味の流れつまり語源が複数あるだろうということを、何も調べる前から直感的に、つかんでいました。

こういう直感が働きやすい状態だとどんな良いことがあるかというと、単語からとらえることができる意味の「解像度」が上がり、結果として言語間のずれを小さくしやすくなります。

ここでいう解像度は比喩で、単語の意味を細かい視点で理解できるという、そんなイメージです。

たとえば「赤」という単語しか知らない人と「緋色」「茜色」「紅赤」「朱砂」「薄紅」などの区別がついている人では、どちらが微妙な色味の違いをうまくとらえるかといえば、当然のこと後者です。

この場合、後者の人が「赤」という単語を聞いたとき、頭に浮かぶ色は単純に赤=redとは、なりません。
redだろうかscarletだろうか、あるいはcardinalなのかgarnetなのか、どのことばで翻訳すると、意味のずれが最も小さくなるかと、考えます。

仮に緋色、茜色、紅赤・・・に対応する英単語を知らなかったとしても、ひとつの言語でことばに対する感覚の解像度が高ければ、他の言語に対応するものがあるかどうかと立ち止まることができますから、それで第一段階クリアです。

かたや選択、選定、選別などの類語の使いわけが甘い人は、ほぼ例外なく、ことばに対して持っている「解像度」が低いのだろうと思います。

何語であるかを問わず、単語を概念でとらえられないと、翻訳は難しいと思います。
それも、その概念をいかに細かい解像度で自分の中に持てるかが、カギになってくるでしょう。

では、どうすれば、解像度が上がるのか。

これは読むことによってしか、得られないと思います。

典型的なのが江戸時代の蘭学者で、満足な辞書もない中で次々と翻訳書を生み出すことができた背景には、漢文の素読があります。
素読ですから、最初は意味もわからず読むのですが、自然に意味がわかるようになっていくそうです。
この域になれば、ことばに対する解像度は相当に高くなっているはずです。

私の場合だと、小説や専門書、論文、新聞などに加えて、室町時代から現代まで、折に触れていろいろな辞書を読んでいることが大きいだろうと思っています。

英語なら英語、日本語なら日本語というひとつの言語だけで見ていると二次元的な知識も、言語の壁を取り払って世界に目を向け、さらに時代の壁も取り払って歴史にも目を向けて辞書を読んでいると、あっというまに三次元的になり、広がりを持ちます。
つまり、解像度が上がるということです。


そういえば何日か前に、大学の課題をしていた息子と「教育」という語の話になりました。
そのときに、たぶん教育という語は翻訳によって生まれていると思うと言ったところ、なぜわかるのかと返されました。

なぜと問われても、いかにも翻訳語です、という主張が感じられるだけ。
昔から日本語にあった「教」や「育」という語が持つ概念と、「教育」ということばの持つ概念が、微妙にずれるから。
それ以外に、根拠はありません。

同じようなずれは、英語のeducationと日本語の「教育」とのあいだにも感じます。
educationを翻訳したはずが、厳密には、概念等価になっていない。

こういう微妙な違いをできるだけ多くとらえることが、ひいては、翻訳の品質を高めることにつながるのではないかと、思うわけです。
 




 

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