善処=最善を尽くすは、政経分野から | 特許翻訳 A to Z

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善処の誤訳説は、何に由来するか」からの続きです。

 

前回、国語辞典の定義上は最善の手段を講ずることを意味していた「善処」が、1940年以降に「うまく処置する」「つごうよく取りはからう」に変化していることがわかりました。

 

1959年の『新言海』には「最善・・」が残っていましたが、この辞書は1930年代に「最善」を載せていた『大言海』の系列です。
それでは、現代までの間はどうなっているでしょうか。

 

【うまく処置する、適当に処置するなどの語義で掲載している辞書】
・『国語大辞典』 1981年(小学館) p.1443
・『角川国語大辞典』 1983年(角川書店) p.1180
・『広辞林』 1984年(三省堂) p.1137
・『講談社カラー版日本語大辞典』 1995年(講談社) p.1223
・『小学館日本語新辞典』 2005年(小学館) p.952
・『日本国語大辞典 第2巻(さ-の) 』 2006年(小学館) p.1024
・『明鏡国語辞典』 2010年(大修館書店) p.968
・『岩波国語辞典』 2011年(岩波書店) p.824
・『集英社国語辞典』 2012年(集英社) p.1002
・『新明解国語辞典』 2012年(三省堂) p.844
・『旺文社国語辞典』 2013年(旺文社) p.833
  ほか多数。

【最善・・・の語義で掲載している辞書】
・『新用字用例辞典』 1973年(教育出版) p.24
・『実用新国語辞典 : ペン字・筆順・英語付き』 1985年(三省堂) p.455
・『学研国語大辞典』 1988年(学習研究社) p.1090
・『現代国語用例辞典 : 15万例文・成句』 1992年(教育社) p.592
・『大辞泉』 1998年(小学館) p.1517
 

 

刊行されたすべての国語辞典を調べたわけではないですが、それでも「うまく・・・」に類する語義を掲載した辞書のほうが圧倒的に多かったです。
とはいえ、1990年代に入っても、「最善・・・」を載せていた辞書もありました
国語辞典上、こちらの意味が完全に消滅したわけではないようです。

 

そして教育社の『現代国語用例辞典』には、「最善の処置をとること」という語義に続いて、次のような用例が出ています。

 

 <善処する> その件は、市民のみなさんのご意見をうかがった上で、市としても善処したいと思います。

 

もうひとつ、確認した中で1冊だけ他にない説明を載せた辞書があります。

三省堂の『新明解国語辞典』です。該当する部分を、抜粋します。

 

相手の意向を聞いた上で、公事として処理すること。[政治家の用語としては、さし当たってはなんの処置もしないことの表現に用いられる。] p.844


まさに首脳会談の誤訳問題になった意味ですが、新明解国語辞典で以外に同じ意味を掲載したものは、今のところ見つかっていません。
 

さて。

ある単語とその語義が辞書に掲載されるのは、通常、人々のあいだで(ある程度)使われるようになってから
善処は1930年代半ばに「最善・・」、1940年代になって「うまく・・」が見つかりましたので、それぞれの意味が社会の中で認知されるようになったのは、それより前でしょう。
辞書の編纂には数年から十数年を要することに照らしても、「最善・・」の意味は1900年頃には存在していたのではないかと思います。

そこで今度は、実際の使用例を確認しました。

【新聞】
1920年代頃から使用例が見られます。
たとえば朝日新聞は1924年1月19日が最古で、4頁1段目に「復興善處の途」とあります。
読売新聞はヨミダス歴史館の端末上は1878年3月30日からヒットしますが、データベース化時に加えられたと思われるデータが混じっています。
実際、紙面を確認しても善処の文言が見当たらないものがあります。

【一般書】
国会図書館デジタルコレクションで検索すると1件だけ1917年発行の書籍があり、あとは1920年代以降です。
分野は、初期の頃は政治経済が主で、若干、違う分野のものが混じっています。

一方、Google Booksで年代を1930年までに限定して検索すると、仏教の意味のほうは1849年がありますが、今回の善処は1910年代頃からです。
(検索結果上はもう少し古いものが2つ3つありますが、実際は年号の記載ミスと思われる刊行物です。)
Google Booksでの検索でヒットした約10件も、国政や県政など政治関係です。

【政治関係】
帝国議会会議録検索システムで善処を検索すると、最も古い検索結果は、大正12年12月11日の「開院式勅語奉答文起草の件委員会」という資料です。
この中に、「災後ニ善處し上」という文言が見つかりました(中段)。

そして昭和2年、昭和11年・・・と衆議院本会議の会議録が続きます。
大正12年は1923年ですから、帝国議会の会議録は1920年代以降、ということになります。

 


すでに明らかにしているように、「善処」はもともと仏教用語でした。
これに第2語義として「最善・・」が加わったのですが、上記の結果を見るかぎり、おそらく最初は政治経済分野を中心に使われ始めたのでしょう。
それが人々の間に広まり、1930年代になって複数冊組の国語辞典に掲載されたということだろうと思います。

問題は、1940年代以降です。

帝国議会会議録検索システムと、もうひとつ国会会議録検索システムで取得できる記録に加えて、内閣告論や都政・市政関連資料をざっと追っても、複数の出版社がここまで揃ってそれまでと違う語義を掲載する理由が見当たりません。
首脳会談があった時期ですら、会議録上は「最善・・」の意味だと思われる例がかなりあります。

そこで、切り口を変えて調べてみました。
続きは次回に。

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