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善処=最善を尽くすは、政経分野から」の続きです。

人文社会系の領域で、政治経済分野と並んで「かたい」表現が用いられる分野に法の世界があります。

 

そこで、判例における「善処」の使用例を調べました。
裁判年月日昇順で、古いほうから3件拾います。強調は、こちらで付しました。

 

昭和22(つ)9
双方ノ繁栄ヲ目的トシテ事毎ニ善処シ尽シタル行為

昭和23(れ)205
その執行の任にあたる行政府が、運用によつて善処する

昭和24(れ)2127
国会と最高裁判所との協力と善処とを期待し

 

有料のデータベースも含めて複数の判例検索システムを使いましたが、1930年代の判例は見当たらず。
政治経済分野よりも一足遅れて、1940年代から使用例が認められます。
ほかに、『法律時報』をはじめとする古い法律雑誌の横断検索も試しましたが、こちらも1940年代です。
 

ただし意味はいずれも「最善・・」と思われるものばかりで、政治経済同様、国語辞典の語義に影響がおよぶほどの要因は見当たりません。


 

政治家による口約束がゆえ、一般国民が「最善・・」の意味でとらえなくなったという考え方もできますが、国会でのやり取りを当時の人々がどこまで認識していたかは、怪しいでしょう。
ときは、第二次世界大戦のさなかもしくは終戦直後。

 

辞書の編纂には数年から十数年がかかることを考えると、「最善・・」の語義が掲載された辞書が刊行された頃にはすでに、生活の中では、政治とは関係なく「うまく・・」の意味で使われていたのだろうと思います。

 

日本人は、「なんとなくこういう意味だろう」という漠然としたイメージで言葉を使う傾向があります。
そして国語辞典に掲載のある語でも、人々の使い方は、必ずしも辞書の語義とは一致しません。

 

漢字は、文字自体が意味を持ちます。
「善処」という言葉を知らない人が、この2文字から「最の手段を講じる置」と「置」のどちらにとらえる可能性が高いかといえば、おそらく後者です。

このことから、ひとつの仮説が成り立ちます。
 

 政治家も学者も裁判官も、「最善の・・」という意味で「善処」を使いはじめた。
 語義に忠実な国語辞典では、これを掲載した。
 ところが一般の人々に広まったとき、「善い処置=うまく処置する」だと理解する人のほうが多かった。
 結果、あっというまに国語辞典の語義が変わる現象が、発生した。

 

この仮説に基づいて、英和・和英辞典をあたってみました。

「善処」に1:1で対応する英単語がないことを逆に利用したというか、その時代その時代で人々がとらえていた意味が反映されるだろうと考えたからです。


結果を、以下に示します。

 

【和英辞典】-zensho
井上十吉 編 『和英辞典 : 新訳』 三省堂 1909(明41)年
  掲載なし

武信由太郎 編 『武信和英大辭典』 研究社 1918(大)
  掲載なし

竹原常太 著 『スタンダード和英大辞典』 宝文館 1928(昭3)年 p.1501
  to act judiciously; act properly
  此危機に際して善處せざるべからず We should act judiciously at the critical moment.

齋藤秀三郎 著 『齋藤和英大辭典』 Nichieisha 1930(昭5)年 
  掲載なし

岡倉由三郎 編 『初級英語辞典』 研究社 1933(昭8)年
  掲載なし

武信由太郎 編 『新和英大辭典』 研究社 1941(昭16)年 p.2252
  ~suru v. Make the best of; tide over (difficulties); act with prudence.
  ¶時局に善處する meet the situation properly.

竹原常太 著 『スタンダード和英辭典』 大修館書店 1946(昭21)年 p.1240
  to deal judiciously with; cope successfully with.
  ¶時局ニ善處スル to take a proper step to meet the situation; cope with (meet) the situation properly.

【英和辞典】-bestの熟語
岡倉由三郎 編 『新英和中辞典』 研究社 1929(昭4)年 p.72
  make the best of a bad job (又はbargain)  面白くない事情を成るべく良く始末する,(力を落さないで)逆境に善處する.

岡倉由三郎 主幹 『新英和大辭典』 研究社 1940(昭15)年 p.157
  make the best of it / make the best of a bad job (or business, bargain*)  面白くない事情を成るべく良く始末する,(力を落さないで)逆境に善處する.
 


英和では、「do one's best」も確認しました。
「make the best of」と「do one's best」のどちらも、掲載自体は上記のはるか以前からありました。
そしてほとんどの辞書が、「do one's best」には「最善を尽くす」を意味する訳を載せています。


以上から明らかなように、英和・和英とも、1920年代の時点ですでに「うまく・・」を示す意味の対応関係が認められます。

このあとも現代まで時代をくだって幅広く調べたところ、傾向が顕著に浮き彫りになりました。

 

 ・例としてあがっているのは、「時局に善処する」が多く、続いて「逆境に善処する」がある。
 

 ・和英での訳は、「take proper/appropriate measures/steps」「make the best of」「tide over」「deal wisely/judiciously」「meet the situation」に、ほぼ集約される。

 ・「do one's best」は和英で善処の訳語としては見当たらないが、まれに用例に使われている。

 例) この件に関しては善処いたします We'll do our best in dealing with this matter


 ・英和での「善処」の使用例はそれほど多くはないが、あれば和英と同じような対応関係になっている。

 

これらの結果をみる限り、最善を尽くすかどうかは、重視されていません。
不利な条件やネガティブな事象、逆境などに対して、我慢しながら精一杯対処するといった意味と、その時々の情勢・事情に適切に対処するといった意味の両方が、存在します。

 

政治家用法を別にすると、あまり厳密な線引きはなく、曖昧に使われていますね。

ここに、漢字の「功」と「罪」があると思うのです。

 


日本語は、ひらがなとカタカナ、漢字で成り立っています。

そして、仮名文字そのものは、何の情報も持ちません。

結果、「文字を訳すのか、文化を訳すのか」で示したように意味や思想の捨象を生じたり、特許翻訳でいえば不明瞭による記載不備の原因になったりします。

 

仮名文字だけで構成された語について、相手との間で語義の共通認識がないと、情報の伝達量は「ゼロ」になるということです。

ただし、文字が意味を持たないおかげで、日本語に概念自体がしない外来語でも、難なく表現できます。

 

かたや漢字は、文字から意味を推測できます。
漢字だけで構成された語について、相手との間で語義の共通認識がなくても、「ある程度は」情報の伝達が可能です。
ただし、そこには常に、最「善」の対「処」か「善」い対「処」かはっきりしないといった現象を伴います。

善処にかぎらず他の語でも、多かれ少なかれ同じことが当てはまるでしょう。

 

ようするに漢字は、何通りもの語義を生む潜在的な要因になっているということです。

私たち翻訳者は、このことを常に意識して念頭におく必要があると思います。

 

 

佐藤総理が善処発言を実際にしたのかどうか、通訳がどのように訳し、それを米国側がどのように解釈したかということは、いまとなっては些末とも言うような問題です。
ましてや、檜氏が明らかにしたように交渉の結果とは無関係だったのなら、なおさらでしょう。

にもかかわらず、あえて「善処」をとりあげたのは、この語の周囲に翻訳者として考えさせられる要素が、いくつもあったからです。

ひとつは、情報に対する捉え方

連載の冒頭で「天声人語」と檜誠司の論文、信夫隆司氏の研究を取り上げましたが、これだけ詳細に分析・検討されて作られた資料でも、与えられた情報を鵜呑みにせずに別の視点から考えると、新たなものが見えてくることがあります。

 

もうひとつは、辞書による語義の差と時代による移り変わり

掲載した以外にも多数の辞書を引きましたが、総じて、新語を加えることはあっても既存語の「語義の変化」への対応は、後回しになっている印象を受けました。

 

そしてもうひとつが、上述した漢字の功罪

実はもうひとつ、調べ始めた当初には想定していなかった事実もありました。
もしかしたら、誤訳説を生んだ一因と関連しているかもしれない記述が、辞書に見つかったのです。

 

続きは、次回に。

 

 

 

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