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前回の「翻訳で、正しい日本語に戻すには…」に頂戴したコメントに、意訳直訳問題と教育の問題が出ておりました。
これについて、後者から、先に取り上げます。
 

全国小学校に英語科を新設
だが、先生からが英語を知らず  といって英語教師を雇えば金がいる!

 このたび文部省は小学校の教科に英語を加えてもよいと通達したが、英語を教えられる教員がいない。専門の英語教師を雇うにも予算がない。そのため、現行の教員を研修させ、英語の授業を担当させることにした。

 これは2010年の記事。というのはウソで、本当は1884(明治17)年に『郵便報知』に載ったものだ(本節では引用の表現を現代風に改変)。120年以上も前に、英語教育界は今と同じ問題を抱えていたのである。
   江利川 春雄 著 『日本人は英語をどう学んできたか』 p. 2

 

以上、日本英語教育史学会会長をはじめ、英語関係の複数の組織で役員を務める教育学博士の江利川教授による著書の一部抜粋です。

2008年に決まった小学校での外国語活動の必修化が引き金になり、英語よりまずは国語をという主張に対する賛否、教員の確保、中学校との連携、教科書問題など、さまざまな事項が取り沙汰されました。
教育行政はもとより、通訳者や学者といった専門家も賛成派と反対派に真っ二つに割れ、子どもたちを置き去りにした議論が過熱しすぎの感を否めないほどです。

科学技術なら、小規模で実験して成功したら大きく広げるのが普通なのに、小さく(=中高)試してうまくいかない教育を大きく(=小中高)広げてどうするのか・・・。
そんなことはお構いなしの手探り教育でした。まさに、壮大な社会実験状態です。

私自身、小学校5~6年生の英語の授業で2年ほど授業支援ボランティアをしましたので、実際の教室や職員室で起きていたことも含めて、非常によく覚えています。

たとえば、塾などで英語を習っている一部の子を見て、「どうせ自分はできないから」と拗ねる子が出て、中学にあがる頃には英語嫌いが大量生産され、中学側で頭を抱えるという事態。
ネイティブ教師の確保用に学校に与えられる補助金が、全国レベルで見ると、学校によって年間500万円近い差を生んでいた、市町村格差問題

毎回の授業の組み立てそのものが現場に任せられ、学級担任と日本語を話せないネイティブ講師が、身振り手振りで次は何をするかと考える、行き当たりばったり授業
英語に奪われた分の時間を埋め合わせるために、毎朝15分ずつ読書や算数の時間を組み込み、3日分(45分)を授業一コマとして計上する、学校側の裏技的な苦肉の策・・・。

こういうことが、掃いて捨てるほどありました。
それにもかかわらず、現場の実状を無視した机上の空論ばかり、繰り広げられていたわけです。

 


ところが、議論の的になった諸問題は、明治期にほぼ出つくしていることが明らかになっています。

議論だけでなく、制度として実際に施行され、失敗してのちに撤回されたものが大半です。

ためしに明治期の資料を調べてみたところ、明治23年の『群馬県小学校教員検定試験問題集』に、修身科、教育科、国語科、漢文科、作文科などと並んで、「英語科」が含まれていました。
パーレーの『万国史』からスイスの部1頁半ほどを直訳および意訳せよ、というものです。

原文を参照したい方は、国会図書館デジタルコレクションで10コマ目です。

こうして教員試験にも組み込まれていながら、小学校での英語は悲惨な結果とともに、明治45年に廃止されました。

それどころか、小学校という制度がなかっただけで、現代の小学生と同じ年齢のうちに外国語を・・・・・という発想そのものは、江戸時代のオランダ通詞(=通訳)にもありました。
当時は、通詞の家庭に生まれた子は通詞になるといった「家系主義」でしたから、本人の向き不向きとは関係なく、オランダ語ができるようになってもらわないと困ります。

ならば、幼い頃から始めてみてはどうだろうか・・・・といった現代の小学校英語さながらの取り組みが、見事に失敗しています。

また、英語教育のレベルそのものも、明治期から時代を下るにつれて、急激に低下しました。
教科書の内容、必修語彙数、指導の基本方針・・・どこをどう切っても、現代の英語教育より、明治・大正時代の英語教育のほうが、よほどまともです。
にもかかわらず、失敗のほうが圧倒的に多かったわけですね。

この連載の1本目でも言及したように、日本の英語教育は歴史から何ひとつ学んでいないどころか、改悪を繰り返しているとしか思えないような状況です。


もっとも、歴史に学んでいないのは学校英語だけでなく、「社会の英語」も同じこと。
何年か前に社内でのコミュニケーションをすべて英語にする企業が続出したとき、英語公用語化論争がありましたが、これですら明治時代に出ています。

1870年代、初代文部大臣だった森有礼の周囲で、英語公用語化を巡る大論争が起きました。
このときの彼の主張については、米国やオーストラリアなど外国の新聞にも、記録が残っています。


さて。
蘭学者や英学者らが「生み出した」漢文訓読式の翻訳には、いろいろと問題もあったわけですが、そうはいっても学校教育現場での英語は、現代より何倍も柔軟な対応がなされ、実用に即したものでした。

商業系学校では貿易英語に重点をおく、師範学校では余力のない生徒に英語を履修「させない」など、学ぶ目的や能力をある程度考慮した仕組みが、確実に存在していたのです。

文部省が指定する「必修単語数」も、かつては1万語を越えていたのに、いまでは高校でわずか1800語。
それも、何年も1300前後で動いていたものが、指導要領改正で「増加されて」この数字です。
いかに削減されているか、一目瞭然ですね。

量については、たとえば『日本人は英語をどう学んできたか』と同じ2008年に出版された『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』という本にも、具体例が出ています。
中学英語検定教科書「3年分」の本文が、ペーパーバック換算で19ページ
高校までいって、約80ページです。

現代の翻訳者、特に若い翻訳者について言えば、日本語も英語も圧倒的に読書量が足りていないと感じているのですが、学校がこれでは当然かもしれません。

・・・ということで、「物事の分かった政治家が、上から英語教育を変え」るのは、ほぼ不可能でしょうね。


なお、上述の教員検定試験問題集には「直訳」と「意訳」が指定されていますが、少なくとも明治期には、訳文三法と言って、意訳と直訳のほかに「義訳」という訳し方が存在していました。
のちに、意訳と義訳を同じものとして扱う流れも生まれましたが、最初は完全に別の手法です。

かたや欧米では、紀元前から、直訳・意訳論争が繰り返されています。
この流れに変化が生じたのはおそらくフランス語と英語との間の翻訳が最初で、ここに、情報等価の概念が持ち込まれました。
現代のいわゆる「トランスレーション・スタディーズ」の元になっているとも言える、翻訳学の流れです。

日本の「義訳」を含めて、別記事であらためて検討します。
 

 

 

 



 

■関連記事 (連載です)
日本語の思想

 

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一語一訳の直訳方式は、こうして生まれた」からの続きです。

 

前回も書いたように、江戸から明治にかけての蘭学者・英学者による翻訳には漢文の訓読がそのまま応用されていて、まさに「蘭文訓読」「英文訓読」という状態でした。

 

下の画像は、1788年に大槻玄沢が記した日本で初めてのオランダ語文法書『蘭学階梯』を、1914年に当時の現代語で記した『文明源流叢書』からの抜粋です。
オリジナルの蘭学階梯と、同じ内容です。

大槻玄沢といえば、『解体新書』の誤訳を修正して『重訂解体新書』として刊行しなおしたり、蘭学塾を開いたりして、当時の蘭学界を率いていたほどの人物。
その玄沢が記した、オランダ語を学ぶための本ですね。

 

 

一語一訳の「我者僕臣」から「我は君の臣僕なり」、「老可人敬少可人習」から「老たるをば敬ふべし、少をば習はすべし」と訳出しています。
訓点こそ振られていませんが、理解の仕方は完全に漢文訓読の延長です。
 

もう少し時代をくだって、1883(明16)年の『初学翻訳文範. 第1集』の例も示します。

 

(画像をクリックすると、大きくなります。)


こちらはオランダ語ではなく英語の翻訳ですが、一語一訳で日本語をあてた上で、英文に漢文訓読の一二点さながら、番号が振られていることがわかります。

もうひとつ、明治20年の『英文典直訳』からも抜粋します。

 

 

※下を削ったので和文が途中で切れています。全文については、上の書名リンクで国会図書館デジタルコレクションの6コマ目で参照してください。

結局のところ、漢文=中国語もオランダ語や英語などの西洋語も、日本人にとっては外国語

おまけに中国語というのは主語+動詞+目的語の骨格を持つ言語で、助詞もありません。
当時の人々が、漢文訓読の手法を西洋語理解の助けにしたのは、ごく自然な流れだと思います。

 

ただし、訓読が江戸時代からはじまったのかというと、そうではなさそうです。
漢文訓読の最初は飛鳥時代あたりで、長い間ずっと書き記すことをせず口頭伝承だったとか。
この状況が、江戸時代になって一変しています。
 

 室町時代まで、漢文訓読の方法、たとえば訓点の打ちかたは、平安時代以来の学者の家の秘伝とされていた。訓点が一般に公開され、われわれが見慣れている「レ点」「一二点」「送り仮名」などの訓点を施した漢籍が広く出版されるようになったのは、江戸時代からであった。
 ただし、江戸時代においても、漢文訓読には流派によって独特の「読み癖」があり、完全には統一されていなかった。
  加藤徹 著 『漢文の素養』 p.189~190


江戸時代といえば、上流知識階級が読み書きした「純正漢文」、武家や町民上層で使用した「変体漢文」、翻訳によって生まれた「新漢語」など、それでなくても何通りもの「漢文・漢語」が混在していた時代です。
そして明治以降、漢文訓読調の文体を「普通文」と称するようになったようです。


前回も言及したように、ポルトガル人宣教師らによる翻訳文というのは、まともな日本語でした。
ここに言葉の乱れが生じた大きな原因として、漢文訓読を土台とする翻訳があるわけです。

訓読式の一語一訳的な置き換え訳を「翻訳」と呼んで良いのかという問題もありますが、ひとまずこうした定義の問題は脇によけて、異言語で書かれた文書の内容を何となくでも理解できるようにする状態を、翻訳とみなすことにします。

その上で、言葉の乱れを生んだ弊害はあっても、当時の日本人にとっては必要だったのです。
それどころか、『漢文の素養』の著者によれば、「東アジアで、日本がいちはやく近代化に成功した主因は、実は、中流実務階級が、江戸時代に漢文の素養を身につけたことにある(p.16)」とか。

朝鮮語やベトナム語などを含む漢字文化圏で、現代まで漢字が残っているのは、中国と日本のみ。
その中国ですら、日本で生まれて逆輸入された漢語を現代中国語から取り除いたら、もはや言葉として成り立たないであろうとまで言われるほど、日本漢語で埋め尽くされています。

ようするに、「漢文訓読」「欧文訓読」は、日本の近代化の基礎を作ったといって差し支えないでしょう。

・・・・でも、だからといって、同じ翻訳手法を踏襲しなければならない理由は、どこにもないはずです。
くどいですが、時代は変わりました。
明治時代どころか昭和と比較しても、社会は激変しています。

江戸や明治の翻訳が原因で言葉が乱れたのであれば、同じく翻訳によって、正しい日本語に戻していくことも可能なはず。
最低でも、そういう意識でことばと向き合う・・・ために、翻訳者が過去の翻訳史から現代の翻訳を考える時期にきているのではないかと思います。

 

 

 



 

■関連記事 (連載です)
日本語の思想

一語一訳の直訳方式は、こうして生まれた
翻訳で、正しい日本語に戻すには… ←現在地。

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前回からの続きです。同じく柳父章の『日本語の思想』から、一部を抜粋します。
強調は、こちらで付しました。

 

 日本で、西洋語文をまともに翻訳するようになったのは、戦国時代のキリシタン宣教師によるポルトガル語やラテン語の翻訳からである。しかし、この時代の翻訳は、直訳式ではなく、日本語の文脈に即した文体が重視されていたようである。「~は」の構文もあるが、とくに主語の翻訳を意識して用いていたとは思えない。たとえば「サカラメント提要付録」の書き始めの文はこうなっていた。
(水野注:長いので、略します)
 一見してわかるように、きわめて普通の日本語文になっていた。当時の西洋語からの翻訳は、ポルトガル人の宣教師たちが中心になって行われていたからである。その後、日本人が、オランダ語や英語などの西洋語を翻訳するようになると、その基本的方法は漢文訓読を承けた翻訳法になる。日本の蘭学者、英学者たちの教養の基本には、漢文訓読があった。明治憲法の「~ハ」構文も、その流れだったのである。
 宣教師たちの理解した日本語では、「~ハ」構文は主格の表現にも使われることがあるが、主格表現に限られた言葉ではない、ということだった。当時、ロドリゲス(Joao Rodriguez 一五六一~一六三四)の記した文法書には、こう書いてあった。
(中略)
 ロドリゲスのこの「は」についての説明は、本書で後の述べる三上章の「題目」説にかなり共通している。
 ところが、その後、日本の蘭学者、さらにはそれを受け継いだ英学者たちは、日本独自の直訳式翻訳法をつくりだしていく。
 西洋語文の主語の翻訳に、「~ハ」を用いるということは、近世の蘭学から始まっていた、と考えられる。その原因は、蘭学者のオランダ語の勉強は、漢文訓読を受けた蘭文訓読といもいうべき一語一句直訳していく方法だったからである。

  柳父章 著 『日本語の思想』 p.14~16


ポルトガル人による翻訳が正しい日本語で、日本人による翻訳が「おかしな」日本語という奇妙な現象が起きた時代があることが、推察されます。
 

こうした形を「悪文」だとした上で、実際に蘭学者や英学者がどのようにして翻訳していたかということの具体例があがっています。
まさに、オランダ語や英語を訳しているにもかかわらず、完全に「漢文」訳方式です。

ご存知の方もいるかもしれませんが、中国語というのは、日本語より英語に文法が近いです。
おそらく、そのことも漢文訓読の手法をオランダ語や英語の翻訳に取り入れやすかった一因だろうと思います。

 



柳父章は翻訳者ではないですし、たとえば「2004 通訳翻訳理論研究・第一回 - 翻訳研究への招待」というインタビューで、自分で訳してみたいものはあるかと問われて、ないと答えています。
あくまで研究の立場からモノを見ている、ということですね。

その研究を私たち翻訳者がどう利用するかというと、たとえば上にあげたくだりは、蘭学者や英学者の翻訳に由来する「一語一訳」や、西洋文の「型」を移して主語をおく文が、果たして正しい日本語なのか、よい日本語なのかと考える題材に、なるわけです。
柳父も指摘していますが、この方法は、そもそも西洋文の「型」を移しているだけです。

ある言語で書かれた文章を、その言語のネイティブが読んだときと同じ感覚で、別の言語のネイティブが理解できるようにすることが翻訳であるのなら、型を移して読みにくくなった時点で翻訳に失敗している、とも言えるわけです。

とはいえ、西洋の文化が活字として流れ込んできたとき、それを知りたい欲求があり、必要性があったことでしょう。とはいえ、満足な辞書もない時代。
蘭学者や英学者にとって、漢文訓読は必然でもあり、それがあったからこそ今があるとも言えます。

 



ただし、150年以上を経た現代も、「同じ形を踏襲しなければならない理由はない」はずなのです。

もちろん、それが良いものであれば連綿と受け継いでいけばよいですが、問題があるのなら、正すほうが好ましいはず。

昨日も書いたように、昔の人々が現代より優れている部分は見ならい、そして明らかに間違いあるいは失敗だったと思われる部分については、同じ轍を踏まないようにすることは、本来は不可欠でしょう。


でも、今までの翻訳業界は「歴史に学ぶ」ことをせず、「そういうものだから」と受け入れすぎている

特に産業翻訳は文学作品などの翻訳に比べると圧倒的に歴史が浅く、「産業翻訳」という言葉自体、ちらほら使われるようになったのが、1970年代以降です。

江戸や明治の人々の偉業は偉業として、漢文訓読の延長線上にある手法のままでよいのかどうかは、現代の翻訳者がしっかり考えるべき課題のようにも、思うわけです。

立場が違うのもあって、柳父の研究内容そのものや主張には賛否両論あるかと思いますが、昨日も少し書いたように、そこからさらに調べて掘り下げていく非常によいきっかけになるのは間違いありません。
どこに何が書いてあるか、どういうことが起きていたか、文学や社会学領域の一部とはいえ、表に出してくれていますので。
 

 

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