漁師,ぴんぴん物語 EpisodeⅠ -5ページ目

今、読んでいる本①方法論を学ぶ

著者: Stephen Van Evera
title: Guide to Methods for Students of Political Science
         

どうも私自身、勉強不足のため、方法論が身についてない。

大学で方法論とは身に着けるものなのかと思うが、意外と

大学院でそういうことを学ぶ必要を感じる学生も多いみたい。

かくいう私も大学院で一から方法論を学ぶ必要を感じる日々を過ごしている。


ところで、某ブログから飛んで飛んで飛んでたら、以上の本を見つけ、

その安さもあって早速購入、現在読んでいる。

まだ読み始めたばかりで、批評するような力も無いが、読みやすさもあり、

安価なので、読んでみるのも良いかもしれない。

是非、みなさんも読んで見ては。

また訪れたい場所②~中朝国境編~

②中朝国境編


また訪れたい場所、今日は中朝国境の、ある二つの場所を

紹介したいと思います。

(ⅰ)図們


中朝国境・・・そこは、何かと数年前から騒がしくなりました。

今ほど騒がしくなったのは2002年の拉致や脱北者の問題が

注目された頃からでしょう。


その2002年の小泉首相の訪朝の前の月、

2002年8月に中朝国境を旅したことがあります。


その際、私は、韓国東海岸にある束草という港からの船で

ロシアの港、ザルビノへ向かい、そこからバスで数時間かけて

中国へ向かう方法で中朝国境へと向かいました。


ところで、経由地ロシア・ザルビノという小さな港町は辺り一面、湿原世界。

360度地平線の広がる湿原はとても美しく、感動的です。


そこから、数時間走り、中露国境を越えると、まもなく

左手に川が見えてきて、その川の後ろには

「草木の生えてない」山や丘が見えてきます。

これが「中朝国境」、すなわち、テレビでよく川を渡って

国境を越えた、の「川」こと、豆満江です。


豆満江沿いは、テレビで聞きし如く、浅い川が続きます。

脱北者が簡単に渡れるというのも、よく理解できます。

その裏の「草木の生えてない山と丘」は、話に聞くと、

森林伐採のための末路とのこと。エネルギー不足などの

理由から、森林を炭などに転用するため森林伐採をせざるをえず、
そうなるというのは、昔行ったことのある、

他の某開発途上国を思い出させる光景でした。


中ロ国境を超え、また豆満江沿いを走ってから数時間後、

ある大きな町に着きます。中朝の一大玄関口「図們」です。

図們は朝鮮族が多く住む町。中国語だけでなく、ハングルも

たくさん見ることができます。


その「図們」から北朝鮮へ行く方法は二つ、
一つは下の列車で陸橋を渡る方法、


豆満江

(注:この写真は拾い物です)


もう一つは下の橋を渡っていく方法です。


図們  


この橋は中間地まで渡れます。渡った先は、

中国兵が目をぎらぎらさせて、見張っていますが・・・。


たまに対岸から渡ってくる、北朝鮮人民らしき

人ともすれ違います。やや緊張した空気がありましたが、

一方のあちらさんは緊張なんてしてなかった模様。

よく行き来してて、観光客なんて慣れたものだったのでしょうね。


当時はまだ中朝国境の警備も、最近聞くほど、非常に

警戒されたものとはいえませんでした。警備も数も

数えるほど。橋を見に行くも、とても適当なチェックで

入ることができましたし。


今頃はどうなっているのでしょうか。

恐らく、日本人が単独でいくような場所ではないでしょう。
脱北者問題で、非常に警備もギラギラ目を光らせて

いると思います。そんな訳で単純に「好奇心」だけで

行くような場所ではありませんが、朝鮮半島問題を考えるに、

また行って「みたい」場所ではあります。

(ⅱ)白頭山


中朝国境に、ある大きな山があります。

その名は白頭山。


白頭山2


相当の標高があるこの山の頂には、車をチャーターして

上るか、地道に数時間かけて徒歩で上るかの二つの

方法があります。その数時間の間は、まったく休憩施設なぞ

無く、永遠と雲に見えぬ山の頂に向かって歩くのみ。

(私は徒歩だったので・・・かなりしんどかった・・・)

でも、徒歩は徒歩なりの「味」を感じることが出来るのが

やはり良いところでしょう。なんといっても、山からの眺め。


上に広がる雲の絨毯と裾野に広がるステキな木々や湿原の光景。

そして、まだ見えぬ山の頂に対する期待。


・・・と思いながら、頑張って徒歩(or車)で

頂に着くと、この光景を見ることができます。

            ↓

            ↓

            ↓

            ↓

            ↓

            ↓


白頭山


楽天、ですね。実は、この山、本当に中朝国境に

面したものであり、山の頂を半分は中国領、半分を

北朝鮮領として管理しています。この絵は他所様の

ものですが、恐らく北朝鮮側から撮ったものです。

恐らく着色した部分もあると思われますが、他に

行ったことのある韓国人から聞く話によれば、

晴れた日の光景は、それは素晴らしいとのこと。


あいにく私が行った際は深い霧がかかり、結局

このカルデラを見ることができませんでした。


晴れた日に、このカルデラが見られたら・・・

そうした願望から、またいつか訪れたい場所の一つです。


行くには、中国語と朝鮮・韓国語ができないとかなり

大変なことになるので、留学生の友人の韓国人と

朝鮮族の中国人とともに、卒業旅行ででも行ってみようかなと

勝手に一人、考え中です。

注)上の写真では、なだらかな斜面からの風景が写って

いますが、中国側はかなり勾配のきつい傾斜のところからの

眺めから見ることになります。ただし、私が行った当時、

工事を行なっており、その後の情報では、その工事に

よって、この湖畔に降りていける歩道ができたようです。

 

久しぶりに会うこと

長いこと研究計画の再設定で悶々としてきた間に、

先週の土曜日に、久しぶりに大学時代の同胞(?)と恩師、

また幼い頃に親のように世話になってきた伯母に会ってきました。


同胞や恩師との集会(飲み会)では、数年ぶり、数ヶ月ぶり、

数日ぶりと、それぞれ顔を会わせてなかった期間は

ばらばらでしたが、それでも皆、新鮮な感じがしました。


揃った同胞は、6人全員が異なる研究分野、異なる大学の大学院へと

進んでいます。そうした中でも共通した話、そこから派生した専門的な

話と、意見を共有し、また議論させあうことが出来たことに、良い仲間を

持つことができたと嬉しく思えました。またそうした同胞を集めることを

可能とした恩師にも感謝の気持ちを持ちました。


sense (おだやかそうで、何気に切り返しの鋭いセンセの絵)


でもそうして数年ぶりという出会いは、またある事実を突きつけた気もします。


もう一人、別に会った伯母との出会いは3年ぶりでした。

会った場所は病院です。

伯母は、もうあまり先が長くないことを半月前に知りました。


数年前、私が韓国へ留学することに決めた直前に会ったのが最後でした。

そのときは、帰る私を走って追いかけてきてまでして「これ忘れてた」と

お小遣いをくれた記憶があります。


以前は、とても元気な人でした。

伯母の夫が病気がちであったことなどで色々と忙しく過ごしている人では

ありましたが、健康そのものという人でした。だから、長いこと会えなくとも、

いつかまた会える、元気な姿でまた会える、と思っていました。


でもそれは愚かな考えだったようです。


「人間、連絡無いのは元気な証拠」


こういういう言葉がありますが、それは若い頃や場合によって通用する

言葉なんだなと気がつかされました。


仲間と会うことにおいて、時に頻繁に会うこととともに、時に時間を置いて

会うことも、その会った時の喜びや、そこで話し合うことが出来る

「経験値」の深みという部分において、意外と良い意味をもたらしたりします。


でも人間の体というのは、そうして着々と時間と老い、また老いでなくとも

不健康な状態へと繋がっている場合が多いのですね。


帰宅時間になって、伯母に「帰るね」と言ってから伯母が自分の手を

離そうとしなかったこと。どうして長い間、顔出さなかったのか、

悔いてもしょうがないのだけれど、それでも悔いずにはいられませんでした。


繰り返すけれど、人間、いつも会える訳でないわけで、会おうとしても

会えなかったり、頻繁に会うより、たまに会う方がとても大事だったりします。

また老わずして・・・という突然のことも起きたりします。


そうした中で、久しぶりに会うことの喜びと悔いがあること、

それを同時に経験した一日でした。

外から眺める人間の世界~傍観と主体のはざま~

(2005.5.25修正版 タイトル及び内容一部修正)


今日はくたびれモード。


田舎暮らしの私が久しぶりに都会に出たものだから、

もう、その人ゴミに圧倒されて。明らかに人ごみの中にある

流れに乗れていってない自分を発見したのが、唯一の収穫か。


さて、今日はそんな中で、ふと思い出した映画のお薦め。

でも、あまりに昔に見た映画なので、ちょっとコメントが

しっかり書く自信が無いので、「もう一度見たい映画」って

位置づけで記事を書きたいと思いますネ。



~ベルリン・天使の詩~


tensi2


ベルリン・天使の詩、という映画があります。

監督はヴィム・ヴェンダース・・・聞いたこと、

ある人もいることでしょう。知っている方は

「ブエナビスタソシアルクラブ」という映画で

ご存知な方も多いのではないかな?

本作品は1987年のものです。

では、簡単なあらすじを・・・


tensi


「天使」は、時に人間が作った「勝利の塔」から地上の「人間」を眺め、

そして、時に地上に降り、「人間」に癒しを与えようとします。

でも、「人間」には彼の姿は見えません・・・そうした中で天使がもつ悩み・・・

それは自らもつ「傍観」という性質と、人間たちがもつ「主体」という性質との

はざまにあるものであり、それに気付き、そして揺れ動く彼が「ある決心」を

することになります・・・


本作品では古きベルリンの街並みを映し出します。

戦後の廃墟となった一面を持つベルリンの姿、東西分断の拠点となった

「壁」を持つベルリンの姿を背景とする中で、ある「天使」が人間と触れ合い、

そして「ある決心」をするという過程を静かに、切なく、また暖かく描きます。

私は、別に特定の宗教を信じているわけでなく、また天使の存在を

信じているわけではありません。ただ、この映画を見ていて、なぜか

癒される自分を感じました。天使がいてもいいな、と思えた映画でもありました。


この映画の静さ、切なさ、暖かさを感じさせてくれる表現の一つに、

モノクロとカラーの変化が挙げられます。これは「あること」を意味するのですが、

そうしたことが映画の表現を豊かにしているのではないかなと思います。


ところで、この映画の出演者には、意外なスターも出てきます。

そして彼は映画の中で非常に重要な役割を果たします。さて、それは誰か。

それは見てのお楽しみにしましょう。


本作は続編がありました。「時の翼にのって」という題名のものです。

そうですねぇ・・・出てくる人たちも同じなんですけど・・・どうも心に

びーーんってくるものがなかった。ちょっとメッセージ性に弱かったのでしょうか。

最後・・・が気に入らなかったのかな。そんな記憶もあります。


さて、いま一度、ベルリン天使の詩と時の翼にのってを見直してみようかな。

みなさんも是非見てみてくださいね。☆☆☆☆☆




ところで、リメイクは当たらない、これは比較的「通説化」した命題です。

本作のリメイク作品もあるのですが、私はお薦めしません(苦笑)

理由はなぜかって?下の写真を見てください。これがリメイク作品なのですが

なんかねー(笑)N.刑事のせいかな・・・恵.羅井安のせいかな・・・

とにかく、お薦めしません・・・情緒ってのかな・・それが・・・無い(苦笑)

ま、まず「ベルリン~」から見てください。


tensi3

一つの時代の終わり

蹴球な生活は日本代表のことを予告していましたが、

最近そんな色々と考察している時間もなく、そうしたところに

一つのニュースが入ってきたので、その話し・・・


zono


前園真聖というサッカー選手が引退を決めた。


鹿児島実出身の後、横浜Fに入団、アトランタ五輪では28年ぶりの

本大会出場を決めたチームの主将を張ったのち、スペイン移籍が

騒がれるものの決まらず、その後はブラジル、日本国内、韓国と

転々としながら、31歳で引退を決めた。


31歳という年齢は、サッカーでは微妙な年齢だろう。


野球のように古田や清原といった39歳の選手を見つけ出すのは困難だし、

ましてや工藤のように40超えて現役バリバリの選手はいないに等しい。

もちろん世界を見るとたまにいる。ただ、Jでも世界でも、それは数少ない。

昔、現日本代表の監督ジーコが日本のJでプレーしたのが40歳だったと

記憶しているが、それも満身創痍であったに違いないし、それもJのレベルが

今ほど上がっていない時期のことであったからこそのものだろう。

今、たとえ過去の栄光を持った名選手が40歳でJに来ても、あの時の

ジーコほどの活躍は出来るか、それは無理というものだろう。

まぁ・・・ジダンは40でもやってけそうな気がする数少ない一人だと思うが・・・


とにかく、体の接触が激しいサッカーの場合は、年齢を重ねるほど、

怪我の蓄積度が高く、体をどう「維持」するかが困難なテーマとなる。

そうした中でも、三浦知や中山はそのテーマに挑み、それなりの結果を

得ているのは確かで、また二人の凄さを表わしているのだと思う。


そうした中で、31歳は、ベテランの域にとっくに入っている時期といえる。

かといって、やれない年でもない。そういう「微妙」な時期だ。


前園は、ピークはアトランタ直後だったと思う。それは肉体的な

というものだけでなく、精神的なものも含めた「ピーク」だ。

当時22、3歳だっただろう、スペイン話が持ち上がり、ある試合で見せた

3人くらい抜き去ったドリブルが忘れられない。だが、移籍話は流れ、

のちに中田英が某誌にて述べたように、あの移籍騒動の時期を境に、

彼は変わり、そして「ピーク」は終わってしまった。


三浦知がイタリア移籍を果たした後、その後、数多くの「HERO」が

日本サッカー界に生まれ、そして消えていった。


前園はその初期の一人として記憶し、記録される人物である。

長年の夢であった日本の五輪への道を開いた男、アトランタ五輪での

日本の活躍に最も寄与した男・・・そして「カズ」後に初めて移籍話が生れた男。

恐らく彼に勇気付けられた人びとも多かったはず。


当時、アトランタで前園と戦った選手のうち、多くがまだJ1やJ2、そして

海外でプレーを続けている。


中田は言わずもがなの最も「成果」を挙げた選手である。でも、当時は

中田より前園の注目度は高かった。そういえば、二人が共演した懐かしき

インスタントらーめんのCMのことを思い出す。


遠藤(兄)は横浜FMで中盤の要として、松田は横浜FMの守備の要として、

服部や鈴木は磐田の守備の要として、川口は磐田、そして日本代表の守備の

砦として活躍している。


その前園と同時期のHEROといえば小倉は忘れられない存在である。

そしてまだ彼は山梨の地で選手としてJ1の地を踏む戦いに身を寄せている。

また城は、後に中田英とともにフランスW杯に日本代表を導き、スペインで

プレーした後、今はJ2横浜でプレーを続けている。


もちろん、引退した選手もいる。ただ、あれほど騒がれ、そして海外移籍して

活躍するはずと思われた選手にとっては、早い引退だったように感じる。


日本代表を初のフランスW杯出場へと導く選手と考えられたのは、そう社会に

認知されたのは、中田でもなく、城でもなく、前園だった。


ドリブラーであり、パス出しに長け、チームを鼓舞する力。

それは卓越したものだったと感じる。なにより、そうした中でも泥臭いプレー、

強引なプレーもできた能力と本能みたいなものは、その後のJの選手にも、

あまり出てこなかったタイプのプレーヤーである。


数少ない中で、セレッソの森島が似た感じがしたが、日本代表の歴代監督の

戦術的な意味が弊害となり、あまり試されることはなかった。

(ただし、前園+中田、森島+中田・・・これは中田問題の解決のヒントでもある。

中田との共存・・・今後の日本代表編で少し述べたい。)


そうした彼に、もっともマイナス的な作用をもたらしたもの・・・

それは精神的なものであり、かつそれをもたらしたもっともの要因は、

当時の日本サッカー界そのものだったのかもしれない。金子達仁の著書には、

その逸話が少なからず述べられている(28年目のハーフタイム)。


アトランタ後のメディアとファンの狂騒、当時は今のように日本選手が

海外移籍できるほどの土台がなかったという日本サッカー界の構造的問題・・・

結局、「過渡期」であった日本サッカーとそれをとりまく社会のた中で、

彼はどんどん居場所をなくしていったと言える。


その後の彼は落ちる一方であった。某サッカー雑誌では選手の試合での

活躍を採点するものがあるのだが、アトランタ後2年ほど経った時に

V川崎(現東京V)でのある試合のプレーが平均点6点の採点(満点10)の中で、

採点歴史上「1点」という点を唯一取った選手でもある。

試合を壊した、そうした理由のためだったという記憶がある。

明らかに彼は、サッカー世界で、ぼろぼろになっていた。


もっとも、彼がサッカーをすぐに辞めようとはしなかった、

サッカーを生業にするほかなかったことも事実であるだろうが、

それとともに、彼自身、サッカーを続けたかった、好きだったのだろう。

そうじゃなければ、様々な国にまで行って、サッカーをしたりはしない。



そうして数年ぶりに今日、その姿を写真で見た(上)。元気そうだった。


彼は今後、どういう道を歩むのだろう。川淵は「技術を活かして指導者へ」と。

彼の今後は分からない。報道によれば、子どもたちの指導をすることも

考えているらしい。前園は児童関係のボランティアをやってきた経験がある。

そうした中で、彼らしい「サッカー」像の追求を続けていって欲しいと感じる。


ちょっと早すぎたと思える引退。

日本サッカー界の「過渡期」を生きた、そんな選手の引退は、日本サッカーの

一つの時代の終わりを告げる、代表的な出来事だった。

ご当地○○○○

あまり日常的なことは書かないし、このブログはそれを

少し避けてきたが、今日は気持ちを少し入れ替えたいので

日常的なネタをお一つ。



その土地土地にある旨いもの、珍しいもの。

その土地でしか手に入らないもの。


それらを総称して「ご当地○○○○」と呼ぶ。

食品によくある呼称だが、それに限らず「車のナンバー」の

「ご当地ナンバー」というのすらある。


それを思い、ナンバー登録の規制が変更された際に、

地元湘南ナンバーが一時期「Theご当地ナンバー」であったのを思い出す。

でも現地人な私は何がそんなに魅力的なのか、理解できなかった。



ところで、今朝寝ているとドアをどんどん叩く音が鳴り響いた。

ぼろくはないのによく揺れる我が城で、あの音とドアの叩く行動。

普段は勧誘とか何かと思い居留守を使うが、さすがに

十分揺れるアパートは、寝ていた俺を強制起動させる。


「○○さ~ん、黒い猫の黒猫、黒猫大和で~す」

出るとお中元のような小包が。

お中元?あぁ、もうそういう時期か?

ってか、オレにお中元?そんな身分だったか。

ってか、お中元っていつの時期のものだ?


私の両親は、揃って会社員ではなく、かつ近所付き合いも悪く、

かつ一つの土地に定住せずの人間だったので、お中元貰った試しがない。

そもそもお中元がどの時期に来るのかすら、はっきり知らない。ちょっと

一般常識の欠如の問題、だといわれてしまいそうなことでもあるが・・・

ともかく、そんな環境で育った私は子どものようなワクワク気分で

その箱を開く・・・


すると「みんみんの餃子」じゃない!!


gyouza1

ただ、もちろん、こんな出来立てホヤホヤは入ってない。


というか、教訓:みなさん、郵便物は開く前に誰から届いたかを確かめましょう。

 

今回は不審物でもなく、栃木に住む友人A男君からの嬉しいお中元?だった。

それも「宇都宮 ご当地餃子 みんみんの餃子」です。



私は二度だけ栃木は宇都宮へ行ったことがある。

一度は日光へ旅がてら寄ったとき、

いま一度は相撲土俵作りのバイトに行った時だ。


その際寄った宇都宮餃子の店が「みんみん」だった。


gyouza2


その初めて食べたときの味が忘れられず、宇都宮へ旅たつA男君に教えた位。

餃子は餃子でも、こういう餃子もあるんだなぁと感動したくらいだったのだ。

そんな餃子を、明日あたりに食してみるつもり。


ただ、返礼として私が今住んでいる場所のご当地○○○を送ってあげたいのだが

観光地では無いこの街。何があるのかなと苦悶していたら、ある子がこれの存在を

教えてくれた。これをお送りしようか?(笑)



kiti


話がずれるが、それにしても餃子はやっぱり日本のが一番かなと思える。

まだ人に確信持って言えるほど色々食べたわけじゃないけれど、

中国や韓国で餃子(もしくは類似物)を食べていても深みが無い感じがしてしまう。

これは自分が日本で育ったせいもあるのかもしれないが、

やはり餃子は日本だすね。



ところで、私がご当地餃子として、みんみんを一番に挙げてはみたものの、

みんみんの名声が低くなることはないが、宇都宮近辺の人曰く、

他にも良い店はあるよう。


うむ、そうした話しを聞いて、ご当地○○○の道は、深いものだなと、感じる。

美食倶楽部があったら、入って海原雄山を師に、餃子だけならぬ

他の「ご当地○○○」の見聞を広めたいものだと思う、今日一日の学び。



でも私の餃子No.1は「みんみん」なことは変わりませんがね(笑



(追記)冷凍餃子の通販もやってます。みなさんも是非発注してみては?

知るということ

真面目な書き込みです。


ブログにそぐわないことは承知で、書き込んでいます。


ただ、みんなの意見を聞きたいから、ただそれだけが


ここに書き込んだ理由です。だから、数日したら、消すつもりです。





みなさんは、もし親しい人の死期を知ったら、その人とどう接しますか?


死期というのを、私たち自身(見送る側)が「知る」よりも「知らない」方が

良いと思いますか?それとも逆ですか?


同様に、死期を迎える人に、「知らせる」ことと「知らせない」こと、

どちらが良いと思いますか?


私は、今は、「知る」ことが、「知らない」ことよりも辛いんじゃないかと思えてます。

確信なんて無いのですが。またそれは逃げなのかもしれないとも思えてるのですが。



急な書き込みで読者の皆さんは意味不明かと思います。


でも、もし何か、感じた方、感想をもたれたら、

メールなどで返信してくださればと思います。


                                     本ブログ管理人

南の島=癒しの場か

~ナビィの恋~


映画第二弾は、ナビィの恋です(ナヴィ、だとさっきまで思ってました)。

確か京都生まれで琉球大育ちの中江裕司監督作品です。


ナヴィ


この映画は1999年の作品。

では、簡単にストーリーを追ってみましょう。


主人公の奈々子(西田尚美・・・今NTV系で放映

されている「瑠璃の島」にも出てましたね。

沖縄離島専門の女優なのですかね・・・笑)は、

都会での窮屈さから逃げたく、故郷である沖縄の

離島に戻ってきます。


奈々子は、ナビィおばぁ(おばあちゃんのことを沖縄では、

おばぁと言います)やその他の人びとに囲まれ、

そうした生活の中で徐々に癒されていきます。

ですが、それとともに奈々子はおばぁの「ある」不審な行動に気付きます。


その不審な行動の顛末とは・・・?

ナビィと奈々子、それぞれの恋の顛末を、

沖縄っぽい笑いと悲しみ、それらを沖縄民謡や

三線の音色にのせて唄い、語られるストーリです。


hana


この映画は、沖縄らしい色とりどりの風景を、

それはそれはうまく取り込んだ映画でもありますし、

また沖縄民謡や沖縄演劇界の巨匠を出演

させまくったという意味でもかなり凄い映画です。


この映画を見ることからは、沖縄音楽というもの、沖縄芸能

というものの一端を知ることも出来る映画なのかなとも思います。

また、ピアノレッスンのマイケル・ナイマンがテーマ曲を作ったのも

注目すべき部分です。三線と西欧音楽の融合も見ものでしょう。


にしても、あのマイペース感・・・沖縄じゃねーとできないものなのかな?(笑

はて、都会と沖縄しか深く知らない私・・・勘違いかもしれませんが。


   三線


ところで、みなさんは何か楽器をあやつれますか??


私は三線をひいたことは無いけれど、

やってみたいなと思いました。もしできたら、

私のおばぁも、さぞかし喜んでくれるんだろうな(笑)

次に帰郷?した際には挑戦してみたいと思います。



それにしても、沖縄を癒しの場としたイメージが成立したのも、

この映画がキッカケだったのではないでしょうか。

もし私の知らないだけかもしれませんが、この映画から

多くの人びとが影響受けたような気がします。

俗に言われる「沖縄移住ブーム」です。


それに関連して思い出すのは、昔、演出家の宮本亜門の

コーヒーのCMです・・・「宮本亜門は知っている・・・ちゃらら~」

94年ごろですね。分かる方は分かりますよね?(笑)

そのCMが彼自身の沖縄への移住のキッカケとなった

というのはかなり知られたことですが、あのCM自体が

昨今のブームに大きな影響力を持っていたことも否定できません。


関連して、この映画の後、沖縄を舞台にしたり、

もしくはロケ地として扱った映画やドラマが多くなった気がします。


例として、ドラマはNHK「ちゅらさん」、日テレ「瑠璃の島」、

TBS「さとうきび畑の唄」、フジ「Dr.コトー」などがありますよね。

映画は・・・これはあまり知られてない映画かもしれませんが、サトウキビ

刈りのアルバイトをする都会の若者の姿を描いた映画がありました。


それらに通じたのも、「さとうきび畑」を除いて、「癒し」というものでした。


癒しの場としての沖縄。青く澄み切った空と海、

そして青々と茂る緑豊かな山。それが人びとに力を与え、

そして沖縄=癒しの場として確立されたわけなのでしょう。


それらはまた、新しい沖縄像を描いたものでもありました。


1945年の戦場としての沖縄の映画が多く作られてきた中で、

新しい沖縄像は、ある意味、都会の喧騒というものが都会に生まれ、

そこから人びとが離れた癒しの場としての沖縄を追求したという意味では、

時代の変化を表わした、そんな意味を持った映画でもあったといえます。


hana2

(これはギリシャのブーゲンビリア)


いつか、またこの映画とは違う「沖縄」を描く映画に出会えることを

期待しています。いや、もう出ていて、私自身が知らないだけかも

しれない。そうであったら、もしお薦めがあれば、このブログに出会った方、

教えてくださればと思います。


ただ、最後に私なりの意見ももう少し加えると、

沖縄=癒しの場、には若干批判的な意見を持っています。

それはどういうことか、ちょっと意見がまとまっていないので、

それは次の回にそれは書くことにしたいと思いますネ。


ユーモアとリアリティ、そして個性に富む場所(2)

映画な生活は、トンガの記事で触れた「離島」話を

次回掲載に伸ばし、今日は番外編日本ドラマの話・・・


今日、家に帰ってきたら、懐かしいドラマが

やっていました。そこには、ユーモアとリアリティ、

そして個性に富む場所がありました。


先日、そのタイトルでThe West Wingをお薦めしましたが、

今日はその「日本版」とも言うべき、あるドラマのご紹介。


そのドラマの名は「王様のレストラン」


王様のレストラン


このドラマは、主人公千石(松本幸四郎・・・松たか子のパパ)と、

とある「廃れつつある」レストラン、「腐っている」スタッフが

再生していくというお話。


このドラマは、現実世界でも、このドラマに出演した人々が

その後、テレビドラマ界にて活躍(再生?)するようになった

分岐点であったような気がします。


それにしても、久しぶりみた出演陣は・・・若かったぁ(笑)

西村さんや鈴木京香さん、小野武彦さんとか、本当に若かったぁ。

伊藤さんは残念ながらお亡くなりましたけれど、ショムニといい、

やっぱりあの方の「奇妙な存在感」・・・アメリカで言えば、

スティーブン・ブシェーミ風っていうんでしょうか、格別だったなぁ。

やはり、みなさんがテレビ界での活躍を始めるキッカケとなった

ドラマということができるものでしょう。


ところで以前TWW記事の際に、ドラマには二つの特徴があると書きました。

改めて書けば、一つは、主人公の主人公による主人公のためのドラマ。

もう一つは、主人公と共演者の「競演」があるドラマです。


このドラマは、TWWと同様、後者のドラマと言えます。

確かに千石は主人公ですが、彼はTWWのM.シーンと同様、

「スパイス」を与える役割に過ぎなかった、と言えるかもしれません。

でもそれはとてつもなく、このドラマに重要だったわけです。


そうしたことも含めて、本ドラマの良さは、TWW同様に、

レストランの臨場感という「リアリティ」を広いセットとカメラワークで実現したこと、

そしてレストランスタッフのユーモアに富む演技者を集めたこと、

そして個々の役柄に細かい「設定」を与えたことでしょう。


ただ、TWWと違うのは、TWWは21回という1シーズンの長さに加えて、

アメリカドラマはシリーズ化されやすいという条件であったのに対し、

「王様のレストラン」では、11回という「時間的な短さ」があったことです。


実際、日本のドラマは、11or10回の放映回数という制限があるためか、

キャスト個々人の個性を描ききるまでには至らないことが多いと言えます。

主人公俳優のスター性に依る作品も多いためか、主人公を常に

追いかけて、脇役は脇役で終わる場合も多いといえます。

また時々キャスト個々人の個性を巧みに描いたドラマがありますが、

やはり、走り急いでドラマを描いた感は否めません。

ぎっしり詰め込んだせいで、内容が薄くなってしまう場合すらあります。

またテレビ局により傾向があるますが、セットやカメラワークにも

やや稚拙なものがある場合もあります。


そうした中で、このドラマは「レストラン」という一つの室内に

焦点を絞ったおかげか、11回で、リアリティの持った世界観を

表現することができた、秀逸な作品でした。


それは、脚本を担った三谷幸喜が演劇出身だったことがあるのでしょう。

このドラマはさながら、舞台を見ているようでした。


またドラマの冒頭と終わりに出る、森本レオの謎めいた語りは、

ドラマの次回への期待を膨らませるに十分なものでした。


このドラマ、お薦めです☆☆☆☆☆。

いつかまた、こんな良質のドラマに出会いたいものです。


    王様のレストラン2

私的蹴球日本代表論

以前、日韓の構図から日韓サッカーの力のせめぎあいを

探ってみましたが、今回はその続きとして、今後の蹴球日本代表の

将来について、三回の連載で書いてみたいと思います。


ドラゴン炸裂

      「日向小次郎風」


中心テーマは・・・「2006ドイツは今のままでいけるの?!」です。

これに合わせたサブテーマをいくつか扱いたいと思います。


思い出せば、元U-turnの土田が既にどこぞのテレビで

「朝まで生テレビ」風に同じテーマを議論していました・・・

その二枚煎じになりませんように気をつけます・・・(苦笑)


次回以降の連載テーマは以下の通りです。

①ジーコの采配評価と他監督待望論

②日本代表改造論+中田必要/不要論

③2006の予想と最低ボーダーライン


さて、うまく書けることやら・・・。

ってか、いつから書けることやら・・・。



追伸:

前の日韓の評価ですが、やはり評価は難しいなと思いました。

「数字」じゃないと、結局「主観」ですからね。まぁ、出来るだけ、

客観的な表現に努めたつもりなのですが・・・。