一つの時代の終わり
蹴球な生活は日本代表のことを予告していましたが、
最近そんな色々と考察している時間もなく、そうしたところに
一つのニュースが入ってきたので、その話し・・・
前園真聖というサッカー選手が引退を決めた。
鹿児島実出身の後、横浜Fに入団、アトランタ五輪では28年ぶりの
本大会出場を決めたチームの主将を張ったのち、スペイン移籍が
騒がれるものの決まらず、その後はブラジル、日本国内、韓国と
転々としながら、31歳で引退を決めた。
31歳という年齢は、サッカーでは微妙な年齢だろう。
野球のように古田や清原といった39歳の選手を見つけ出すのは困難だし、
ましてや工藤のように40超えて現役バリバリの選手はいないに等しい。
もちろん世界を見るとたまにいる。ただ、Jでも世界でも、それは数少ない。
昔、現日本代表の監督ジーコが日本のJでプレーしたのが40歳だったと
記憶しているが、それも満身創痍であったに違いないし、それもJのレベルが
今ほど上がっていない時期のことであったからこそのものだろう。
今、たとえ過去の栄光を持った名選手が40歳でJに来ても、あの時の
ジーコほどの活躍は出来るか、それは無理というものだろう。
まぁ・・・ジダンは40でもやってけそうな気がする数少ない一人だと思うが・・・
とにかく、体の接触が激しいサッカーの場合は、年齢を重ねるほど、
怪我の蓄積度が高く、体をどう「維持」するかが困難なテーマとなる。
そうした中でも、三浦知や中山はそのテーマに挑み、それなりの結果を
得ているのは確かで、また二人の凄さを表わしているのだと思う。
そうした中で、31歳は、ベテランの域にとっくに入っている時期といえる。
かといって、やれない年でもない。そういう「微妙」な時期だ。
前園は、ピークはアトランタ直後だったと思う。それは肉体的な
というものだけでなく、精神的なものも含めた「ピーク」だ。
当時22、3歳だっただろう、スペイン話が持ち上がり、ある試合で見せた
3人くらい抜き去ったドリブルが忘れられない。だが、移籍話は流れ、
のちに中田英が某誌にて述べたように、あの移籍騒動の時期を境に、
彼は変わり、そして「ピーク」は終わってしまった。
三浦知がイタリア移籍を果たした後、その後、数多くの「HERO」が
日本サッカー界に生まれ、そして消えていった。
前園はその初期の一人として記憶し、記録される人物である。
長年の夢であった日本の五輪への道を開いた男、アトランタ五輪での
日本の活躍に最も寄与した男・・・そして「カズ」後に初めて移籍話が生れた男。
恐らく彼に勇気付けられた人びとも多かったはず。
当時、アトランタで前園と戦った選手のうち、多くがまだJ1やJ2、そして
海外でプレーを続けている。
中田は言わずもがなの最も「成果」を挙げた選手である。でも、当時は
中田より前園の注目度は高かった。そういえば、二人が共演した懐かしき
インスタントらーめんのCMのことを思い出す。
遠藤(兄)は横浜FMで中盤の要として、松田は横浜FMの守備の要として、
服部や鈴木は磐田の守備の要として、川口は磐田、そして日本代表の守備の
砦として活躍している。
その前園と同時期のHEROといえば小倉は忘れられない存在である。
そしてまだ彼は山梨の地で選手としてJ1の地を踏む戦いに身を寄せている。
また城は、後に中田英とともにフランスW杯に日本代表を導き、スペインで
プレーした後、今はJ2横浜でプレーを続けている。
もちろん、引退した選手もいる。ただ、あれほど騒がれ、そして海外移籍して
活躍するはずと思われた選手にとっては、早い引退だったように感じる。
日本代表を初のフランスW杯出場へと導く選手と考えられたのは、そう社会に
認知されたのは、中田でもなく、城でもなく、前園だった。
ドリブラーであり、パス出しに長け、チームを鼓舞する力。
それは卓越したものだったと感じる。なにより、そうした中でも泥臭いプレー、
強引なプレーもできた能力と本能みたいなものは、その後のJの選手にも、
あまり出てこなかったタイプのプレーヤーである。
数少ない中で、セレッソの森島が似た感じがしたが、日本代表の歴代監督の
戦術的な意味が弊害となり、あまり試されることはなかった。
(ただし、前園+中田、森島+中田・・・これは中田問題の解決のヒントでもある。
中田との共存・・・今後の日本代表編で少し述べたい。)
そうした彼に、もっともマイナス的な作用をもたらしたもの・・・
それは精神的なものであり、かつそれをもたらしたもっともの要因は、
当時の日本サッカー界そのものだったのかもしれない。金子達仁の著書には、
その逸話が少なからず述べられている(28年目のハーフタイム)。
アトランタ後のメディアとファンの狂騒、当時は今のように日本選手が
海外移籍できるほどの土台がなかったという日本サッカー界の構造的問題・・・
結局、「過渡期」であった日本サッカーとそれをとりまく社会のた中で、
彼はどんどん居場所をなくしていったと言える。
その後の彼は落ちる一方であった。某サッカー雑誌では選手の試合での
活躍を採点するものがあるのだが、アトランタ後2年ほど経った時に
V川崎(現東京V)でのある試合のプレーが平均点6点の採点(満点10)の中で、
採点歴史上「1点」という点を唯一取った選手でもある。
試合を壊した、そうした理由のためだったという記憶がある。
明らかに彼は、サッカー世界で、ぼろぼろになっていた。
もっとも、彼がサッカーをすぐに辞めようとはしなかった、
サッカーを生業にするほかなかったことも事実であるだろうが、
それとともに、彼自身、サッカーを続けたかった、好きだったのだろう。
そうじゃなければ、様々な国にまで行って、サッカーをしたりはしない。
そうして数年ぶりに今日、その姿を写真で見た(上)。元気そうだった。
彼は今後、どういう道を歩むのだろう。川淵は「技術を活かして指導者へ」と。
彼の今後は分からない。報道によれば、子どもたちの指導をすることも
考えているらしい。前園は児童関係のボランティアをやってきた経験がある。
そうした中で、彼らしい「サッカー」像の追求を続けていって欲しいと感じる。
ちょっと早すぎたと思える引退。
日本サッカー界の「過渡期」を生きた、そんな選手の引退は、日本サッカーの
一つの時代の終わりを告げる、代表的な出来事だった。
