久しぶりに会うこと
長いこと研究計画の再設定で悶々としてきた間に、
先週の土曜日に、久しぶりに大学時代の同胞(?)と恩師、
また幼い頃に親のように世話になってきた伯母に会ってきました。
同胞や恩師との集会(飲み会)では、数年ぶり、数ヶ月ぶり、
数日ぶりと、それぞれ顔を会わせてなかった期間は
ばらばらでしたが、それでも皆、新鮮な感じがしました。
揃った同胞は、6人全員が異なる研究分野、異なる大学の大学院へと
進んでいます。そうした中でも共通した話、そこから派生した専門的な
話と、意見を共有し、また議論させあうことが出来たことに、良い仲間を
持つことができたと嬉しく思えました。またそうした同胞を集めることを
可能とした恩師にも感謝の気持ちを持ちました。
でもそうして数年ぶりという出会いは、またある事実を突きつけた気もします。
もう一人、別に会った伯母との出会いは3年ぶりでした。
会った場所は病院です。
伯母は、もうあまり先が長くないことを半月前に知りました。
数年前、私が韓国へ留学することに決めた直前に会ったのが最後でした。
そのときは、帰る私を走って追いかけてきてまでして「これ忘れてた」と
お小遣いをくれた記憶があります。
以前は、とても元気な人でした。
伯母の夫が病気がちであったことなどで色々と忙しく過ごしている人では
ありましたが、健康そのものという人でした。だから、長いこと会えなくとも、
いつかまた会える、元気な姿でまた会える、と思っていました。
でもそれは愚かな考えだったようです。
「人間、連絡無いのは元気な証拠」
こういういう言葉がありますが、それは若い頃や場合によって通用する
言葉なんだなと気がつかされました。
仲間と会うことにおいて、時に頻繁に会うこととともに、時に時間を置いて
会うことも、その会った時の喜びや、そこで話し合うことが出来る
「経験値」の深みという部分において、意外と良い意味をもたらしたりします。
でも人間の体というのは、そうして着々と時間と老い、また老いでなくとも
不健康な状態へと繋がっている場合が多いのですね。
帰宅時間になって、伯母に「帰るね」と言ってから伯母が自分の手を
離そうとしなかったこと。どうして長い間、顔出さなかったのか、
悔いてもしょうがないのだけれど、それでも悔いずにはいられませんでした。
繰り返すけれど、人間、いつも会える訳でないわけで、会おうとしても
会えなかったり、頻繁に会うより、たまに会う方がとても大事だったりします。
また老わずして・・・という突然のことも起きたりします。
そうした中で、久しぶりに会うことの喜びと悔いがあること、
それを同時に経験した一日でした。
