同タイトル1のつづきです。
気になった3つ以上の点、2つ目はこれではなくもう少し手前の頁だった記憶ですが、ひとまず昼に読んでいての感想をパン!と思い出せはしないので、また読み直すとして。3つ目と思しきほうから。
報告書の概要6ページの気になった点。
脚本家はクリエイターであり、その尊厳は尊重されるべきである。
これ、ちょっとテレビ局の拙速な利己主義がみえます。
脚本家がクリエイターであるためには脚本家が著作権を有していると言うに足るオリジナル作品を書く必要があります。だれかの著作物の移植、移項、意訳のようなことをする場合、それはクリエイターとしての純度は低下すると判断すべきです。
そしてまた、だれかの著作物の使用許諾を得て書く脚本であれば、プラス × マイナス = マイナス、プラス × プラス = プラスなどの掛け算を心がけてほしいですね。これどう考えるって、まず著作者としては改変しないことがプラスなんですよ。だから脚本家が自分のオリジナリティーをかけ合わせるつもりで掛け算すると、マイナスになるんです。ではどうしたらプラスになるかというと、自分のオリジナリティーでも著作者のオリジナリティーでもない、しかし著作者のオリジナリティーに影響を及ぼしたもの、つまり元ネタを掛け合わせるとプラスになりうるんです。
ほんとうにまっさらなゼロからイチを生み出せるヒトなどどこにもいません。ゼロは歴史的には便宜上あると数えがめでたくなるからと導入された新しい数値ですから、強いて言うならこのセカイに便宜上設定されている格差(男と女の差異、都と道府県の差異、上司と部下の差異など)から抽出される要素を用いてストーリーやキャラクターをつくることが、一応のゼロからイチを生み出すと自称他称してよい行為となります。それでも一応なので、必ずその創造には影響を及ぼしているものがあります。そこを掛け合わせるようにして改変すれば、プラス × プラス = プラスが見込めます。男性女性の言い争いではなく、男系女系の言い争いだと自覚されたし、女性差別より女系差別を論じるべしと私がいうひとつの理由でもあります。
男系女系の言い争いなのだという自覚や意識なしに、ただ男女問題が著作者の描いた話だろうなどと鷹揚にかまえて男女問題…恋愛をぶつければプラス×プラスになるかって、そんな甘い話ではありません。
脚本家は他の著作者の権利物を使用してそのクリエイターとしての純度がどの程度低下するのか、テレビドラマの作り方をよく知っていてきちんと時間におさめられるその手腕はクリエイティブではないのか。テレビ局は言いたくなるでしょうけど、そこはやはり、テレビ局スタッフスポンサーあわせても太刀打ちできないはずの人数が現にいる、著作者に影響を及ぼしたものたちを、有償無償問わず後ろ盾にした著作権者から使用許可を貰う側である以上、何割かはクリエイティブではない、と諦めなくてはならないところだと思います。そこを諦めないなら絶対に孤独や断続を承知でオリジナル作品に踏み出すべきです。オリジナルでないのに諦めないなら著作権者への果たし状をつきつける意味になってしまいます。しかもその果たし合い、近隣距離においては人数差がありすぎ(ここで過去記事『人口密度が過大になるとさー。』が関係してくる)。
わかりますよそれなりに。
テレビドラマをつくる側もオリジナル作品をやりたいなか、どうしても "嘘のつき方" がわからず、つぎはぎで成立し難いシナリオしか書けない痛し痒しの現実があるでしょう。
私から言わせれば専門符を勉強しないからだろ、と言いたくもなりますが、それはまぁ一旦置いといて。
形にできそうでできない、抽象的な文芸をもっていて、その形に類似した作品が世に出ている場合、その類似を踏襲することで断続が連続になる、そこに大金が、大きな経済効果がうまれるかもしれないときに、具象であってもたった1枚の紙ペラで、そのめを潰されてなるものかと憤慨する気持ち、それなりにわかりますよ。
でもね。
それをわかるひとがどれだけいます?
そしてまた、連続して世に出ることができた作品も、じつはそれきりの、限定的なひとびとしか関わらない、大した経済効果にはならないかもしれないんですよね。歴史に照らして残る名作、長く経済効果を生み続ける創作物がどれだけあるかという見方もあるってこと。
要するに火の気なんですよ、その、脚本家はクリエイターなんだから尊重せねばって態度は。
まず尊重するべきは誰か。
ある種の人達(顧問弁護師)は原作者だ、と言いたいところでしょうが、私は挿みますよ。
一刀両断するように言うと、まず尊重すべきはそのコンテンツによって無知を既知に変えるひとです。
そのコンテンツによって無知を既知に変えるひとを尊重するのをいちばんに考えないと、どんな作品もスポイラーズダイアリーにしかなりません。
無知を既知に変える人が、その知によって、より幸福追求できるように。最低限の文化水準に、そこからさらに高位の文化水準に達せるように支え助けるのが、文芸作品の最たる目的です。ここを外して特にさしたる苦しみやストレスもないくせに単なる嫌悪感のみで『堕落論』に染まってしまっては、まぁ、いろいろ悲惨な生贄を欲する社会になりますよそりゃ。
いちばんに尊重すべきそのひとを尊重したなら、つぎは著作者に影響を及ぼした人たち(ここで編集者もその他一見して部外者だけど直截な関係者も混在する)に人数ぶんで割っても尊重を、そのつぎに著作者、そのつぎにその著作権を使用する脚本家、そのつぎに…という順番になります。一見して部外者だけど直截な関係者に私のような者が含まれ得ます。有責範囲として遠い道府県に住まう者まで報いてられないよと言っていたら、その知とはなんのためにありますか?って話なんです。知らんぷりするためにあるのでは、それは攻撃性であり、他者を殺しうるもの、著作者を追い込みうるものです。電子計算機の時代、インターネット時代の到来で、本来割り算も容易くなったはずなのに、そこを知らんぷりして都は道府県を切り離しながらも道府県に知的財産までも貢いでもらうテメェ勝手を画策中とみえますが、それは閉じた発展性のない行き止まりの偽創作であるよということを、私は指摘しておきます。
気になった部分の書き出し、2つ目でこれですよ。
先が思いやられる。
だが、私は知らんぷりしようとしてするつもりはない。
この件、可能な限り読み書きしますよ。
無報酬のつもりでやっているんで、最後まで叶うかはわかりませんけどね。
こんばんは🙂