調査報告書の概要、を読みました。


気になった点は3点以上。

1つは、

ドラマ化する上で、演出上、演技や予算等の制約、スポンサーへの配慮等の理由により、一定の原作の改変が必要であるということは、原作者サイド(小学館、原作者)も理解していた。


これ、理解していなかったから原作通りにやってくれ、という承諾条件にしたんでしょう。のちに、その条件について齟齬があった、としてあり、つまり日本テレビとしてはその条件をそもそも伝えられていなかったか伝えられていても無視したか、どちらかということになります。前者であれば小学館が原作者を裏切ったかたちになりますし、後者であれば日本テレビが小学館と原作者を裏切ったことになります。

日本テレビとしては、脚本家のクレジットすら認めないという厳格な態度に出た原作者の意向のとおり、9話、10話の脚本を原作者に書かせたというからには、承諾条件如何に関わらず、根本的な、原作者の著作権がとても強いものであることを理解してはいたとみることができます。

私は亡くなったひとにひたすら優しいだけではないので、その時点で原作者は怒りをきちんと正当に通したのだから、あとは脚本家が法的手段に訴えると言って来ようと、堂々と、迷惑かけたなどと謝ることなく、堂々としていればよかったと私は思います。


ただ、承諾の条件を日本テレビが無視していた場合には、全10話中、実に8割も原作者に耐え難い心的な侵害を、スタッフやスポンサーら、大勢の人数によってやってしまったことになるので、これはかなりの賠償案件だと思います。


原作者 対 スタッフスポンサーテレビ局 というのは到底原作者にかかるプレッシャーからいって、改変を理解、というまでに原作者とスタッフやスポンサーたちが会合をしていたかといえば、絶対にそれはしていなかったろうという報告書のようですね。異なるメディアツールへの、移植、移項、意訳の理解をしてもらうからには脚本家と原作者とを突き合わせるだけでは不足があります。原作者の承諾条件に対して厳しく現実的な条件をもって向き合う態度が、プロジェクトの最初から必要ですし、それ以前に。スタッフやスポンサーやテレビ局は原作者の日々の苦労を、原作者は彼らの苦労をお互いに職場体験するくらいのことをするくらいが必要だと思います。


そこまでいって、その段階で、スタッフスポンサー云々は理解していた、と言えることでしょう。理解していたかどうかは原作者の内情なので、改変ありますけどそこはご理解いただけますね?──はい。のこの程度のやりとりでは人数の多さに圧倒されて「はい」と言わされたひと、というような違法な状況にもなりかねません。ここ、まずひとつの改善どころです。



台詞ひとつ発すること、仕草ひとつ表現すること、役者の仕事ひとつとっても、原作者はちょっと体験してみたらその意外な大変さ、不可能性に気づくはずです。ましてやほかの、音響、証明…。すべてを体験しないまでも、部分的に特にあまり知らない部分を幾つか選んで、原作者が別現場であっても体験すべきでしょうし、同様に、テレビ局のかなりの上とされる人も、原作者の漫画にベタ塗り、トーン貼りするくらいの体験をやるべきでしょう。相互インターンですね。それくらいしないと、お互いにどの程度の仕事量で、どの程度重たい社会テーマを扱おうとしているか、わからないのではないかと思います。


そう、ここでもうひとつ挿し挟まります。

その作品はどの程度重たい、大きい規模の社会テーマを扱っているか、こことの比率を考えるべきです。

原作者がひとりで、あまりにも大きい規模の社会問題を扱っているとしたら、これは追い込まれて精神を病むリスクはかなり大きいです。

相互インターンのあとは、その問題の大きさに比して、それぞれ各人の出すべき答えは、創作のキャラクターを凌駕している必要があります。でないと誰もフィクションですから関係ないですよ、なんて言えるほど、キャラクターをコントロールできないでしょう。


比率が大きいとき、原作者ならばキャラクターをコントロールできるというわけでもなくなります。

こうなると、たとえドラマ制作側と原作者サイドの相互理解が図れていても、世間との関連によって耐え難いノー・コントロールがしょうじると察します。




報告書の概要を読んで、気になった3つのうち1つは、だけで、上記です。

なかなか大変そうです。



なんの報酬ももらっていないで綴っている私は、イッキにやらずに、ボチボチ書いていくとしますよ。












こんにちは🙂