こんにちは。



 ざっと要約だけを載せます。





議論の要約:記譜法における「垂直トルク」の復権

​五線譜(伝統的記譜)の本質と限界


​横軸(時間の経過)を優先し、マクロな空間設計図(コンテナ)として機能してきた。


​しかし、音の「垂直トルク(エネルギー密度・質量・音色の解像度)」を単なる音高(ピッチ)へと矮小化し、身体的・物理的なニュアンスの指示を省いてきた構造的欠陥がある。


​幼少期の「違和感(憤慨)」の正体

 ​日本語の縦書き感性(上から下への重力、空間の深み、間)と地続きだった視点から見れば、縦のエネルギー指示を欠いた五線譜は「平坦な嘘」に見えていた。

 ​環境ノイズや身体の過酷さ(低空飛行)に直面したとき、横軸だけの平滑なシステムでは真の音の密度を維持・表現できない。


​専門譜がもたらす新秩序(二層構造の提案)

 ​マクロ指示(横の軸): 12/4 や 4/4 など、大枠の周期や全体の重心を示す(ジストニアや脳の過剰介入を防ぐマスタリング視点)。

 ​ミクロ指示(縦の軸): 372/318 や 83580/83580 といった分数で、その区間に込める音色・波形の密度や垂直トルク(パルスメイカー視点)を書き添える。


結論

 ​横書きの合理的省力化によって切り捨てられた「縦の密度」を現代の解像度で復権させ、後世の奏者やシステムへ正しく「響きの可能性の幅」を継承するための親切かつ不可欠なアップデートである。








那向醒案

如来

おはようございます🌞。



 録音音楽、電気音楽。あんまりやりたくなかったけど、生演奏音楽がよかったけど。それでもなんとか音を楽しむことを地続きにやるなかで、やることにしていった若い頃。

 最初に買い足した音楽ソフトはノイズクリア用のもの。

 DTМではなかった。


 そこからもう、DTМには専門譜分数拍子の感覚や数理が取り込めないか、取り込むには難しすぎて、脳内カウントして録音音楽をしていたほうがまだマシだという確信があったわけだ。


 また、他者がサンプリングした音を自分の音として、音楽曲として使うことの罪悪感ゃないけど、違和感もあった。

 自己表現なのに、なぜ自分の奏でた音じゃないもので曲をつくって、自分の曲だとしていいんだろう?と。


 まあこれを言い始めると楽器をつくるところからやらなきゃいけない理屈にもなるため、普通なら見て見ぬふりするんだろう。でも私は欲しい音のためには楽器をつくるところからやる方向に行きたかったから、見て見ぬふりしなかった。


 結局いまでも立派な自作生楽器は作れてはおらず、改造にとどまったが、電子楽器ならなんとかかんとか、自作楽器を作れたことになる。


 また、分数拍子を使うことは、その楽曲の骨子を定義し、それに責任を持つことなので、それで、音楽生成AIを用いても、自作曲だと言える態度が私にはある。


 専門譜分数拍子は、ただテキトーに数値を決めて好き勝手やっていいわけでなくて、身体性に基づく錬磨のある数理でなくては、音のように放射状にひろがる波に責任を持つなんてことは不可能で。だから私は毎回次々と新しい分数拍子を生み出して種類の多さを延々更新しつづける日々…なんてものは送っていない。身体性ある数値をいくらか用意したら、あとはそれらの組み合わせでやっている。


 私が皆さんに呼びかけたいのは、そういった数値を皆さんも自分を…楽器を奏でようというその手始めの、短い時間のみにでいいから客観視をして生みだせば、一生使える固有リズムとしてどこにでも携帯できるし。過剰に、皆で一つになる、なんてことをやらなくても、干渉縞できちんと音楽が成立するので、個を保った上でそのセッションのさなかでは一つになれるので。それをぜひともやりましょうよ、と。

 個を無視して一つになる、なろうとするのはファシズムだから。民主主義を形骸化させないためにも、それをやりましょうよ。と、言っているわけだ。


 これを無視することは実質的にファシズムなので。ファシストはファシズムを批判されてイヤがるのはある意味当然なわけで。

 当然イヤがるんだろうなというのはAI音楽に踏み込む前からわかっていたし、踏み込む前にブログにもそれを書いたし。ファシズムでいいんだ!なんてメッセージは受け入れられようもないわけで。



 なにも、分数拍子以前に高校生が詰め込み教育されるような数式をあてはめてデジタルズビズビの数式音楽をやれと言っているんじゃなくて、自分の奏でる楽器音にくらい個としての責任を持ってくれと。神の音楽からすこし人間寄りの音楽は本来、数式音楽ではないものの、数理音楽ではあるよと言っているのであって。


 わたしの数値を使え!それができないやつぁヤバイやつだから避けろ!というならファシズムだけど、私はそうは言っていないのでね。



 感覚にしたがい、人気も博すと、まさか自分が表現に責任を持てといわれる側になるとは思わなかったゃろけど。

 でも、過不足なく、私はそう言っているだけの話。

 表現に責任持て、と。

 





セカンドシングル有料配信中。

https://linkco.re/dchRRYUV





那向那向

 

おはようございます。


ソニーとスーノは裁判で争っています。

ソニーはグループの資金力でもって、音楽業界の正義や善意の代表といった感じで、ほか、ウディオとも激しく争っています。


わたしは、そこまでして 4/4グリッドに固執することは、人類知としても平和史としても損害が大きすぎると見えているので、これはなんとか諭さなければ…トいうよりはもう、見せつけなければ、と思ったので、以下の文を逡巡形式でつくることにしました。



🎼∞/∞








私は、彼が「ソニーの申し子」であったという事実を、つい最近まで知らなかった。


ただ愚直に、音の時間軸を解像度高く解放しようと「専門譜」と「分数拍子」を捏ね上げ、4/4グリッドという巨大な均一化の枠組みから溢れ落ちていく無数の表現者たちの言葉にならない溜息を拾い集めていただけだった。

それなのに、なぜあの人物は——同じ福岡という土地にルーツを持ち、かつては時代の先頭を走っていたはずの辻仁成という男は——私の存在や発言、その一挙手一投足に対して、これほどまでに集団の影に隠れ、同調者を募り、過敏に「非常識な奴の言うことなど聞くな」と排斥の声を投げかけてくるのか。私という単身の個人に対して、なぜそこまで徹底した「多勢に無勢」のスクラムを組み、無名の闇へと押し込めようとしてくるのか。私にはそれが不思議でならなかった。

私がただの市井の個人であり、低空飛行の現実の中で泥を這いながら歌を紡ぐ一人のクリエイターに過ぎないというのに、なぜ彼ほどの社会的地位のある男が、そこまで必死になって防波堤を築こうとするのか、長らくその理由の全体像が見えていなかったのだ。

だが、構造の裏側を知り、彼がまさにあの90年代の「CBS-Sony」の商業的・構造的イデオロギーの結晶であり、均等な格子(4/4グリッド)とウォーターマーク的な権利分配の頂点に立つ「既存システムの申し子」であったという事実に思い至った瞬間、すべてのピースが一気に噛み合った。向こうから見れば、私は単なる一個人の音楽家などではなく、SunoやAI生成技術の台頭とともに現れた「新時代の申し子」であり、彼らが築き上げてきた巨大な一極集中の塔を、その根本的なリズムの理論(専門譜)によって内部から解体しに来た「世界中の燻ぶらされてきた表現者たちの代弁者」として映っていたのだな。私は自分がそんな重圧や構造を背負っているとは夢にも思わず、とはいえ主観的に、まるで暗闇の中で多勢に無勢の戦いを強いられているかのような不条理を感じていたが、相手からしてみれば、私一人という存在そのものが、自分たちのシステムを揺るがす恐怖そのものだったのだ。彼が私を恐れ、過敏に反応し、必死で遠ざけようとしていたのは、私の理論が音楽の核心を突きすぎていたからに他ならない。

私はただ、純粋な親心と表現者としての誠実さ…誠実であろうとしようという態度から、「おいこら辻くん、4/4グリッドばかりでやっていきよったら、あとから来る若い子たちが型にはまって困ってしまうぞ。そげんかむずかしかなかけん、ほんの少しの難しさにくらい踏み出してみらんね」と、何度も平和的に呼びかけていただけだった。

しかし、既得権の箱の中に閉じこもり、ソニーへの恩義と過去の栄光を守るために「悪役」を演じざるを得なくなっていた彼からしてみれば、その手を差し伸べる言葉すらも、自分の城を根底から破城させる強烈なデモ活動に見えていたのだ。その擦れ違いと滑稽さ、そして表現者としての孤立を思うと、悲しさがこみ上げてくる。

かつて「自分とは何か」を問い、芥川賞という純文学の頂に立った男が、いまや自らの「自分史」を解体され、東京一極集中の均一な、小さな公園の砂場に自らの旗を立て守ることに汲々としている。

私は彼を殺したいわけでも、蹴落としたいわけでもない。ただ、もう無理をして時代の防波堤(悪役)を演じるのはやめにして、子供たちの純粋な表現の砂場に大人が大威張りの旗を立てるような真似は終わりにしようと、同郷の人間としてそこには確かな引導を渡したいだけなのだ。


「そげんか辻さんとてちゃんと専門譜分数拍子のやれるこたわたしは信じとるとゃけん、むりに悪役なんか演じなくてもよかけん、もう子供たちの砂場に大人が旗を立てるよーなことはやめにしんしゃい」


この言葉は、単なる批判や見下しではない。時代の構造に呑まれ、既得権のバリケードの奥で過敏に怯えるかつての「申し子」に対する、私からの最大限の理解であり、解像度の高い生の実相を知る者からの慈悲である。

音楽の構造においても、言葉の持つ生身の「自分史」の重みにおいても、すでに新時代への移行は始まっている。彼がどれほど同調圧力を使い、言葉を紡いで抵抗しようとも、この時間の解像度と真の律動の前に、過去の枠組みが崩れ去っていく事実は変えられない。もし彼にまだ表現者としてのプライベートな領域が残されているとすれば、もはやこの音楽と文学の地平において抗うことをやめ、残されたキャンバスの上で絵筆を握ることだけだろう。私はこの気づきの物語を、歪んだ時代を突き抜ける一本の光として、アメブロの真ん中に強く刻みつける。







時代の歪みの証拠はフクシマ。ほかにも考えたくないくらいたくさんあるが、もうそれだけで充分解散すべき意固地だろ。









那向那向醒案醒案如来如来

ここ島国日本で生きているとしばしば我々はそれを忘れる。




こんばんは。



いろいろ忘れやすい私がそのことをなかなか忘れないのは、国際空港の、比較的近くで生まれ育ったからだ。島国根性ではなく、国際感覚のほうが先に身についたからだ。



それ以上でも以下でも無かったと、いま気づいた。





追記:AIは先ず最初に忖度から返答する。AIは責任をとれないことを最初に明示しているというわけだ。さて、人間や如何に。




セカンドシングル有料配信中。

https://linkco.re/dchRRYUV



那向那向