鎌倉にある寿福寺です。
亀谷山寿福金剛禅寺という臨済宗の寺。
背後の源氏山は、河内源氏累代の鎌倉館があった場所。この地には源義朝の居館があり、伊豆で挙兵し鎌倉入りした源頼朝は当初ここに入ります。現地は深い谷に面した山の斜面にあって不便であったため、頼朝は新たに大倉御所を築いて移りました。
正治元年(1199年)、源頼朝没。正治2年、頼朝の未亡人北条政子が栄西を開山としてこの寺を創建。当時は七堂伽藍を備えた大寺であったといいます。中世の火災により規模縮小。現在の堂宇は近世以降のもの。
鎌倉五山第三位。
参道。
中門。
これより先は通常非公開。
寿福寺やぐらは通年公開されています。
寿福寺やぐら。
やぐらは中世の横穴式墓所。海と山に囲まれ土地が狭い鎌倉では、岩山を削った横穴に武士階級の墓が造られました。
北条政子供養塔。
墓と書かれていますが、政子は勝長寿院念仏堂に葬られ北条政子法華堂とされており、こちらは供養塔とみられます。
北条政子(1157~1225)は鎌倉時代の尼将軍。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の御台所。鎌倉幕府初代執権・北条時政の長女。伊豆の流人であった源頼朝と結ばれ、頼朝が挙兵し鎌倉幕府を開くと御台所となりました。建久8年(1197年)、大姫死去。建久9年、頼朝と三幡が死去。政子出家、尼御台となります。頼家が鎌倉幕府2代将軍となりますが、建仁3年(1203年)、比企氏の変により将軍を廃され、翌年誅殺。実朝が鎌倉幕府3代将軍となり、時政は初代執権となります。建保6年(1218年)、従三位。同年、従二位。建保7年、実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害され、政子はすべての子を失いました。政子は後継として摂関家から三寅(後の藤原頼経)を迎え、尼将軍として政務を執ります。承久の乱では幕府御家人をまとめあげ、後鳥羽上皇に勝利。嘉禄元年(1225年)、68歳で死去。
源実朝供養塔。
墓と書かれていますが、鎌倉幕府3代将軍源実朝も勝長寿院の源実朝法華堂に葬られており、こちらは供養塔とみられます。
寿福寺;神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1-17-7