大蔵幕府蕾蹟碑~鎌倉幕府発祥の地 | 古都の礎

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鎌倉にある大蔵幕府蕾蹟碑です。

 

 

鎌倉幕府発祥の地。

河内源氏・源頼義は、鎌倉に拠点を持つ平直方の娘婿となり、直方の鎌倉の居館を譲り受けます。頼義の曾孫・源義朝は平治の乱に敗れ鎌倉へ逃れる途中、尾張で殺害され、遺児の源頼朝は伊豆に流されました。

治承4年(1180年)、以仁王の令旨を受けた頼朝は伊豆で兵を挙げるも石橋山の戦いで敗走。同年、安房国で再起、鎌倉に入ります。従来の鎌倉の居館は扇ヶ谷という谷にあって狭く、頼朝は大きく南に開けた大倉郷に新たな屋敷を新造。大倉御所と呼ばれます。元暦元年(1184年)、公文所(政務、財務、公文書作成)、問注所(裁判所)設置。文治元年(1185年)、守護・地頭設置。建久2年(1191年)、公文所を政所と改称。建久3年、頼朝は征夷大将軍となりました。

建久10年、頼朝は大倉御所で没。大倉御所は鎌倉幕府2代将軍・源頼家の御所となります。建仁3年(1203年)、頼家は外祖父北条時政によって伊豆修善寺に追放、翌年殺害されます。大倉御所は引き続き鎌倉幕府3代将軍・源実朝の御所となり、建保3年(1218年)、実朝が鶴岡八幡宮において甥の公暁に殺害されると、頼朝の未亡人・北条政子が大倉御所において尼将軍として政務を取りました。

同年、将軍後継として3歳の三寅(後の藤原頼経)が摂関家から迎えられると、政子の弟北条義時が自邸大倉亭に南御所を新造して住まわせました。承久元年(1219年)、大倉御所焼失。政子は義時の大倉亭南御所に移って没し、以降は再建されませんでした。

現在、清泉小学校前に碑が建てられています。

 

 

 

大倉幕府蕾蹟碑;神奈川県鎌倉市雪ノ下3