柏原にある徳源寺跡です。

 

 

織田信休に始まる柏原藩後期織田家の菩提寺、徳源寺があった跡地。

織田信長の次男織田信雄は小牧長久手の戦い後織田家家督を継いで宇陀松山藩主となるも、徳川家康に警戒されて生涯領地に赴くことを許されず、京で軟禁されて死去。信雄の子、宇陀松山藩2代藩主織田高長は初めて領地に赴き、宇陀に信雄の菩提寺として徳源寺を創建。宇陀松山藩織田家菩提寺となりました。元禄7年(1694年)、4代藩主織田信武は家臣の田中安定を手討ちとし、自身も自殺(宇陀崩れ)。5代藩主織田信休は家督相続を許されるも減俸されて柏原藩への転封を命じられ、徳源寺も柏原に移転となりました。宇陀徳源寺にあった宇陀松山藩織田家4代の墓は摠見寺へ移転。この地には織田信休から織田信民までとその夫人らの墓があります。

徳源寺は明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、柏原藩織田家廟所のみが残っています。

 

 

柏原藩織田家廟所。

 

 

長徳院正厳宗統大居士(織田信休)墓。

織田信休(1678~1723)は宇陀松山藩5代藩主、柏原藩4代藩主。宇陀松山藩4代藩主織田信休の子。母は、広幡督姫。元禄7年、父信武が家臣の田中安定を手討ちとし自身も自殺した宇陀崩れにより家督相続。この騒動により信休は宇陀松山藩2万8000石から柏原藩2万石に減封して転封。正徳4年(1714年)、柏原陣屋を整備。享保7年(1722年)、45歳で死去。

 

 

水月院殿浄厳宗阿大居士(織田信朝)墓。

織田信朝(1709~1737)は柏原藩5代藩主。柏原藩4代藩主織田信休の次男。享保7年、父の死により家督相続。元文2年(1737年)、29歳で没。

 

 

廬月院還厳紹阿大居士(織田信旧)墓。

織田信旧(1710~1783)は柏原藩6代藩主。柏原藩4代藩主織田信休の三男。元文2年(1737年)、柏原藩5代藩主であった兄信朝が嗣子なく没し、末期養子となって家督相続。長男、次男を早くに亡くした信旧は、宝暦8年(1758年)、分家の旗本長政流織田家(宇陀松山藩2代藩主織田高長の三男長政に始まる家)より織田信憑を養子に迎え継嗣とします。同年、信旧に実子の三男信応が誕生。天明3年(1783年)、74歳で死去。

 

 

宝寿院殿高巖宗徳大居士(織田信憑)供養塔。

織田信憑の墓は東京広徳寺にあり、こちらは供養塔。

織田信憑(1741~1832)は柏原藩7代藩主。旗本織田信栄の次男。宝暦3年、男子2人を亡くした柏原藩6代藩主織田信旧の養嗣子となります。同年、信旧に実子の三男信応が誕生。天明3年、養父信旧の死により家督相続。寛政元年(1789年)、養父信旧の遺児信応を養嗣子とします。享和元年(1741年)、信応が先に死去。長男の信守を後継に据えます。文化12年(1815年)、参勤交代などの大名の責務を怠らず勤めたとして従五位下から従四位下に昇進、柳の間詰から大広間詰に昇格。文政12年(1827年)、信守に家督を譲り87歳で隠居。天保2年(1832年)、92歳で死去。

 

 

良心院殿隨巖紹伝大居士(織田信守)供養塔。

織田信守の墓は東京広徳寺にあり、こちらは供養塔。

織田信守(1772~1840)は柏原藩8代藩主。柏原藩7代藩主織田信憑の長男。父信憑は柏原藩6代藩主織田信旧の養子で、信旧の実子信応が養嗣子となるも早世したため、信守が継嗣となります。文政4年頃、信守は長男信貞を後嗣に立てるべく、信応の遺児信古の廃嫡を試みます(秘命騒動)。家臣の反発に遭い、やむなく長女安子を信古に娶らせた上で、文政6年、信古を婿養子として養嗣子としました。文政12年、信古に家督を譲り隠居。天保9年、柏原で隠居生活を送る信守は暇を持て余し、江戸藩邸に移り住もうとします。家臣たちは江戸での浪費を案じ、江戸藩邸にいた信守の側室保野を柏原に移すことで納得してもらおうとしますが、保野の下女しまが信古は信守と保野を柏原に幽閉しようとしていると幕府に直訴(保野騒動)。幕府はその事実はないとしながらも、騒動を起こした引責として藩主信古に逼塞、先代藩主信守に遠慮を申し付けました。天保11年、69歳で死去。

 

 

寶鏡院殿中室妙正大姉(堀寿姫)墓。

堀寿姫は柏原藩10代藩主織田信貞の正室。越後村松藩8代藩主堀直庸の四女。下野黒羽藩12代藩主大関増儀の継室でしたが離縁、織田信貞と再婚しました。

 

 

良性院殿温室妙恭日譽大姉(織田鶴姫)墓。

織田鶴姫(1837~1896)は柏原藩11代藩主織田信敬の正室。柏原藩9代藩主織田信古の長女。父信古は織田信休以来の血を引く直系、鶴姫はその唯一の子。天保13年、父信古が隠居。分家筋の織田信貞が10代藩主となり、鶴姫はその養女となります。弘化3年(1847年)、信貞が死去。肥後宇土藩主細川行芬の三男信敬が信貞の末期養子として11代藩主になり、嘉永4年(1851年)、鶴姫は信敬と結婚。2年後、夫信敬が18歳で死去。鶴姫は17歳で未亡人となります。周囲は鶴姫に再婚を勧めますが、拒否。文久3年(1863年)、江戸藩邸から柏原へ移ります。明治20年(1896年)、柏原において60歳で死去。

 

 

寛恒院殿温巖紹良大居士(織田信民)墓。

織田信民(1840~1865)は柏原藩12代藩主。秋月藩10代藩主黒田長元の四男。母は黒田慶姫。柏原藩11代藩主織田信敬が嗣子なく18歳で没した後、末期養子として柏原藩主となります。慶応元年(1865年)、26歳で死去。

 

 

 

徳源寺;兵庫県丹波市柏原町東奥