あれからー出会いとつながり『幻の旅路』に登場した人々(1)
『幻の旅路』に登場した人たちは、あれからどうなったでしょう。
私の近況も含めて、3部にわたってお話ししましょう。
*画面を大きくしてご覧ください。
あれから(1)
(1)ジョルジュ・プレートル(ウィーン交響楽団の終身名誉指揮者)
Georges Pretre Conductor (1924-2017)
(2)ジャン・ピエール (Jean-Pierre Ronssin)
(3)ファニー
(4)スイスの友だち:マーラさん
(5)エリザベス
(6)シロ
あれから(2)
(7)バイオリニストのマーク
(8)バイオリニストの亀井由紀子さん
あれから(3)
(9)ディーニュのホテルの子供たちーノエミ
(10)ドミニク
(11)ベニスのホテルで出会った大学教授の親子
(12)私自身のこと
(1)ジョルジュ・プレートル(ウィーン交響楽団の終身名誉指揮者)
Georges Pretre Conductor (1924-2017)
覚えていますか?
第6章。
1983年のこと。
『バーデン・バーデンに再度訪れる』のエピソード。
その中で、帰りの駅のホームで、一際目立つ親子を見かけて、その時の感想を述べていますね。
垢抜けない田舎町のどこにでもあるような駅の構内に、真っ赤なコートを着た母親やハイヒールの娘、それに父親の3人、彼らの周囲には特別な囲いがあって、近づけない雰囲気でした。
そんな彼らの顔立ちについて、私は極めて厳しい批評を述べているのです。
普通でしたら、そんなことも気にせず、口にしないのですが、彼らの持つ独特な雰囲気が、周囲とそぐわず、違和感を覚えて、そんな酷評をしました。
それから何年も経って。
2008年ですね。
お正月にウィーンからの生中継で、ウィーン交響楽団の演奏がテレビで放映されました。(ニューイヤー・コンサート)
素晴らしいですね。
カメラが、指揮者の表情を捉えます。
「あれ、どこかで見た顔だ」
そうだ、忘れもしないバーデン・バーデンの駅の構内で見た父親です。
確かに、この人です。
タクシードに身を包んだ彼は、私が駅の構内で感じた印象とは全く違って、美しい笑みを浮かべ、楽団を指揮しています。
なんとこの男性、ウィーン交響楽団の首席指揮者だったのです。
私が見かけた時は、彼は59歳。
フランス人です。
それで周りのドイツ人たちとは違った雰囲気を持っていたのでしょう。
それに世界的に有名なウィーン交響楽団のトップの指揮者だったとは、当然、特別なオーラを放っていて、それが威圧的にも思えたのです。
『高い独創性と華やかな創造力を持つ指揮者と評される』と、音楽界では超一流の一流と言っても過言でない最高の指揮者。
私の無知もいいところです。
何せ、なんの知識も無しに、外観だけで判断し、批判していたのですから、これこそ穴があったら入りたいという心境です。
それに心底から深く謝りたい。
彼の指揮するYouTubeを観ました。
本当に素晴らしの一言です。
改めて彼の表現溢れる指揮者ぶりを見て、感激しています。
The 2010 Vienna Philharmonic New Year’s Concert with Georges Pretre
Bizet: Video Sinfonia in do Maggiore/Georges Pretre/Orch Scarlatti Rai (19.1.1973)
(2)ジャン・ピエール (Jean-Pierre Ronssin)
第1章から第7章まで、全ての章に登場するフランス人の男性。
映画一筋に生きてきて、今ではパリの映画界ではかなり有名な監督で、シナリオライターで俳優です。
フランスではアメリカのアカデミー賞に当たる、名誉あるセザール賞で脚本賞を獲得しています。
ずっと前に『幻の旅路』を送りましたが、戻ってきました。
多分いらないのだろうと思って、長い間放っておいたのですが、最近になってメールで問い合わせたら、送って欲しいと返事がきたので送りました。
今度は無事着いたようです。
昔と同じ住所に住んでいます。
パリの真ん中ですが。
1992年でしたか、夫とパリを訪れた時に、招かれて、モロッコの料理、クスクスのランチをご馳走になりました。
夫と彼は、『小津監督』や『溝口監督』、それに『アニエス・ヴェルダ監督』など、映画の話で盛り上がっていました。
コンピューターが普及し始めた頃で、ジャン・ピエールは近代器具の弊害を述べていて、僕は絶対コンピューターは使わないと言っていましたが、今はどうでしょう。
その時も質素な暮らしをしていましたが、本を出版する時に連絡したときも、生活は楽ではないと書いてありました。
最高の映画賞を獲得していても、経済的な成功とは結びつかないようです。
映画(芸術)の道一筋を今なお追求し続けている彼には、到底頭が上がりません。
Awards: Cesar Award for Best Writing
Nominations: Cesar Award for Best Writing
1 『幻の旅路』より ジャン・ピェールと歩く
2『幻の旅路』より ジャン・ピェールと
3『幻の旅路』より ジャン・ピェールと
(3)ファニー
私にとっては妹のようなイタリア人女性、ファニー。
お父さんもお母さんもずっと前に亡くなって、大きなうちに一人暮らし。
この家のことで、銀行とのやりとりがうまくいかず、ずっと頭を痛めている。
どことは言わなかったけれど、体調もすぐれないらしい。
弟のポールも離婚したと書いてあった。
なんだか昔と違って元気がない。
いまは、姉弟ふたりで、ベニス・マストレのうちに住んでいるのかもしれない。
いつか連絡してみよう。
(4)スイスの友だち:マーラさん
ホテルの持ち主、バークハウザー夫妻。
ご主人が亡くなった後も、奥さんのマーラさんと、とても親しく行き来していた。
2016年、2017年、2018年、2019年と、彼女に4年続けて会ったが、クリスマスカードが来なくなり、2023年、彼女が亡くなったと知らせがきた。
私にとっては第2の故郷、いや第1の故郷と言ってもいいくらい、大好きな『ラングナウ』の町。
そこのホテルのオーナーと友だちになって、スイスに行く時は、ホテルに隣接しているアパートに泊まらせてもらった。
前回行った時も、マーラさんとランチを一緒にし、彼女の山の家に遊びに行ったり、近くの山にケーブルカーで登ったりと、最高に楽しい時間を過ごした。
私にとっては姉のような存在だった彼女がいなくなったスイスは、いくら自然が美しくても、すっかり魅力がなくなった。
もう2度と訪れることのない『ラングナウ』やエメンタール地方、美しい思い出でだけが私の心をいっぱいにしてくれる。
マーラさんの山の家やアパートが写っているYouTube:
(5)エリザベス
ベニスに行く列車の中で出会ったスイスの家族。
幸せいっぱいの人たちだった。
ところが、お父さんが朝日に目が眩んで対向車が見えず衝突事故で亡くなった。
お兄さんも交通事故に遭った。
体が不自由になって、会社を辞めて、お父さんが撮った鉄道列車の写真を編集して本を出版。
これはいいニュース。
お母さんが自転車に乗っている時に車と接触事故。
2018年に会った時は、杖をついてラングナウのホテルまで会いにきてくれた。
と、思いがけないことばかりが続く。
昨年連絡したら、今度はエリザベスのご主人がスキー場で事故死。
なんと次から次へと想像もつかないほどの不慮の出来事が重なる。
私が出会った頃は、家族全員健康で、とても幸せだった。
エリザベスは、夫が亡くなってから、生活が一変してしまったとメールに書いてあった。
今は老いたお母さんの介護で忙しくしているのだろう。
(6)シロ
第7章に登場したシロとフィリップ。
スイスの片田舎のホテルで、電話をかけるのを親切に教えてくれたカップルだ。
シロは、アルコール中毒の夫と離婚して、彼の間にできた子供を育て上げた。
優しい性格だったが、お酒を飲むと人が変わってしまったフィリップ。
離婚して間もなく亡くなった。
シロは同じ国鉄に勤めている男性と今は一緒に生活している。
彼にも子供がいて、おっとりした性格の男性らしい。
休暇になると、シロとパートナーの男性は、鉄道の旅をする代わりに、キャンピングカーでヨーロッパ大陸を旅行している。
この前スイスに行った時も、彼女とは湖を遊覧船で回りながら、ゆっくり話ができた。
マロングラッセを一緒に食べたのも楽しい思い出である。
スイスの湖畔の動画:
*次のブログに続いています。
あれからー出会いとつながり『幻の旅路』に登場した人々(2)
バロセロナで出会ったバイオリニスト。
写真を紹介したテレビ番組をDVDに編集した時に、彼のメールアドレスを見つけて、送った。
今回、本を送りたいと問い合わせたら、ぜひ送って欲しいと返事がきた。
自分の人生で大きな変化は離婚したことだと書いてあった。
音楽家の生活、音楽家の夫婦、自分の時間、自分の世界が大切な芸術家にとって、家庭を継続するのは、忍耐や調整が必要なのだろう。
人は最期まで自分の幸せを追求する権利がある。
それだから、マークのように寂しさと共存しながらでも、独りぼっちの道を選ぶのかもしれない。
彼との思い出深い出会いは、次のブログに載っている。
1 『幻の旅路』より バルセロナでバイオリニストに出会う
2 『幻の旅路』より バルセロナでバイオリニストに出会う
3 『幻の旅路』より バルセロナでバイオリニストに出会う
4 『幻の旅路』より バルセロナでバイオリニストに出会う
5 『幻の旅路』より バロセロナでバイオリニストに出会う
(8)バイオリニストの亀井由紀子さん
第4章、バロセロナでバイオリニストのマークに出会った話の中で、最初の晩に、亀井由紀子さんの名前が出てくるのですが、その箇所、覚えていますか?
マークが知っているか尋ねてきて、私が南カリフォルニア大学で映画を専攻していた時に、たまたま私のフィルムに出演し、演奏してくれた女性である。
あまりの偶然にとても驚きました。
彼女はハイフェッツの愛弟子。
それにしても、すごい人にお願いしたものです。
それから何年も経って。
下のブログをお読みになった方は、お分かりになるでしょう。
6 日本人バイオリニスト、倉形(亀井)由紀子さんと52年後の出会い(#1)
6 日本人バイオリニスト、倉形(亀井)由紀子さんと52年後の出会い(#2)
なんと52年も経って、連絡がつき、彼女に『幻の旅路』を送りました。
由紀子さんはサンフランシスコ・シンフォニーの第一バイオリン奏者として活躍していらっしゃいました。
彼女の演奏するCDを送ってくださって、今はそのCDを毎日のように聴いています。
次の曲は、由紀子さんが送ってくださったCDの一番最初に収録されているクライスラー作曲の『前奏曲とアレグロ』です。
*次のブログに続いています。
あれからー出会いとつながり『幻の旅路』に登場した人々(3)
*画面を大きくして、文字を拡大してお読みください。
(9)ディーニュのホテルの子供たちーノエミ
1 『幻の旅路』より ディーニュのホテルの家族と
2 『幻の旅路』より ディーニュのホテルの家族と
3 『幻の旅路』より ディーニュのホテルの家族と
ホテルのオーナー、ミスター・リコーが亡くなった後、長女のノエミが後を継いで、ホテルのマネージャーになった。
でも、彼女は料理をするのは大得意だが、お客の接待が苦手。
母親にテーブルを回るのは任せていた。
2017年にディーニュを訪れた時は、お母さんは初期のアルツハイマーになっていた。
ホテルは昔のまま。
格式のある独特な雰囲気を持ったホテルだが、今風ではない。
友だちのドミニクをランチに招いたら、彼女、大学でビジネスを教えているせいかとても辛口の批評家。
幾つも空席のあるレストランを見回して、壁紙も古いし、ひと昔のホテルだから、これでは商売上がったりだ、と言っていた。
ホテルの家族は私にとっては家族同然。
3人の子供たちはすっかり成長して、ノエミはホテル経営、ライオネルは消防士、マリエルは心の病気があるので休み休み仕事をしている。
でも誰一人結婚していないから、ホテルの後を継ぐ人もいない。
ミセス・リコーは美しい女性で年取ってもそれは変わらなかったが、2018年、2回目に訪ねていった時は施設に入っていた。
2021年にはコロナに感染して亡くなった。
ノエミからいつもこれからどうしていいか迷っているというメールが届く。
山の家をレンタルにして、そこでレストランを開こうかとも考えているが、先のことを考えると不安になると書いてあった。
現在、ホテルは閉鎖している違いない。
私がずっと昔訪れた時は、村の人たちがいつもランチに来ていたし、盛大な結婚式があったりして、それは、それは、楽しい賑やかなホテルだった。
いまはアルプスの北風が吹く谷間にひっそりと建物だけが残っている。
昔が華やかだった故に、なおさら悲しさと寂しさが交錯する。
子供たち3人に今すぐにでも会いに行きたいが、何せこの体と現状を考えると絶対不可能。
とても残念だ。
ディーニュのホテルや町の様子がわかる動画
(10)ドミニク
1981年、フランスのお城めぐりをしていた時に、城を案内してくれたドミニク。
頑張り屋さんで努力家。
2010年だったか、『幻の旅路』を編集している時だった。
アメリカに来て、ロス・アンジェルスにも寄ってくれた。
得意の英語を使って、インターナショナル・ビジネス大学の教授になっていた。
娘が通っていたサンタ・バーバラの大学のキャンパスを案内したり、パロス・バルデスをドライブしたり、楽しい時間を過ごした。
ドミニクを案内したパロス・バルデスとサンタ・バーバラの動画
2017年、2018年とディーニュを訪れた時、マルセーユから車を飛ばして会いにきてくれた。
前向きな飾らない人柄で、猫ちゃんとハズバンドとマルセーユから少し離れた古い町に住んでいる。
しっかり者の彼女、老後の計画もきちんとできていて、経済的に困らないように、自分の名前でアパートを持っていると言っていた。
(11)ベニスのホテルで出会った大学教授の親子
もう2度と会うことも連絡することもない人たちだが、心に残っている人たちがいる。
その中の一人、二人といったらいいだろう。
心に残っているというと、何か特別な意味があるように聞こえるが、実は私の恥ずかしい経験に結びついているので、思い出したのである。
これは話すのには勇気がいるが、私がひどく『ケッチった話』である。
1981年、ベニスを訪れた時、島中が洪水で、宿泊したホテルも冠水した。
そのホテルで出会った大学教授とその娘の話だが、島を訪れた後、キャフェテリアで食事をし、私が少しばかりのリラが足りなくて、大学教授に立て替えてもらった。
確か、50円ぐらいだったと思う。
正確な金額は忘れてしまったが、とにかく少額である。
あれと思ったのだが、彼はその時、いいですよと言わなかった。
もちろん翌日返金したが、彼らとのお付き合いもそれでおしまい。
それから何十年も経った時のこと。
今度は、私がひどくケチをして、それがいまだに気に掛かっている。
どうしてそのような行動に出たか、自分でも理解できないのだが、確かに、その時の一瞬の判断で、「割り勘にしましょう」と私から申し出たのだ。
しかも、たった800円のトマトジュースの代金を支払ってあげず、そう言った私の『ケチ根性』。
余りのケチさに、自分でも呆れてしまうが、どうもわからない。
言っておくが、私は決してケチな人間ではない。
話はこうだ。
『幻の旅路』を母校の小学校に寄贈しようと、学校を訪れ、校長先生と学長先生にお会いした。
帰り際に、学長先生からアメリカに移住したい女性がいるので会って欲しいと頼まれた。
それでその彼女に会ったのだが。
韓国人で、日本人男性と結婚している。
小柄なとても可愛い、誰でも好きになりそうな感じの女性だった。
日本人好みの韓国女性と言ったらいいだろうか。
日本にいるのがとても楽しそうで、仕事も持っていて、周囲の人たちからも優遇されているような印象を受けた。
彼女の作品だったか、あるいは他の作家だったか、忘れてしまったが、スエーデンに養子に送られた韓国の子供たちについての本をくれた。
会話が終わって、席を立つ時、私はどうした訳か「割り勘にしましょう」と言った。
なんとしたことか。
ケチもケチ。
最高にケチなおばさんだ。
たった800円なのに、自分の分は自分で支払ってもらった。
さて、これからが本題。
その時の私の心理を色々な角度から分析してみると。
*私はもちろん絶対彼女に偏見など持っていない。
彼女が韓国の人だから、そうしたのではない。
*彼女自身、経済的に困っているようには全然見えなかった。
*とても可愛い魅力的な女性で、日本の社会でも、彼女を優遇しているように見えた。
*アメリカに夫婦で行きたいと言っているが、何が目的かわからない。
ただ、アメリカの方が生活しやすいからと安易な期待を持っているようだった。
*今回は私の方からではなく、彼女が色々と情報が欲しくて、私と会った。
*これから先、会うこともないだろう、あるいは、特別にまた時間を作って会う必要もない人に思えた。
と、まあ、そんな色々な理由で、「割り勘にしましょう」と、口から先に、ついその言葉が出てきてしまったのだ。
それから何年も後になってからも、この時の判断が正しかったかどうか、疑問に思う。
やはり年上の私が支払うのべきだったのではなかろうか。
いや、この場合、私の方が彼女のために時間を作って会ってあげたのだから、これでいいのだとか、色々考える。
自己弁護に過ぎないかもしれないが、極めて少額でも、奢ってやったり、割り勘にしたりという行為には、とても微妙な心理が働いている。
『幻の旅路』に出てきた大学教授の行動も、軽はずみに非難したが、彼も一瞬のうちに色々なことを考えて、そうしたのかもしれない。
ということは、私こそ思慮が足りなくて、批判されるべき立場の人間だったようだ。
それにしても、長年アメリカに住んでいて、見栄も、恥もなったのか、それとも合理性を追求する姿勢が身についてしまったのか、自分でもどちらかわからない。
多分、全部が当てはまるだろう。
とにかく、『ケチおばさん』の悪名のレッテルは一生ついて回りそうだ。
P.S.
*記事を載せてから、自分のとった行動について、また色々と考えています。
あの時、彼女の分を支払っていたら、こんなに迷うこともなかったのですが。
実は、私の場合、アメリカ留学を決心してから5年の月日を費やしました。
家族も親戚もいない国で、一人で生活することは、大変なことでした。
それに比べて、この女性は異国の日本でも、夫の収入で生活が安定して、快適に過ごしているように見えました。
夫婦揃ってアメリカ移住することも、とても安易に考えている印象を受けたので、これから先、これ以上、彼女の手助けをする必要もないと感じたのでしょう。
(12)私自身のこと
『幻の旅路』の中で次のエピソードを覚えていますか。
*ジュネーブに行く列車の中で一緒になったフランス人のお婆さん。
友だちを訪ねていく途中でしたね。
自分が年取って忘れっぽくなっているのを棚に上げて、色々と愚痴をこぼしていました。
2 『幻の旅路』より ジュネーブに行く列車のなかで
*フランス・リビエラの海岸。
モントンという町のレストラン。
むっつり顔で食事をしている老人たち。
話すことは、ここが痛い、あそこが痛いと病気のことばかり。
あるいは誰が亡くなったとか、暗い話ばかり。
これでは笑い顔など出てきません。
*列車の中で出会った足の悪いアメリカ人中年の男性、私に断りなく、私のスーツケースの上に両脚を載っけていました。
その時は失礼な男性だと思ったのですが。
実はね。
白状しましょう。
2019年、スイスに行った時でしたか。
私も脚が腫れて痛くて仕方がないので、空港に向かう朝の通勤列車の中で、座席の前に置いた自分のスーツケースですが、その上に両脚を載せていました。
もちろん靴は脱いで載せましたよ。
駅に着いた時に、お行儀が悪くてごめんなさいと一言謝ったら、体の方が大切だからとかなんとか返事が返ってきましたが、
「無作法な日本人のおばさん(おばあさん)だ」と思われたに違いありません。
『幻の旅路』より マルセイユに行く列車のなかで 余計な節介を焼く
本の中の私は、若くて元気で、足も痛くなく、いつも笑っていたけれど、今の私はすっかり年取って、上に描かれている老人たちの姿です。
何もかも、あれからすっかり変わりました。
『老いと病い』が同時に襲ってきて、その調整に戸惑っている私です。
先日ドライクリーニング屋さんに行ったら、お店の人が「疲れた顔をしているね」と言いました。
苦労して育てた養女が今はすっかり成長して、4月にはママになりました。
私も立派な『おばあちゃん』です。
次の世代が無事この世に生まれてきたので、私たち夫婦の使命も一応終わった気がしました。
将来がある赤ちゃんのニュースは、老いていく私たちに元気を与えてくれます。
『幻の旅路』は、日本中の図書館、大学、そして、アメリカにある日本語学校、日本語科目がある大学に寄贈しました。
このブログにも、いくつかハイライトのエピソードを引用して載せています。