1 『幻の旅路』より ディーニュのホテルの家族と | 『幻の旅路』大湾節子のブログ

1 『幻の旅路』より ディーニュのホテルの家族と

1982年10月17日
モンテカルロ↓ニース↓ディーニュ・レ・バン

『ホテルの家族に会う』

目指(めざ)すグランド・パリ・ホテルは公園のすぐ横に位置していて、この町では一番大きく三つ星(現在は四つ星)の高級ホテルに属していた。

十七世紀のトリニア修道院を改造して造ったという二十室のこぢんまりとした親しみやすいホテルで、道を隔てて建(へだ)てられた別館はハイシーズンの時だけ開けるらしい。

畳(たたみ)十畳(じゅうじょう)もないスペースのロビーには大きな鳥かごが置かれ、その中に色彩豊かな小鳥たちが飛び回っている。

その隣の陳列(ちんれつ)ケースにはこの地方独特の陶器(とうき)の皿や水差しが飾られて、小さなカウンターには花瓶(かびん)から溢(あふ)れるように新鮮な生花が生(い)けられている。

どこを見回しても細かい所まで行き届いたこのホテルの持ち主の心遣(こころづか)いが感じられる。
  
ロビーで背の高い痩せた女性が腰をかがめて客を相手に話をしている。
ショートカットがとても似合う、こんな田舎の町に似つかわしくない美しい品のある女性である。

彼女たちの話が終わるのを待っていたが、終わりそうもない。

カウンターに白髪の眼鏡をかけた初老の婦人が顔だけちょこんと出して座っているのに気がついて、彼女の所にいく。

小太りのいかにも温和なおばさんで、女学生のように白ブラウスに黒いスカートを履(は)いている。
襟(えり)は黒くて細いリボンを蝶結(ちょうむす)びしていて、可愛らしい。

彼女に、
「ミスター・セトを訪ねて来た」
と言ったら、女学生のような高いソプラノの声で、
「彼はいま休み時間で外に出ているよ」
とニコニコして教えてくれる。

なるほど瀬戸さんがディーニュのホテルでは家族の一員として扱ってくれると手紙に書いていたが、こんな優しいおばさんが受付に働いているなら分かる気がする。

背の高い女性が話を終えて私の所に来て、ミセス・リコーだと自己紹介し、ホテルで待っているかと尋ねたので、荷物をロビーに置かせてもらいカメラを片手に町を一回りしにいく。
  
ホテル裏の路地を抜けてポプラ並木の大通りの土産物屋を覗(のぞ)くと、ホテルの陳列(ちんれつ)ケースに飾られていた皿や水差しの陶器を売っていた。

柔らかいクリーム色っぽい白地に黄緑、水色、黄土色、それに縁取りに黒と限られた色を使ったあっさりした一筆書きの鳥や花の模様で、いかにもプロバンス的な素朴(そぼく)な陶器だ。

この辺りはラベンダーの栽培(さいばい)が盛んで、石鹸(せっけん)、ポプリ、ろうそくなどラベンダーを使った商品も沢山置いてある。

二十分もしないで町を一周して、カフェでお茶とケーキを注文し、そこで十分粘(ねば)って体を温めてから外に出る。

ディーニュの盆地にアルプスの山々から直接冷たい北風が吹きつけてくる。
ひどく寒い。

長い毛糸のスカーフを顔中に巻き付け、目だけ出し体を縮めて河原の横を歩いていたら、反対の方からぞろぞろと人がこちらに向かってやってくる。

その群集の中に一際(ひときわ)痩(や)せて小柄な東洋人の顔を見つける。
「瀬戸さーん!」
と、大声で声をかけると、初めはキョトンとしていたが、
「あれ! 来てたのか」
と、癖のある言い方で、ひどく喜んでくれる。
サッカーの試合を観に行っていたのだという。

この町で一番洒落ているカフェに連れていってもらい、そこでもまた熱いコーヒーを飲んで体を温めホテルに帰る。 
  
ホテルの部屋を案内される。
エレベーターはついてなく、美しいカーペットが敷いてある狭い階段を上がっていく。

階段の踊り場の壁には由緒(ゆいしょ)ありそうなタピストリーが掛けられ、その隅に大きな壷(つぼ)や植木鉢に入った観葉植物が置かれている。
修道院を改造したというだけあって、優雅な造りの格調(かくちょう)高いホテルである。

小さな客室は淡いピンクの色彩(しきさい)でまとめられ、旅人(たびびと)を暖かく迎え入れてくれる。
  
今日は日曜日なのでホテルのレストランはお休み。
ホテルの家族を紹介してもらう。

オーナーのミスター・リコーはパリに出張中で、彼の留守中はミスター・セトがレストランの台所を一切仕切(しき)るという。

先ほど会った美しい中年の女性がオーナーの奥さんでアルザス地方ストラスブール出身。物静かなやや憂(うれ)いのある婦人だ。
レストランが開いている時はかいがいしく動き回っている。

痩(や)せた背の高い老婦人はミスター・リコーのお母さん。
ホテルの向かいに住んでいて、毎日ホテルに顔を出して、軽い手伝いをしている。

三人の子供たちを紹介される。
毎日美味しい物を食べ放題食べているだろうに、三人ともガリガリに痩せている。

一番上の息子がライオネル。
本来ならこのホテルを継(つ)ぐべき人間なのに、彼はそんなビジネスは全く興味ない。

毎朝裏山に登って、昼食時、おめかしした客で一杯のレストランに泥と汗まみれのTシャツ姿で現れる。

そんな姿を見て、両親はハラハラしながらも苦笑(くしょう)している。
彼は冒険家で将来登山家志望。
まだニキビ面の十四歳の若者だ。

愛嬌(あいきょう)一杯の娘ノエミは十歳。
三人の中で一番積極的で社交的、将来はこの子がホテルを引き継ぐらしい。

全く肉のついていない顔に大きな目と口元がチャーミングに動く。
人なつっこい子だ。

マリエルは九歳、両親の良いところだけとった美しい顔立ちをしている女の子で、大人しく落ち着いている。

そしてもう一人、大切な人がいる。
ディーニュ生まれでここから一歩も出たことがないというジャックリーヌおばさんだ。

ミスター・リコーのお父さんの時代からこのホテルで働いていて、英語のうまい彼女は受付の仕事をしている。

若い時に転んで、それ以来ビッコを引いている。
一生独身の彼女は年取った母親と猫以外、一人も身寄りがない。

それでも彼女には冷たいオールドミスのイメージはこれっぽちもない、温かい心の持ち主だ。(*注1)
それからロビーに寝転がっている老犬一匹、彼もここの家族だ。


(*注1)
ジャックリーヌおばさんは『結納金は猫一匹』に登場する。


『幻の旅路』第5章 1982年、第5回目の旅 (P361—364)より引用 一部ブログ用