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歴史公園の夢と足跡

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城下町未来(吉良の荘)
歴史公園を中心に昔今(夢)の物語を

 歴史公園の夢と足跡

    西尾城 本丸丑寅櫓
 

 歴史公園 尚古荘


歴史公園の夢と足跡

昭和初期に、米穀商の大黒屋岩崎明三郎氏によって作られた日本式庭園です。


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   一歩中に

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西尾城東の丸太鼓門城内へ

 

左に東の丸の丑寅櫓、その下のお堀を含めた辺りが明治33~35年に東側隣の須田町の鍋屋がお堀を埋めたことで、庭続きになり


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大広間はお茶会など貸切で各種のイベントが行われ、

市民の憩いの場所として和ませてくれています


 城郭への入口であった新門や内堀の一部と東之丸丑寅櫓など歴史遺産を活用して庭園設計がされています。西尾城への思いから、尚古荘と命名されました。


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   歴史公園の夢と足跡
    水琴窟の音色の響き


 もと鍋屋の別邸として造られた不言庵は、明治3335年に造られました。

 四阿(あずまや)からの眺望は別格です。


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 東の丸の丑寅櫓跡に四阿(あずまや) 
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 四阿よりの庭園 壱  四阿よりの庭園 二

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四阿よりの庭園 参   四阿よりの不言庵

  

 庭園内の池も、お堀を埋め戻した際に出来た窪みをいかしながら、


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   不言庵  お堀跡のから池


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土塁も出来るだけ残し、


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 お堀跡の池より四阿   お堀跡の池


その間に石を配し水を流して滝などに見立てるなど、遺構をいかしながら新しい庭園設計を


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 左に中くぐり門で内路地と外路地に区別され、
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     歴史公園の夢と足跡

茶室には歩幅にあわせた間隔に飛び石が配置

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 大広間より

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  四阿よりの不言庵への道  

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 四阿よりの不言庵前のお堀跡の池
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     不言庵の入り口と井戸
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      東側にも四阿

 当時の名古屋の一流の庭を手掛けた、お茶のわびさびの利いた庭園として、足立庭師が創意工夫して完成されました

    
  歴史公園の夢と足跡
  尚古荘より歴史公園の旧近衛邸へ
          12.1撮影

 



ご縁があり、訪問頂き

      皆様に ありがとうございます。


   

 よろしくお願いします。
      

吉良荘にしおの案内人ようさん




















 


 




  
 


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ふるさとを目指して伊豆の子浦湊を船出したのが、 新暦の1126文化十年(一八一三年)陰暦十一月四日朝。


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港を出るときはよく晴れて順風だった。

だが日がとっぷり暮れたころ、風が変わりし出した、海は夜目にも白い波がしらを躍らせながら!「おーい。これは、ただの風ではない。雲が、渦巻いて飛ぶように流れて行くぜ」嵐になるぞ、帆を、帆を降ろすんだ。遠州灘で嵐に見舞われたのです。


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夜に入って雨風はさらにますます激しさを、四方に小山のような波が砕け始めた、

その時、名古屋は矢場出身の水主(かこ)の要吉が波にさらわれてしまった、助けるすべもなくそのまま船は猛烈な早さで風に流された。


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重吉たち十四人の水主(かこ)は必死になって湊に戻ろうとしたが、船は自然の巨大な魔物の力に沖合に引きずられて行く。


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夜が明けて11月27日も風はおさまらない、いのちと頼む舵を折られ、帆柱も既に切り倒してあり、督乗丸は自由を失い漂流をはじめました。


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御前崎沖の辺りを天龍川沖に雨はやんだが風と波はまだおさまらない。重吉たち十四人の水主(かこ)全員髪を切って神に祈ることしかできず、


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おみくじで伊良湖沖と出た。 

      つづく


ギネス世界記録に申請し、(漂流484日間)

受理されました。





参考資料



 船長日記 池田寛親自筆本

 愛知の輝く人々

 ふるさと散歩道

 一色の民話

 漂流の記録

千石船200年目海の男 「船頭(キャプテン)重吉の会」

会長 水野克宣氏

    村松澄之氏

    鈴木太吉の船長日記

会員 案内人のようさん


  歴史公園の夢と足跡 歴史公園の夢と足跡
   船頭重吉のせんべい3枚一組 製作




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船頭(ふなおさ)日記(にっき)


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三河の国吉良荘の佐久島の(崇運寺家康に縁)黒壁の風景



この江戸時代に三河の国吉良荘佐久島生まれの重吉は漂流中に書き止めた記録を生還後、

松前藩で奉行村上貞助の事情聴取(口書)うける。そして1822年に池田広親(幕臣新見伊賀の守正路の家老)出会う。




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御前御崎沖で時化に遭遇


漂流から生還後4年間までの仔細を、池田広親に体験を洩らさずに語り、池田広親は船頭(ふなおさ)日記(にっき)完成し世間に公表。直後から日記は次々と写本され、日本人は、この時代には外国事情に餓えていたと思われます。



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鈴木太吉の船頭日記よりの直筆本の一部



   


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 船頭日記の直筆本が、1988年に新城市の宗堅寺で発見、長年探し求めていた鈴木太吉が直筆本と認定されました。(新城市の文化財に指定)


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船頭日記にての年表


伊豆半島は子浦の湊を18131126日(江戸時代の文化10年潤月114日)この日付けは救助されたフォレスタ号の船長の手紙に救助年月日18153月と位置が記され、この年月日は重吉の日記とピッタリ一致。




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  地元紙に

ギネス世界記録に申請し、受理されました。




参考資料


 船長日記 池田寛親自筆本

 愛知の輝く人々

 ふるさと散歩道

 一色の民話

千石船200年目海の男 「船頭(キャプテン)重吉の会」

会長 水野克宣氏

    村松澄之氏

    鈴木太吉の船長日記

会員 案内人のようさん








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船頭重吉のせんべい3枚一組 製作



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