陸中山田境田のトラ
吉良荘にしおに
あばれ舞う
(画像をクリックで拡大鮮明になります)
虎の頭と黄色い布をかぶって2人1組で踊られる虎舞は、浄瑠璃「国姓爺合戦」を元に虎退治が演じられる。
「虎は1日千里行き、千里戻る」と言われることから
舞も囃子も一段と活気をおび舞のクライマックスは、追い込まれた虎が手負いとなって荒れ狂い、流石の猟師や勢子達も及ばなくなるが、気丈な和籐内が登場し叶明神のお札をかかげて虎を鎮めたというストーリー
西尾の伊文神社の祇園祭り
かつて三河三都と呼ばれた吉良荘にしおの伊文神社の祇園祭が持つ歴史は長く、記録を紐解けば天正19年(1591年)に御神輿が創られてより数えても414年 御旅所
西尾祇園祭り
祇園祭の由来
備後風土記に、武塔神(素盞嗚尊)が一夜の宿を借りたお礼に蘇民将来に茅の輪を授けたというお話しがあります。この地に疫病が猛威を振るったとき、茅の輪を授けられた蘇民将来の一族だけは無事に生き残った事から、スサノオノミコトは疫病除けの神様として祀られて参りました。
また、祗園精舎の守り神とされた牛頭天王の住んでいた牛頭山には『せんだん』と呼ばれる熱病に効く野草が生えていた事から、牛頭天王は疫病の神様として知られていました。
祇園祭りの大名行列1714年に
西尾城主土井利意公に
よって始まる
いろんな店が路上にそれぞれに
工夫し、立ち並んで
虎は出番を淨賢寺で待つ
このお寺は源氏の総領の印の髭切丸を足利義氏が承久の乱(1221年)の軍功により三河の守護職になり、この吉良荘に城を築き、北条政子の妹が妻でもあり、源頼朝亡き後息子の三代実朝も亡くなり、源氏の血筋が絶えるのを危惧し、足利義氏も正当な源氏の血筋でも有り、その城の守護神として八幡宮に髭切丸と白旗を神宝として北条政子より頂き奉納しました。
そして宮の名前を御剣八幡宮として、宮には平安時代初期より、六坊に守られて居ました、その一つが西光坊であり、淨賢寺の前身です。
県外初の公演を
陸中山田境田虎舞い 威信にかけ
いざ出陣
名鉄西尾駅前特設会場へ
いよいよ会場入りです
PM4.00 第一回目公演が
地元の女子高歓迎を受け
山田町の虎舞は、「虎は一日にして千里いって、千里帰る」ということわざから漁師が無事に帰ることを念じ、
虎の習性に託した踊りで、毎年9月、八幡宮の例大祭で大漁と商売繁盛を祈願して奉納されます
特設舞台は岩手山田から17時間以上かけて大型トラックで直接搬入しされました。
なを狂う暴れ舞う
叶明神のお札をかかげて虎を鎮めた。
虎舞由来
虎舞の起源 虎舞については諸説が多く明確な伝承は不明であるが、 ...
当地 釜石、大槌地区に口伝として先人より伝えられている、 今から およそ830年程前、鎮西八郎為朝(1139~1177?)は源義朝の弟の三男で、陸奥の国を領有していた閉伊頼基が、将士の士気を鼓舞するため虎の縫いぐるみを着けて踊らせたと伝えられる。
鎮西八郎為朝は頼朝や義経の叔父にあたるが、鎮西八郎為朝、のお爺さん義親と足利氏の始祖義国とが兄弟になります。
ご縁があり、訪問頂き
皆様に ありがとうございます。
よろしくお願いします。
吉良荘にしおの案内人ようさん