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國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-5

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(單位共同社會)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869964.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (單位共同社會)-5



 このやうに、自立再生論の目指す單(単)位共同社會(会)は、家族を原型とし、それが部族、地域、國(国)家へと相似的に擴(拡)大して行く雛形理論に適ふものであるが、その祖型は、天照大神(神)の「御統の珠」(みすまるのたま)にある。『古事記』(上卷(巻))には、天照大の左右の御美豆羅(みみづら)にも、御蔓(みかづら)にも、そして左右の御手にも、「各纏持八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而(おのおのやさかのまがたまのいほつのみすまるのたまをまきもちて)」とあり、この「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」は繰り返し登場する。この「御統の珠」の示は、數(数)多くの々を魂を壞(壊)さずに一つの連珠に繋ぎ合はせて、一つの統一された魂とすることにある。これは、珠やロザリオと同樣(様)の構造であつて、境をなくして一つのに纏めるのではなく、個々の自立した社會(会)家を連結させることであり、まさに位共同社は、「御統の珠」の一つ一つの珠を意味してゐるのである。これは、歌「君が代」の「細石の巖と成りて(さざれいしのいはほとなりて)」に通ずるものである。これこそが眞(真)の意味での「八紘爲(為)宇」の姿である。


 自立再生論は、これら御神敕(神勅)體(体)現したものであり、その目指すものは、世界が自立再生論を選擇(択)し、これに基づく經濟(経済)政策を實(実)現して絶對(対)平和を現することである。トマス・モアの『ユートピア』、つまり「どこにもない場所」を探し求めるのではなく、單(単)位共同社會(会)が「どこにでもある場所」とすることである。そして、その指標は、自立再生論に基づく自給自足の閉鎖循環系である「位共同社の極小化」にある。世界主義や經濟圈(圏)擴(拡)大主義(例へば、EC統合、道洲制)などの「散指向」は、「位共同社の極大化」をめざすものであり、それを地球規模にまで張することに飽き足らず、宇宙まで取り込むに至る。「散指向」によれば、地球の内部矛盾を隱蔽して一層深刻化させることは必至である。この「散指向」を捨てて、「位共同社の極小化」による「集束指向」によらなければ、地球と人類は救はれない。これまでの歴史は、「散指向」でここまで散・大してきた。人類は、そのまま放置すれば、散指向にあることから、「集束指向」の政策によつて均衡を保つことができるのである。


 このやうにして、世界の人々が雛形理論に基づいた自立再生論によつて國(国)際社會(会)が集束(みすまる)したとき、そのとき同時に世界の人々の祭祀も復興し、すめらみことの御代となるのである。



國體護持 第六章 第四節 萬葉一統 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304874958.html

國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-4

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(單位共同社會)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869964.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (單位共同社會)-4



 この自立再生の理念は、我が國(国)國體(体)の精華であるにとどまらず、全世界を遍照する金剛智であつて、單(単)に、經濟(経済)的側面のみならず、政治・文化・教育・生活その他の全ての社會(会)事象を調和させる。そして、經濟以外の不安定要因である宗教と民族の問題についても、宗教集團(団)や民族集は、自づとそれぞれ同一の構成員による獨(独)立した位共同社に分離されて生活することになるから、これらの問題も殆ど解消するに至る。つまり、宗教紛爭(争)や民族紛といふものは、分業化制の現實(実)からして、どうしても異宗教徒同士や異民族同士が、それぞれの生活を維持するために混在混住し、雇用關(関)係や事業係などの經濟的な相互係を持たざるをえないことが最大の原因となつてゐる。そこで、位共同社が形成され、それが大家族まで極小化して行く過程の中で、異宗教徒や異民族との經濟的な相互依存係が棲(住)み分けによつて解消する方向へ向かひ、紛の根本原因が消滅することになるのである。



 そして、このやうな紛爭(争)原因が縮小し解消することによつて官僚統制國(国)家(全體(体)主義)の役割も終了し、世界維新が實(実)現し、世界と地球には再び安寧が蘇る。



 この世界維新とは、神敕(神勅)の成就であり、その神敕とは、「修理固成」の御神敕のことである。つまり、天つが伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱のに賜はれた「於是天神諸命以、詔伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱神、修理固成是多陀用弊流之國、賜天沼矛而、言依賜也。(ここにあまつかみもろもろののみこともちて、いざなきのみこと、いざなみのみこと、ふたはしらのかみに、このただよへるくにををさめつくりかためなせ、とのりて、あめのぬぼこをたまひて、ことよさしたまひき。)」(古事記上卷(巻))の御神敕である。さらに、この御神敕は、天照大(アマテラスオホミカミ)が皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に賜はれた天孫降臨時の「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。(あしはらのちいほあきのみづほのくには、これ、わがうみのこのきみたるべきくになり。いましすめみま、いでましてしらせ。さまくませ。あまのひつぎのさかえまさむこと、まさにあまつちときはまりなけむ。)」(日本書紀第二代下第九段一書第一)といふ「天壤無窮」の御神敕と、武天皇の「上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。(かみはあまつかみのくにをさづけたまひしみうつくしびにこたへ、しもはすめみまのただしきみちをやしなひたまひしみこころをひろめむ。しかうしてのちに、くにのうちをかねてみやこをひらき、あめのしたをおほひていへにせむこと、またよからずや。)」(日本書紀第三武天皇即位前己未年三月)といふ「八紘爲(為)宇」の御詔へと連なる。これを現代において具體(体)化しうるのが、この自立再生論なのである。



 ところで、「無爲(為)自然」などが老荘思想における中心的な概念とされるが、『老子』(文獻(献)15)の第三十八章には「無爲而無不爲(無にしてさざるは無し)」とあり、第二十五章には「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」とあることから、「無」は、「不」(何もしない)といふ意味ではない。いはば、無理をしてすことはせず、自然に營(営)むことである。これは、『古事記』の「修理固成」に通ずるものであり、雛形理論や本能論、さらに、自立再生論とも融合するものである。




國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-5 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304873843.html

國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-3

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(單位共同社會)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869964.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (單位共同社會)-3



 そして、これらの「再生税」と「福祉税」の使途分配の決定を行ふ「小さな政府」を維持するため、さらに「人頭税」を徴收する。「小さな政府」の機構を維持する費用は、全構成員の負擔(担)すべき共益費用であるから、各人の平等負擔(担)にかかる「人頭税」によることになる。貧富や所得格差による人頭税の一律負による問題は、別途の福祉政策で解消すべきものである。そもそも、自立再生論は、公的扶助や公的年金を原則として必要としない社會(会)實(実)現することにあり、それまでの過渡的な政策として福祉政策を認識する必要がある。


 そして、その政府の豫(予)算規模の範圍(囲)は、人頭税の總(総)額を限度とし、また、それで充分である。その意味ではこの人頭税も目的税である。その結果、「小さな政府」である單(単)位共同社會(会)とその連合體(体)國(国)家は、一人一票の選擧(挙)權(権)と一律定額の人頭税とが對應(対応)して、參(参)と納税の義務との統合がなされ、新たな地方自治と國(国)政が運營(営)される時代が到來(来)するのである。


 各家族が家産を形成して行くことになることからすると、現行の野放圖(図)な個人破産の制度は廢(廃)止し、家族の連帯責任制度の導入を檢(検)討する必要がある。個人主義とか自己責任を唱へながら個人破産を容認することは矛盾するのである。現行の破産制度の運用實(実)態は、事業者破産も非事業者(消費者)破産も、無責任な「信用制度」が破綻してゐることの現象に他ならない。無謀な賭博的事業の清算といふ事業者破産や返濟(済)畫(画)のない詐欺的借入による消費者破産を許容する社會(会)であつてはならない。これこそが自立再生社會(会)實(実)現の妨げとなるからである。


 このやうな諸政策を重畳的に實(実)施にして、全世界が自立再生論に基づく社會(会)體(体)制となれば、世界は安定した公平社として蘇生する。人々は、自立再生社の構成員となり、勞(労)働を提供して生産し、かつ、物資を消費する地位にあることを自覺(覚)するために、家族單(単)位で人口調整を行ふ。國(国)家においても、自給自足經濟(経済)の社現するために、人口調整の政策を施せざるを得なくなる。それゆゑ、人口問題は、自立再生社へと移行する過程の中で解消する方向へ向かふ。



國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-4 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304873052.html

國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-2

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(單位共同社會)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869964.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (單位共同社會)-2



 また、單(単)位共同社會(会)の出現は、國(国)家の枠組みにも變(変)化を生じさせるであらう。それぞれの位共同社は、食料調達における主要産業の種類(農業、林業、漁業、牧畜業など)やその稻(稲)作漁撈(労)文化及び畑作牧畜文化による生活の態樣(様)作、畑作、植林、伐採、採取、狩獵(猟)、畜産、漁など)に關(関)して、地理的・地勢學(学)的かつ生態的に共通した他の位共同社における自然現象の化やその對應(対応)についての情報を統一的に處(処)理・分析する必要がある。そして、類似する多數(数)位共同社の各情報を統括して分析處(処)理し、各位共同社に必要な情報を傳(伝)達する統合機關(関)として、これらの共同社群で構成する連合體(体)家である。そして、これらの家の連合として、際的な情報統合機關(関)としての世界連邦が存在することになる。


 單(単)位共同社會(会)國(国)家の運營(営)における基本原則は、生産・流通・消費・再生の各産業部門が固有の産業原價(価)の負擔(担)に加へて、再生循環に必要な「再生原」を應(応)分負することにある。しかも、その分業は次第に解消し、これらが統合された人のみへと向かふ。即ち、事業者と消費者とが一體(体)体する方向の中で、自己の活動に伴つて生ずる「ゴミ」を自ら資源として再生處(処)理し、その費用を負することである。しかし、位共同社の内部だけでは技術的などの理由で再生理が不可能なものについては、その位共同社に隣接する他の位共同社などと連合協同して共同負によつて再生理をなし、それでも不可能な場合は、さらに、その輪を同心圓(円)的に擴(拡)大した連合體(体)の中で協同理することになる。そして、その同心の最大のものが家といふことになる。これも入れ子構造(雛形構造)をなしてゐる。


 そして、その費用負擔(担)の割合は、受益者負又は汚染者負の原則に基づいて目的税方式にて決定する。これは「流通税」の性質を持つ「再生税」といふことになる。


 「小さな政府」の税制の基本は、現代のやうに「普通税」を基本とする税制ではなく、逆に、このやうに「目的税」を原則としなければならない。また、もう一つ別の大きな「目的税」として位共同社やその連合體(体)、さらに國(国)家に必要なものは、老幼病障などの弱者保護の共助原則に基づいて、「資産税」の性質を持つ「福祉税」を導入することである。弱者を切り捨てる社は、如何なる意味においても肯定しえない。また、民の大半を占める非事業者(雇用者)の「所得」に課税することは、自立再生社へと移行するために各家庭が創意工夫して自助努力することに必要な財源を奪ふことになるので、原則として非課税とする。特に、農地などの自立再生用の「家産」を形成するものは不讓渡約束を條(条)件として、課税對(対)象から除外する。これらを非課税としなければ、自立再生社の構築を促進しえないからである。それ以外の金融資産や自立再生用の家産を形成しない土地などに課税することになる。


 その他、資本制社會(会)から自立再生社へと移行させるためには、商人(反復繼續(継続)して営利を目的とする事業活動をなす者。法人を含む。)の所得については課税することになる。非事業者(非商人)であつても、利潤を發(発)生させる取引については同樣(様)とする。


 また、資本主義的活動が収縮することによる失業者の増大に對(対)して、新たな雇用を創出する政策が必要となる。自給自足制への移行と自立再生社會(会)の極小化のための新たな事業によつて雇用が創出されることの外に、勞(労)働集約産業を保護して雇用の安定確保を圖(図)るため、雇用者數(数)の増加に伴つて減税率を累進させる、いはば「累退税率」による課税を適用する。



國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304872503.html

國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-1

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (單位共同社會)-1



 民度の向上が國(国)家の健全さの指標である。經濟(経済)統計上の數(数)値では到底認識しえないものである。



 我がにおいて、神(神)道的な部民制の時代においては、祭祀の「齊(斉)(いつき)」を鎭守し、文化、教育、醫(医)療、治水、農業、漁業、林業、工業その他の産業に關(関)する技能や技術の習得については、職能別の專門集團(団)が徒弟制度などによるその技術の承繼(継)と教育を施した。これは、大政翼贊會(会)運動における「職域奉公」に通底するものがある。それが「部民」であり、「部(べ、たむろ)」は、場所と集とが一體(体)となつた概念であつて、それが古代における自給自足の單(単)位となつて民度を高めてきた。



 このやうな原始風景に導かれて、世界各國(国)が自立再生經濟(経済)に向かへば、將來(将来)は次のやうな理想社會(会)が出現する。即ち、家族全員は大家族で生活し、その家で電力その他のエネルギーや食料を自給し、水も汚水處(処)理して循環再生し、屎尿も肥料として再生理して使用する方向へと向かふ。人々は、心身を鍛へ德器を磨き、公共・公益のための學(学)問と技術の研鑚(けんさん・深く極めること)に熱心であり、世界の隅々まで情報通信網は網羅され、いづれの人々も自立再生してゐ閉鎖循環系の自給自足社が極小化した最小單(単)位としての共同社(以下「位共同社」といふ。)に屬(属)してゐる。この位共同社は、水脈や地勢を基準として地理的、地政學(学)的かつ生態的に決定される。水は、生活と産業において最も不可缺(欠)なものであり、山から泉が湧き、それが川となつて農村と都市を潤して海へと注がれ、その海から雲が起こり、やがて山河に雨を降らせ、山河はこれを水源として涵養(かんよう・水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること)するといふ「水の輪廻」を基準として、各閉鎖循環系の極小化された自給自足社の最小位となつた「位共同社」は構成されるのである。



 人々は、原則として、その單(単)位共同社會(会)内で、その他の生活必需品の調達をし、醫(医)療、教育及び勞(労)働の機を持つてゐる。そして、海も空も川も湖も澄んでをり、生きとし生けるものは山河と共生してゐる。この位共同社の地理的範圍(囲)は、我が國(国)を例にとれば、位共同社とは無縁の線引きで區(区)別された都道府縣や、そのなる組合せである道洲制とは根本的に異なる。豫(予)爭(争)奪のための地方分權(権)などは些末で危險(険)滿(満)ちた議論である。重要なことは、自立再生經濟(経済)への取り組みなのである。



 それが方向付けられれば、すべての問題がこの方向で收斂(しゅうれん・集約)していく。たとへば、雇用問題も然りである。究極の雇用對(対)策とは、雇用生活者をなくすことである。つまり、自立再生社會(会)となることは、分業體(体)制から合業的統合へと向かひ、人を企業の被用者から自營(営)者へと轉(転)換させることであり、雇用關(関)係に伴ふ紛爭(争)や諸問題を質量共に縮小していくことなのである。



 拜金(拝金・金銭を最高のものとして、極度に尊重すること)主義は霧散し、家族團(団)欒が復活して、「もののあはれ」が味はえる精神(神)的に餘(余)裕のある社會(会)實(実)現し、せき立てられるやうな世知辛い暮らしを續(続)けることはなくなる。



 單(単)位共同社會(会)の究極的な理想は、その位が「家族」となることである。しかも、それは、核家族ではなく、歴史、文化、傳(伝)統などを承して搖籃しうる「大家族」である。大家族位で自給自足の自立再生が實(実)現すれば、治安、秩序などにおいても諸問題は殆ど解決するであらう。




國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304871447.html

國體護持 第六章 第三節 (第一次産業)

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (第一次産業)



 さらに、食料の自給に關(関)連して、米(コメ)について考へる。當(当)初、米(コメ)の自由化要求に對(対)して、「一粒たりとも入れてはならない。」との主張があつたが、これは過去の「攘夷(じょうい・外敵を追い払って国内に入れないこと)論」のやうに、その後の政策展望を持たない情緒的なものであることは否めない。しかし、この主張は、連合國(国)の走狗となつて食料自給率をさらに低下させることに「寛容」な貿易立論者よりも、「危險(険)」にする本能的感性は優れてゐる。この議論は、實(実)は、前述のとほり、自立再生論へ轉(転)換するか貿易依存を維持するかの選擇(択)を迫られてゐる根本問題なのであるが、「食料安保」の中身が全く認識されてゐない不毛の議論でもある。しかし、この足下の問題は、自立再生經濟(経済)の理解を深める絶好の機會(会)であつて、その換をはかりうる好機なのである。


 ところで、米(コメ)だけに限らず、第一次産業の農業、林業、漁業の在り方については、現在のところ基本的には「大規模集中型」の供給體(体)制によることになる。それは、供給效(効)率や産業の性質による制約に由來(来)するからである。特に、日本の稻(稲)作農業は林業と一となつて水源を涵養(かんよう・水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること)し治水に貢獻(献)してきたものであり、現在の地勢や土地利用を大きく變(変)更することは國(国)土自の生態系を攪亂(乱)させることになる。そこで、農業、林業、漁業については、技術面、經營(経営)面などの直接的な側面の外に、農村・漁村の過疎對(対)策・後繼(継)者問題などの間接的・多角的な側面からも、農用地、森林及び漁場等の適正保護や流通部門の整備を含め、自給率向上のための總(総)合的な改善計畫(画)實(実)施が必要となつてくる。しかし、これと併用して、都市近郊地域や都市部の農用地を整備し、「小規模分散型」の食料供給制をも檢(検)討すべきであらう。觸(触)媒技術、發(発)酵技術、溶液栽培技術、養殖技術などの小規模分散型農業・漁業に適した技術開がなされれば、食料生産者と消費者の一化が現する。これは、これまで「農村の都市化」が進歩であるとした野蠻(蛮)なる西洋文明論を捨てて、逆に、「都市の農村化」へと劇的な政策轉(転)換を現することなのである。


 また、食料については、安全、安心、安定したものでなければならない。そのためには、「近くて遠いもの」といふ原則を確立する必要がある。「近くて」とは、生産地と消費地とが近いといふことで、「地産地消(地域生産地域消費)」のことである。食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ)を減少させることは、自立再生經濟(経済)への道について必要不可缺(欠)な課題である。また、地球規模での水資源の危機が叫ばれる中で、農畜産物の生産や製品の製造、輸出入することは、その際に必要となる水を購入者が間接的に消費したことになるに等しいとの認識から「假(仮)想水(バーチャルウォーター)」といふ視點(点)で考察しても、水資源の節約は水資源を含む資源の自給率の向上以外にありえないのである。農畜産物も水産物もこの原則であれば、自給自足の閉鎖循環系を極小化しうる方向であると同時に、食の安全において絶大な效(効)用がある。

 地産地消の方向へ進むと、生産物について、その生産者の實(実)像が消費者に知られることになるから、生産者としては消費者に安全と安心の供給を續(続)けることでなければ地域で生産活動と生活ができない。生産者もまた消費者だからである。これは效(効)用均衡理論に基づくものである。


 しかし、現在、樣(様)々な問題があるやうに、生産者や生産物が外國(国)とかの遠方であれば、食の生産段階での毒物混入などを監視することはできないし、輸送において、輸送距離が長いために燃料等の基幹物資の消費が增(増)え、しかも、輸送時間の長さからポスト・ハーベストなどの問題が生じる。原價(価)計算をして安ければよいといふものではない。


 また、「遠いもの」といふのは、肉食、乳製品に偏つた習慣から離れて行くことである。系統發(発)生的には人類から遠い生物をなるべく攝(摂)取する食生活習慣にすることが身體(体)と精神(神)の健康によいことは云ふまでもないことだからである。佛典に「身土不二」といふ言葉があるが、これとは全く異なる意味で、明治後期に食養會(会)(大日本食養)が「地元の食品を食べると身に良く、他の地域の食品を食べると身惡(悪)い。」といふ意味で普及させ、それが現在では韓國(国)で流行語ともなつてゐるが、これも同じ方向を示す考へである。



國體護持 第六章 第三節 (單位共同社會)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869964.html

國體護持 第六章 第三節 (基幹物資の供給)

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (基幹物資の供給)



 次に、基幹物資の供給について檢(検)討する。基幹物資のうち、動力源(エネルギー)については、前述のとほり、危險(険)・有害・有限の枯渇性資源(再生不能資源)の使用は再生經濟(経済)原理と相容れず、安全・無害・無限の再生可能資源である「太陽の惠み」・「宇宙の惠み」としての太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱などに依存すべきである。生命は太陽と水と大氣(気)によつて育まれることから、地球の壞滅(壊滅)的危機から全生命を救ふ鍵は、人類の叡知と努力により、太陽と宇宙の惠みに從(従)ひ、水と大の淨化と畫(画)期的な動力源活用の技術開發(発)にある。そして、『電事業法』を根本的に改正し、數(数)社の電力會(会)社によつて寡占されてゐる「大規模集中型」の電力供給體(体)制を廢(廃)止し、自立再生經濟に基づく「小規模分散型」の電力供給制へと轉(転)換すべきである。「小規模分散型」へと換するためには、再生可能資源による電(ソーラー電など)や棄物再生處(処)理過程での電(ゴミ電など)に關(関)する新技術や石油に代はるフリーエネルギーなどの代替エネルギーの開研究と實(実)用化を促進させ、自由な電と賣(売)電を許容し、政府が本腰を入れて積極的に援助すれば、現在の技術水準においても、電力供給量の約二十六パーセントを占める原子力電の供給量はおろか、埋蔵燃料による電の供給量の大半を自給しうることになる。そして、さらに、技術開を推進すれば、電力の完全自給やその他のエネルギー一切の完全自給も夢ではない。運輸、交通、通信などの分野においても、再生可能資源によるエネルギー供給制を確立し、效(効)率のよい新技術の導入を行ふべきである。これらの方向によつて、原子力に依存する理由は全くなくなる。これを世界に普及すれば、動力源の各國(国)自給率は飛躍的に向上し、世界の安定要因が擴(拡)大する。



國體護持 第六章 第三節 (第一次産業) http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304869079.html

國體護持 第六章 第三節 (受益者負擔原則)-2

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(受益者負擔原則)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304866717.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (受益者負擔原則)-2



 ところで、汚水處(処)理やゴミ理などの「再生」において、「小規模分散型」の理を實(実)現することは、自立再生經濟(経済)單(単)位を極小化する效(効)果があり、危險(険)分散と安定化はさらに促進されるのである。勿論、經濟性や技術性の限界から、ある程度の「大規模集中型」の理が必要な場合もあらうが、經濟效率や技術改良を不斷(断)に促進向上させて、「小規模分散型」の理へと向かふことが必要である。


 そして、受益者負擔(担)といふことに關(関)して、さらに言及しなければならないものがある。現在、地球温暖化が石油の燃燒(焼)などによる温室效(効)果ガスの大量發(発)生によるとの考へにより、平成九年の『京都議定書』を採擇(択)したりして國(国)際問題になつたゐるが、その考へが科學(学)的に正しいのか否かは一まづ置くとしても、もし、さうであれば、この受益者負の原則からして、消費側だけにその對(対)策費等の負を求めるのは不合理である。メジャーやオペックなどを含め、石油の生産、販賣(売)、流通などに關與(与)する供給側にも應(応)分の負を求めるべきは當(当)然である。


 いづれにせよ、この受益者負擔(担)の原則を廢(廃)棄物處(処)理を含めた産業構造全體(体)の世界基準にすることが喫緊の課題と云へよう。


 温室效(効)果ガスの原因とされる石油についての受益者負擔(担)原則を確立することは、生産者の責任を認識することである。親が市場から買つてきた食べ物を子供に與(与)へたら、子供が食中毒になつたとき、誰が責任を負ふのか、といふことを自問自答すべきである。



國體護持 第六章 第三節 (基幹物資の供給) http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304868155.html

國體護持 第六章 第三節 (受益者負擔原則)-1

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (受益者負擔原則)-1



 一方、汚水處(処)理以外の廢(廃)棄物處(処)理については「受益者負擔(担)原則」が妥當(当)することになる。これは、汚水理における「汚染者負原則」といふ、いはば「出口基準(結果基準)」とは異なり、いはば「入口基準(原因基準)」である。生産至上主義の産業構造によれば、棄物(以下「ゴミ」といふ。)の生原因は、消費部門固有の要因によるものは少ない。もつとも、ゴミを所定の場所や方法とは異なる投棄をする者にその行爲(為)責任を問ふのは然であつて、ここでいふ消費者とは、産業構造で通常の行動性向が豫(予)定されてゐる消費者をいふ。その消費者を前提とすれば、第一次産業による生産物固有のゴミ(生ゴミ)は、本來(来)は土に歸(帰)りうるものであるから、これをゴミ理の過程に乘(乗)せることは消費者の責任であるが、都市の消費生活においては、すべき土が存在しないことが多く、その限度では消費者負は求められないことになる。



 むしろ、ゴミの發(発)生原因は、主に生産過程と流通過程にある。即ち、資源的再生を豫(予)定してゐない製法による工業製品(例へば、使ひ捨て商品、粗大ゴミ)など生産過程で既に將來(将来)のゴミとして定されてゐる物、生産から消費に至る流通過程においてのみ必要な物(例へば、容器、包裝紙、包裝材料)、さらに、完全な消費に至らなかつた物(例へば、殘(残)飯、賣(売)り生鮮食料品)などである。しかし、これらはいづれも流通效(効)率や消費率を高めるための原價(価)として認識されてをり、これらの便益と低格化による利益は反射的に消費者も享有してゐるのである。そこで、ゴミ處(処)理に關(関)する費用は、生産者や流通者及び消費者が應(応)分に負擔(担)し、その勞(労)務は消費者が負すべきことになる。このゴミ理についても、汚水理の場合と同樣(様)、政治的・行政的障害が多いが、技術的な障害は少ない。受益者單(単)位又は地域・集落位で技術的に理が可能であり、その理費用も節約しうるのである。このやうな、根本的改革を行ふについては、受益者負原則による税制の拔本的改革が前提になることは、汚水理の場合と同である。




國體護持 第六章 第三節 (受益者負擔原則)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304867286.html

國體護持 第六章 第三節 (汚水處理)-2

はじめに・らすかる☆より  http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html

目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html

(汚水處理)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304864332.html



第六章 萬葉一統

 第三節 自立再生社會の實現
  (汚水處理)-2



 そもそも、汚水處(処)理について、汚水を「排水」として、排除の對(対)象と認識する點(点)において思想の缺陷(欠陥)が露呈してゐる。淨水を汚して汚水としてしまつたものを再び再生させる使命があることを忘れてゐる。水は、禊ぎ、灌頂(かんじょう・墓石に水を注ぎかけること)、洗禮(礼)などに用ゐられることはもとより、生命と共にあり生命を支へ續(続)ける普遍的なものであるがゆゑに「聖」なるものである。それゆゑ、生命維持のために汚してしまつた水の役割と貢獻(献)拜(拝)謝する意味で、これを「排水」ではなく「水」と認識し、それを淨化再生をする使命感を鞏(強)固にしならなければ自立再生社會(会)が完成しないのである。


 これと同樣(様)に、人糞尿についても、『古事記』では、「屎に成れる神(神)の名は、波邇夜須毘古神(神)(はにやすびこのかみ)」として神(神)格を備へてゐた。また、天照大御神(神)が速須佐之男命のなされた行爲(為)を「惡(悪)しき態」とされたとほり、田畑に排泄物を撒き散らすのは律令制度においては重罪とされた。ところが、武士の世(中世)からは自家肥料として、戰國(戦国)時代以降の近世では、肥料として商品化されるとともに火藥(薬)原料(鐵砲火藥(薬)の硝石の生産)ともなつた。近代(明治以降)でも肥料として商品とされたが、現代では殆ど廢(廃)棄物とされてゐる。しかし、將來(将来)においては、この有效(効)活用が重大な課題として託されてゐるのである。

 このやうに、政治的・行政的障害は大きいが、技術的な障害は小さい。汚水處(処)理については、汚染者單(単)位又は地域・集落單(単)位で技術的に處(処)理が可能であり、その處(処)理費用も節約しうるまでの技術開發(発)がなされてゐる。このやうな、根本的改革を行ふについては、汚染者負擔(担)原則による税制の拔本的改革が前提になることは當(当)然である。


國體護持 第六章 第三節 (受益者負擔原則)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304866717.html