國體護持 第六章 第三節 (汚水處理)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第三節 自立再生社會の實現
(汚水處理)-1
また、このやうな廢(廃)棄物一般について考察するに、廢棄物處(処)理の全般について、以下に述べるとほり、現在では有效(効)な改善策と技術が存在してゐるのである。廢棄物は、その發(発)生の種類によつて一般廢棄物、屎尿、産業廢棄物、放射性廢棄物などといふ行政的分類があるが、ここでは、廢棄物が水を媒體(体)とするか否か、即ち、汚水處理とそれ以外の廢棄物處理とに區(区)分して考へる必要がある。
地球上の水質汚染は、淡水・海水の區(区)別なく極めて深刻な事態となつてをり、地球上の總(総)水量の數(数)パーセントにすぎない淡水においても、その惡(悪)化は、とりわけ地上生物の生命の維持に直接影響を與(与)へるために一層深刻である。水は、生物全部の共有財産(公共財)であつて、産業全般と生活を支へる基幹物資であるから、汚水處(処)理といふ「再生」に要する費用負擔(担)については、汚水量と汚水濃度に比例した「汚染者負擔原則」が妥當(当)するはずである。
しかし、生産至上主義に基づく我が國(国)の法制度は、この原則には程遠いものである。『水質汚濁防止法』第一條(条)によれば、その立法目的は、「公共用水域及び地下水の水質の汚濁(水質以外の水の状態が惡(悪)化することを含む。)の防止を圖(図)」ることにある。從(従)つて、排水基準の設定は、生態學(学)的見地から、さらに水質が汚濁されず、かつ、水質以外の水の状態が惡化しない基準でなければならない。假(仮)に、同法が施行された後にも、さらに水質汚濁が進み、水の状態が惡化するのであれば、同法第三條第一項に基づく『排水基準を定める總(総)理府令』(昭和四十六年六月二十一日總理府令第三十五號(号))の排水基準が誤つてゐた(甘すぎた)ことになることは當(当)然である。現に、同法及び總理府令が制定施行されて久しく、その排水基準が現行の排水基準に改正施行された後も水質汚濁惡化が進行してゐることは公知の事實(実)である。ところが、政府は、このやうな事態に全く對應(対応)してをらず、總理府令の現行の甘い排水基準をそのままにして放置し、全國(国)的な水質汚濁の進行を認識してゐながら、排水基準の強化をはかるなどの水質汚濁を防止する施策を講じようとせず、このやうな違法の措置をとり續(続)けてゐるのである。これでは、まるで「水質汚濁放置法」又は「水質汚濁推進法」である。
その上、さらに決定的なことは、總(総)理府令排水基準においては、業種別の區(区)分を設けてゐることである。業種別に、排水基準(處(処)理水基準)を異にすることは特定業種を特別に保護することであり、その緩和措置に對(対)して、汚水處理の目的税をも賦課しないことは、占領憲法第十四條(条)の法の下の平等に違反するのみならず、この考へ自體(体)が生産至上主義政策を顯(顕)現してゐるのである。共有財産である水を借りて自己の生産・消費など經濟(経済)活動を行ひ、これによつて汚染したのであれば、それが誰であつても、元の綺麗な水にして返すことは、幼兒(児)期のしつけの部類に屬(属)する普遍の道理である。家庭排水、都市産業排水、農業排水などの汚水處理において、今や下水處理場や屎尿處理場での活性汚泥法による一括處理が限界に達してをり、その處理によつて生まれる餘(余)剰汚泥といふ第二次的産業廢(廃)棄物の處理の費用が汚水量の增(増)大に伴つて增加し、國(国)家財政と地方財政とを壓(圧)迫する。これらの「産業固定費」を輕減する各種技術が開發(発)されてゐるにもかかはらず、行政官僚に群がる利權(権)集團(団)の妨害によつて「汚染者負擔(担)原則」による水の地域的再生循環が實(実)現されるに至つていないのである。
國體護持 第六章 第三節 (汚水處理)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304865129.html
國體護持 第六章 第三節 (産業廢棄物の概要)
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第三節 自立再生社會の實現
(産業廢棄物の概要)
このやうな自立再生論の構想が、現在の世界の技術水準等から推定して實(実)現可能な射程範圍(囲)に入つてきたことを、いくつかの事項毎に例證(証)する。
例へば、現在、自然分解しえず、また、自然分解に長時間を要する生産物資のうち、主に流通過程でしか使用されない製品(プラスチックの容器、袋、包裝紙など)については、生産段階において再生の前提となる回收を豫(予)定しておらず、その回收も消費者意識に賴(頼)らざるを得ないほど制度的に困難であり、その「廢(廃)棄物」の生態系に及ぼす惡(悪)影響は甚大なものがある。いくつかの課題を殘(残)しつつも自然分解して無害な代替品の開發(発)はなされているのであるから、速やかに不分解物の流通用製品の生産を中止して分解物製品に代替させるべきであるが、これについても再生循環の技術が日進月歩で開發されてゐる。
一般的に、過去において、再資源化や無害處(処)理が困難な廢(廃)棄物豫(予)定製品は、「適正處理困難物」といふ意味で通稱(称)「テッコンブツ」とも呼ばれ、現在これに屬(属)すると指摘されてゐるのは、①電氣(気)冷蔵庫、②電氣洗濯機、③テレビ・パソコン、④タイヤ、⑤發(発)泡スチロール、⑥乾電池、⑦強化プラスチック(FRP)、⑧ベッド、⑨自轉(転)車、⑩オートバイ、⑪マットレス、⑫スプレー缶、⑬螢光管、⑭注射器・輸血バッグ、⑮使ひ捨てガスボンベ、⑯浴槽、⑰紙おむつ、⑱消火器、⑲天ぷら油、⑳ステレオなど、衣食住の生活全領域に廣(広)がつた大量消費目的の工業製品である。廢棄物總(総)量の增(増)大が産業社會(会)の進歩發(発)展のバロメーターとする生産至上主義は、さらに「高速化」し、必然的に、過剰かつ大量の「生産」を促進させる。この「過剰生産」とその擴(拡)大再生産を支へて促進させるのが「過剰消費」である。ところが、「實效(実効)消費」ないしは「實質消費」の增大には限界がある。そこで考案されたのがマスメディアを介した廣告宣傳(伝)業による「過剰消費は美德であり、社會の進歩發展の象徴である。」とか、「ゴミの量は文化生活のバロメーターである。」との理念に基づく洗腦(脳)教育である。これは、コピーライターなどと呼ばれる生産至上主義の走狗をして、手を變(変)へ品を變へてマスメディアを通じて、あたかも生鮮食料品を扱ふかのやうな過剰な工業製品等の日常的なモデルチェンジと慢性的な誇大廣告により、過剰な奢侈(しゃし・度を過ぎてぜいたくなこと)消費を「美德」であると錯覺(覚)させるやうに繰り返し國(国)民に學(学)習させて洗腦し、情緒的かつ煽動的な過剰消費性向を定着させる。
これによつて、廢(廃)棄物總(総)量の增(増)大こそが「進歩」のバロメーターであるとの生産至上主義による過剰消費のための再生産を行なはせ、「自轉(転)車操業社會(会)」に脱落させてしまつたのである。このやうな惡(悪)循環を斷(断)ち切るためには、煽動消費を許容し增大させてきたマスメディアと大手廣(広)告宣傳(伝)企業の解體(体)と共に、「テッコンブツ」の生産中止と代替製品の開發(発)への努力が必要となる。
古來(来)より、孔雀明王の信仰があつたが、これは、孔雀が毒草や毒蟲、毒蛇を食しながら美しい姿を保つてゐることから、人の三惡(悪)(殺、盜、淫)をも呑食して諸惡諸病痛を除くことを願ふものである。これと同じやうに、毒性のある鹽(塩)素系化合物などの毒物を無害有益の再生處(処)理ができる畫(画)期的な技術革新は、近い將來(将来)において必ずや實(実)現しうるはずである。
國體護持 第六章 第三節 (汚水處理)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304864332.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-3
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(自立再生論と新保護主義の相違點)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304859531.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生論と新保護主義の相違點)-3
最後に、第五として、自立再生論と異なる點(点)は、「政府の再強化」といふ點にある。この「政府の再強化」といふのは、中央集權(権)の強力な政府を出現させることを意味する。確かに、中央と地方と多層構造による「大きな大きな政府」とか、發(発)展途上にある國(国)々において、富國強兵政策を推進するために「開發獨(独)裁」といふ政治形態がある。それゆゑ、この「政府の再強化」とは、これらと類似して、地域、經濟(経済)、生活と環境の保護政策を推進するために「環境獨裁」とでもいふべき政治形態を目指してゐることにならう。しかし、これは、權力を不用意に肥大化させ、生活のあらる面において取り締まりを強化させることになる。しかも、この再強化は、理想社會(会)を實(実)現するための過渡的な手段として、一時期的なものではなく、恆(恒)常的な再強化によつてしか理想社會が維持できないことを意味してゐる。永久に強權獨裁状態を維持しなければならない構造となる。これは、まるで「プロレタリフート獨裁」の理論と似てゐる。
マルクスは、「プロレタリアート獨(独)裁」とその頂點(点)に存在する「共産黨(党)獨裁」といふ政治形態は、革命の完成によつて消滅し、政府自體(体)も消滅するとした。ところが、これまで存續(続)してゐる共産主義國(国)家においては、政治學(学)的には、共産黨幹部といふ特權(権)階級の「專制政治形態」であることが例外なく證(証)明されてゐる。「獨裁權力はその目的が達成した暁には消滅する。」といふロジックは全くのマヤカシであり、眞(真)の目的とは、獨裁權力を維持すること、つまり、獨裁權力の自己保存であり、たとへ表向きの目的が達成したとしても、今度は、それを維持するために獨裁權力の存續が必要であるとの口實(実)を與(与)へることになる。「絶對(対)的權力は絶對(対)的に腐敗する。」のであつて、その盛衰の歴史の中で、人々に再び大きな犠牲を強いることになる。したがつて、新保護主義の「環境獨裁」は、「開發(発)獨裁」や「共産黨獨裁」と同樣(様)、「大きな政府」の出現により人類のさらなる悲劇を生む危險(険)思想となりうる。
さらに、第五として、この思想について憂慮すべきは、現在、地球環境が危機的状態にあることから、地球滅亡か環境獨(独)裁かの二者擇(択)一しかなく、その選擇を迫られるとする虚僞(偽)の論法を用ゐることである。本當(当)にさうであれば、環境獨(独)裁しかないが、果たしてさうか。否。斷(断)じて否である。自立再生論は、その理論的背景として、法の理念(國體(国体)の支配)においてもその體系を明らかにしたうへ、統治原理においても、效(効)用均衡理論を採用し、經濟(経済)においても、再生經濟理論の實踐(実践)を目指し、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」といふ方向貿易理論による政策の實踐に集約されるものである。その實現のための手段としても、そして、その目的としても「小さな政府」しか必要ではない。ただし、この「小さな政府」といふのは、財政規模と財政作用においてその範圍(囲)が小さいといふ意味であつて、地域的な圍範圍についてではない。このやうな全國的規模や世界的規模の方向性を打ち出すためには、各地方で格差や政策の相違があつてはならず必ず中央集權(権)的でなければならない。
このやうな經濟(経済)構造を構築する方向に、金融、投資、生産、消費などの經濟活動を國(国)内閉鎖系に限つて開放し、自由活發(発)化させればよいのである。各國が、それぞれ自給率を高めるために國際的な技術協力を行ひ、貿易税、公害税、資源税などを導入し、さらに關(関)税障壁を設けて保護主義的傾向が增(増)せば、その國がたとへ自由貿易を採用してゐたとしても、そのうち「見えざる手」の作用により自づと自立再生論を選擇(択)することになるものと考へられる。自給率の向上を政治目標とするならば、關税などの貿易税は、當(当)然ら引き上げ方向になることは自明のことである。
國體護持 第六章 第三節 (産業廢棄物の概要) http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304862378.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-2
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(自立再生論と新保護主義の相違點)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304859531.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生論と新保護主義の相違點)-2
第二に、新保護主義には、自立再生論のやうな「閉鎖循環系」の思想がない。自給自足はしても、循環型の社會(会)構築の提案が全くない點(点)である。これでは、前に述べた「修正主義(福祉主義)」の單(単)なる亞(亜)流であつて、淘汰される運命しかない。それは、「資源税」といふ考へ方に集約されてゐるのかも知れない。この資源税については具體(体)的な説明はないが、おそらく資源の費消に賦課される税制であらう。そして、課税者は、「大企業」を惡(悪)とする思想からして、生産活動に課せられることにならう。しかし、これでは産業構造の劇的な轉(転)換を生まない税制になる。これは、生産者に對(対)する課税であり、消費者に對する課税ではない。さうすると、生産者は、何とかして消費者に消費性向を掻き立てさせるために、技術と廣(広)告宣傳(伝)を驅(駆)使し、資源税を上乘(乗)せしても利潤を確保できる商品(殆どが奢侈(しゃし・度を過ぎてぜいたくなこと)な高級品)を制作して消費者に提供することになる。消費者もこれに迎合してこれを買ひあさる。そして、小規模ではあつても、奢侈商品の擴(拡)大再生産が循環されるのである。これでは本來(来)の目標には到達できない。さうではなくて、自立再生論に基づき、奢侈品には累進的に大きな税率の資源税を課すとの流通税(消費税)方式とすれば、家計との關(関)係で買ひ控へが起こり、過剰消費が抑制される。これは、過剰消費を惡と見るか、過剰生産を惡と見るかといふ決定的な相違であり、資源税の擔(担)税主體を峻別することになるとともに、方向貿易理論による政策を實效(実効)ならしめるか否かの分水嶺ともなるのである。現在の高度分業體制の社會では、生産者は一部であり、消費者は、この生産者を含めた全ての人々となる。さうであれば、過剰生産を惡とする教育は、一部の生産者を惡として指彈(弾)するだけで、自らの生活を自戒させる契機を失ふ。これに對して、過剰消費を惡とする教育は、それ自體が眞(真)理であることもあるが、誰もが例外なく消費者であることから、誰かを惡者として指彈(弾)することによつて自己滿(満)足して傲慢になることはなく、全員が自らの生活を自戒する機會に直面することになるから、教育的効果においても絶大なものがあるからである。
第三に、新保護主義は、規制の具體(体)的な七つの方策を示すものの、その規制によつて達成する理想社會(会)の具體的なありさまが全く論じられてゐない點(点)である。單(単)に、「秩序ある資本主義」として規制するとしても、その内容と方向に具體性がない。これだけの規制を一度にすれば、資本主義は完全に失速し、經濟(経済)破綻を招來(来)する懸念がある。この七つの方策は、政策論として體系化、序列化されてをらず、到達すべき理想社會の方向が提示されてゐない。手段だけは掲げられるが目的と方向は掲げられてゐないのである。自立再生論のやうに、その究極が方向貿易理論による政策を推進して「閉鎖循環系の自立再生社會の極小化」を實(実)現するといふ明確な理念に相當(当)するものがないのである。これに對(対)し、自立再生論からすると、「秩序ある資本主義」の「秩序」とは、まさに自立再生論によつて規律された秩序といふ具體性がある。
また、第四に、これは經濟(経済)効果において最も重要なことであるが、極小化は、内需擴(拡)大を推進することになるとの點(点)である。新保護主義には全くこのやうな經濟學(学)的視點が缺(欠)落してゐる。方向貿易によつて縮小して行く外需依存の體(体)質を内需依存へと改善させることができる。基幹物資の自給率向上のための極小化の方向は、技術革新による新商品の開發(発)とその販賣(売)、それを購入して活用することによる自給率の向上による利益獲得といふ好轉(転)的循環を生むからである。いはば、極小化政策とは、内需擴大モデルの「永久機關(関)」となるのである。新保護主義によると、外需規制だけで、内需擴大の施策がないので、資本主義は失速して經濟は停滞する。しかし、自立再生論によれば、方向貿易理論によつて外需規制を内需擴(拡)大へと轉(転)換させ、資本主義活動を自給自足體制による自立再生社會(会)の實(実)現へと向かふ牽引力として效(効)率よく誘導することができるのである。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304860926.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生論と新保護主義の相違點)-1
では、この自立再生論と前に紹介した新保護主義とは、どこが同じでどこが違ふのか、といふことについて説明したい。
まづ、方向貿易理論を採用してゐる點(点)は完全に一致してゐる。そして、グローバル化こそ世界滅亡の道だとの認識や、輸出入を制限していくなど、その前提となつてゐる自由貿易と國(国)際資本の認識などについてもほぼ一致してゐる。また、GATT(WTO)の解體(体)など既存の國際組織を解體させる方向は熱烈に支持できるし、その他指摘された七つの具體的政策提案についても、以下に述べる點を除き、さほど大きな異論はない。
しかし、まづ、大企業の解體(体)については、これを強制的に行ふことには絶對(対)に反對である。方向貿易理論に適合しない企業は、その大小を問はず自然淘汰されていくとするのが自立再生論であつて、このやうな政策は、方向貿易理論の實踐(実践)にとつては完全にマイナスになる。企業の産業的牽引力に信賴(頼)を寄せるべきであり、ましてや、大企業には一般的にはスケールメリットによる技術とノウハウの集積があり、何よりも雇用の確保と擴(拡)大がなければ、産業構造の變(変)革は實(実)現できない。大企業の解體政策は、これらを否定して、失業を增(増)やし、技術とノウハウを散逸させて國(国)内經濟(経済)全體を沈滯化させ、自給自足體制へ移行するために大きな桎梏となつてしまふからである。
このやうな「大企業の解體(体)」の主張は、マルクス主義の亡靈である。企業は惡(悪)、大企業は巨惡とする考へに根據(拠)がないことは明らかである。企業(會(会)社)が惡であれば、その相似形である家庭も國(国)家も惡であり、人間自身も惡となる。それは本能を否定する性惡説である。道(規範)を踏み外すことがあつても、必ずまた道に戻ることも本能による規範意識による。江戸中期に、石門心學(学)といふ獨(独)自の學派を拓いた石田梅岩は、武士に武士道があるのなら、商人にも商人道(商道)があると説いた。雛形理論である。そして、利を求める商人にも人としての義(士道)を守ることを求め、利と義とは兩(両)立するとし、その序列を「先義後利」とした。これが我が國の「あきんど」の魂として定着し、今日に至つてゐる。道を外すことを「外道」といふ。秩序と規範の投影である禮(礼)がないことを、無禮、非禮、失禮といふ。禮に始まつて禮に終はる。それが道である。その意味では、「柔道」や「空手道」などがスポーツとなつたときに武道は死んた。試合終了の禮を濟(済)まさないうちから、勝つて小躍りしてガッツポーズをする姿は見苦しく、外道の野蠻(蛮)人と成り下がる。これと同じで、儲かつたことを世間に誇示するだけで社會(会)奉仕をしないのは商道から外れる。
このやうな「商道」の思想は、共産主義者からすれば理外の理なのであらうが、いづれにせよグリンピース・インターナショナルの經濟擔當(経済担当)者コリン・ハインズがこの新保護主義の主唱者の一人であつたことからすれば、冷戰(戦)構造崩壞(壊)後、マルクス主義者ないしは共産主義者の多くが環境保護思想へと轉(転)向して行つたことと無縁ではないと想像できる。そして、そのためか、この新保護主義には決定的に缺(欠)けてゐる「視座」があることに氣(気)付くのである。
それは、第一に、新保護主義が打倒しようとする現在の國(国)際體(体)制が大東亞(亜)戰爭(戦争)の戰後體制であるとする認識が完全に缺(欠)落してゐる點(点)である。新保護主義を育んだ土壤は、まさに大東亞戰爭を「惡(悪)」として斷(断)罪した歐米思想であり、大東亞戰爭による大東亞共榮(栄)圈(圏)といふ經濟(経済)ブロックを壞滅(壊滅)させるために歐米が構築した經濟ブロックによる「保護主義」をそのまま承繼(継)した「新保護主義」であるといふ思想的系譜なのである。もし、新保護主義が自己の正當(当)性を主張するのであれば、安政の假(仮)條(条)約によつて、保護主義の極地であつた鎖國主義を放棄させた歐米の誤りに對(対)する歴史的な懺悔から出發(発)しなければならないはずであるが、やはりこの新保守主義なるものは、白人至上主義を一歩も出られない普遍性のない思想といふことである。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304860094.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-4
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(自立再生社會の概要)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304854960.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生社會の概要)-4
ところで、「再生産業」とは、基幹物資その他全ての生活關(関)連物資として生産されたものが流通を經(経)て消費された結果の産業廢(廃)棄物を再び生産のための資源として最大效(効)率活用し、完全無害處(処)理させることを指導理念とした産業部門である。「再生」には、産業廢棄物を直接的に再生する場合と、生態的物質循環を經て間接的に再生する場合とがあるが、完璧な「再生」は、恰(あたか)も「永久機關」のやうな産業循環を實(実)現することである。地球の資源は有限であるから、埋蔵燃料やウランなど、一度燃燒(焼)消費すれば二度と再生しえないやうな枯渇性資源(再生不能資源)の使用は、再生不能といふ點(点)と、廢棄物の無害處(処)理が困難な點において、再生經濟(済)原理と相容れない。その他の埋蔵鉱物などのうち再生可能資源は、自立再生經濟における産業循環に組み入れられる。また、再生可能資源(エネルギーを含む)において、最も理想的なものは、「太陽の惠み」と「宇宙の惠み」である。太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱などであり、無限に近い再生利用と完全無害處理が保障されてゐる。現在、世界各國(国)は、連合國主導で埋蔵燃料やウランなどの枯渇性資源(再生不能資源)の利用に關する研究を主力として進めてゐるが、このやうな傾向から脱却して、安全無害の再生可能資源の實用開發(発)に全力を傾け、自立再生理論を實現するための第二次産業革命ともいふべき技術革新を行ふことが、これからの世界の課題と責務である。
世界各國(国)が、自立再生經濟(経済)の確立に向かって自助努力をなし、そのための技術と情報を必要とする國に對(対)しては、前に述べたとほり新たな國際機關(関)を設けて、その技術と情報を提供しあうといふ共助努力を行ふ。そして、大氣(気)や海洋などの地球的規模の問題については各國が協力して取り組み、また、緊急事態に備へた協力體(体)制を確立し、南北格差など、國家間の格差のない世界を實(実)現していくことになる。
そして、「貿易をなくすための貿易」といふ方向貿易理論を實(実)施し、再生經濟(経済)理論によつて消費を限界付け、基幹物資が再生循環によつて閉鎖系かつ循環系としての自給自足體(体)制が完成するといふことになる。そして、それが技術革新などを遂げれることにより、その閉鎖循環系の自給自足社會(会)が、より小さないくつもの閉鎖循環系へと細分化され、その閉鎖循環系社會が極小化していくことになるのである。
繰り返し述べてきたが、これも動的平衡による雛形構造(フラクタル構造)の實(実)現を目指すものである。分業化體(体)制を際限なく推進することは、社會(会)を不安定化させる。禮(礼)と樂(楽)の區(区)別、陰と陽の區別からすれば、「分業」とは、「樂(楽)」と「陽」への不可逆的な方向であり、擴(拡)散・溶解・緩和を意味する。これに對(対)し、「分業」から「合業」へと向かふのは、集束・凝縮・緊張を意味する「禮」と「陰」の方向で、社會(会)をより安定化させる。そもそも、萬(万)物は、禮と樂、陰と陽の動的平衡、振動的平衡によつて安定するものであるが、現代は、餘(余)りにも「樂」と「陽」の方向へ振れ過ぎたことによる不安定化であるため、これを振幅の中心軸である「太極點(点)」を起點とする小さな振幅にまでに縮小しなければ、世界全體の安定が實現しない。
すなはち、自立再生論とは、方向貿易理論と再生經濟(経済)理論によつて、閉鎖循環系の自給自足社會(会)が極小化していくといふ理論であり、これに從(従)つてこそ世界平和と地球の安定を約束してくれるのものなのである。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304859531.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-3
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(自立再生社會の概要)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304854960.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生社會の概要)-3
いづれにせよ、實體經濟(実体経済)を健全化させることが當(当)面の課題ではあるが、これからの經濟政策は、消費を煽ることによつて景氣(気)浮上させるといふ幻想から脱却しなければならない。前に述べたとほり、このやうな政策は、質素儉(倹)倹を否定する不道德の奨励であるとともに、人も國(国)家も、成長が際限なく續(続)くことはありえないことを忘れたものである。經濟成長も然りである。いつまでも唯物論的に經濟が成長し續けると未だに爲(為)政者や經濟人は信じてゐるために、このやうな幻想を抱くのである。經濟といふは、所詮は物質的活動である。これ以上に一體(体)何が物質的に不足なのか。豊かになつたと云はれてゐるのに、それでも更にあくせくして疲れ切り、將來(将来)が不安なのはなぜか。それは、この際限のない成長幻想を抱いてゐるからである。世界には、飢餓に喘ぐ状態が未だに殘(残)つてゐるが、世界の經濟活動は、その救齊(斉)には向かはない。むしろ、その乖離(かいり・結びつきがはなれること)を深めるだけである。さうであれば、現在の經濟における需要は、原則として消費財の補充と生産財の維持の限度でしかありえず、これ以上の需要の擴(拡)大はありえない。これ以上のものを求めるとすれば、虚業經濟によるか、あるいは、實體經濟に拘るのであれば、それは戰爭(戦争)とそれによる破壞(壊)からの復興といふことを繰り返す戰爭特需以外にはありえないのである。
「倉廩(そうりん・米ぐらや穀物ぐら)實(実)ちて禮(礼)節を知り、衣食足りて榮(栄)辱を知る」(管子)の如く、見せ掛けの成長が止まつてから、人が人格の完成に磨きをかけるのと同樣(様)に、國(国)家もまた文化と民度の向上に努めなければならないのである。
ともあれ、再び再生經濟(経済)理論に話を戻す。まづ、資本主義の特性は、たとへ、消費(需要)がなくても、利益の獲得のために生産(供給)するところにあり、大量生産が大量消費を牽引するとして、それによつて擴(拡)大再生産が始まることになる。つまりは、放置すれば消費性向には限界がないことから、物があれば、あるだけを消費するに至るからである。
ところが、「再生」には技術的、經濟(経済)的に限界がある。從(従)つて、自然に再生される物や義務的に再生される物以外の「餘(余)剰」の廢(廃)棄物が環境等を破壞(壊)することから、この消費を「再生」に着目して限界付ける必要があつた。それゆゑ、これは、「再生できずに廢棄してしまふ製品を消費してはならない。」といふ消費の抑制原理である。勿論、消費量とその速度については、地球の再生能力の限界點(点)を超えられないことは前に述べたが、その限界點である消費總(総)量を總人口で除した値が一人あたりの消費量であるから、消費生活の態樣(様)は、その數(数)値を超えてはならないといふ他律的なものとなる。總人口の問題、すなはち人口問題については個人で解決できる問題ではなく、一人あたりの消費量の限界點も、このやうに他律的に決定されるとなると、個人が自覺(覚)的に取り組めるものにも限界がある。それゆゑ、國(国)家としては、これらを具體(体)的に數値化して、一人あたりの消費量の限界點を示し、消費量を抑制させること、いはば「消費量の配給制」といふ總量規制を導入する必要がある。人々は、その總量規制の限界の中で、個々の事情により優先順位を定めて消費の種類を選擇(択)し、消費の量を調整する。
そして、消費については、このやうに消費總(総)量の限界點(点)を算出し、また、再生についても、再生しうる再生總量の限界點を算出し、これらを比較して、いづれか少ない數(数)値を以て「消費の配給量」が決定することになる。
このやうに、消費と再生の限界を認識した上で、これに基づき生産と流通を限界付けたといふ理論がこの再生經濟(経済)理論である。いはば、これは靜脈産業である再生産業を産業構造上の中心産業と位置づけるもので、單(単)なる循環經濟理論のやうに、再生産のための生産部門のためにゴミを資源として考へると云つたやうな、生産といふ動脈産業を中心に産業構造を捉へるものとは全く異なる。ゴミをそのまま燃燒(焼)させて熱源とするやうな單純な循環ではなく、通常は「メビウスの輪」のやうに、ゴミの再生處(処)理によつて得られる資源を産業の起點(点)とした「循環無端」の再生循環經濟なのである。これは、生體(体)における自己完結型の「代謝」が雛形となつてゐる。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-4 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304858072.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-2
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
(自立再生社會の概要)-1 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304854960.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生社會の概要)-2
では、以上の前置きを踏まへて、以下において自立再生論の解説をする。まづ、結論を言へば、ここで、方向貿易理論の必然的な歸(帰)結と述べた「自立再生論」といふのは、「再生經濟(経済)理論」に基づくものである。この再生經濟理論とは、財貨・情報・サービスなどを提供する生活産業構造を、「生産」、「流通」、「消費」、「再生」の四部門に分類し、生産・流通・消費の各部門は、再生部門に奉仕するものと位置づけることから始まる。再生のための生産であり、流通であり、そして消費である。
これまでも、循環型社會(会)の構築を主張する見解は多いが、これは「動脈思考」によるものが殆どである。「生産」を原點(点)として、過剰生産をやめませう、といふ道義的願望はあつたが、過剰生産が過剰消費を引き起こしてゐることや、それが、消費は美德であるとする極めて不條(条)理な考へに毒されてきたことの反省が足りなかつた。生産し、その後に消費された後の廢(廃)棄物を再生して再び生産の資材として用ゐるといふ發(発)想に過ぎず、廢棄物が資源として再生されずにゴミとなるのが「勿體(体)ない」とするだけである。
しかし、再生經濟(経済)理論とは、ゴミとなつて廢(廃)棄されてしまふ大量生産の製品を作ること自體(体)が「勿體ない」とするのである。需要と供給の均衡において、「需要(消費)があるので供給(生産)が發(発)生する」といふ原理は、生産の動機を受動的に見てゐる點(点)において、資本主義の大量生産を説明するには正確なものではない。そもそも、自由市場では需要と供給の均衡によつて商品価格が決定するといふ「需要供給の法則」は、證(証)券、爲(為)替取引の賭博經濟のみに適用される法則であつて、實(実)體經濟における「商品」には適用がない。なぜなら、實體經濟には、「自由市場」自體がない。自由市場として成り立つには、全需要者(全消費者)と全供給者(全生産者、全販賣(売)者)とが一齊(斉)かつ無作爲に取引しうる關(関)係が確保されてゐることである。そこには新規參(参)入することの障碍や商品の流通と商品への接近(アクセス)における地域格差や障碍(害)が全くないことが條(条)件となる。しかし、そのやうな環境はいままで存在したことがないし、これからもありえない。特定の地域や特定の參入者だけの取引を以て自由市場といふ幻想を抱いてゐるだけである。そもそも、商品価格は、原則として生産原価及び流通原価などによつて供給者側が決定するのであつて、需給均衡で決定するのではない。特定商品の需要超過によつて生産者の設定した販賣価格よりも高騰して取引がなされるときや、その逆に、供給過剰によつて製造原價(価)割れで取引がなされるときのやうな需給ギャップが生じるのは、供給者がその商品についての需要情報や流通情報などを事前に把握していなかつたか、あるいは、その後の事情の變(変)化によるもので、おしなべて經營(営)の問題に還元されるだけである。需要情報が乏しく需給バランスが全く手探りの状態で、供給者が製造・販賣したりすることは本來(来)ありえないが、そこに賭博的手法を取り入れ、テレビその他の媒體を驅(駆)使するなどして過剰消費を創出させやうとする商業主義(commercialism)が出現する。これは、本來の實質的需要を發掘するといふのではない。消費者の奢侈(しゃし・度を過ぎてぜいたくなこと)傾向、衝動と虚榮(栄)による購入性向などを掻き立てて過剰消費を創出する。ここに至つて、商品經濟は、「欲望經濟」となつて供給が需要を主導する供給主導型が完成するのである。この欲望經濟は、際限なく擴(拡)大し、投機對(対)象を漁り續(続)け、欲望の坩堝である證券爲替取引市場や商品取引市場といふ賭博場に押し寄せる。「貯蓄から投資へ」といふ甘言に踊らされて、食べる物を切り詰めてでも投機に走る「一般投資家」といふ名の欲望の奴隷も誕生してくるのである。そして、米國(国)が「年次改革要望書」を以て我が國に要求した、規制緩和と銀行と證券の業際規制の廢止(金融緩和)などを忠實に履行した「構造改革路線」によつて過剰流動性を増した通貨がさらに賭博經濟へと注入され、實體經濟を逼塞(ひっそく・せまりふさがる)させる。これらの虚業經濟は實體經濟と混在化して峻別できない状況にあることから、バブル崩壞(壊)によつて景氣(気)が低迷すると、政府による經濟政策は、ケインズ主義的に公共投資等による需要面から牽引する方法か、あるいは、新自由主義的に構造改革等による供給面から牽引する方法かといふ、これまで言ひ古されてきた議論を繰り返すだけである。これらの政策選擇(択)だけでは全く根本解決にはならない。ただ、少なくとも、構造改革路線は、賭博經濟をより推進させる方向であり、對米從(従)属がさらに深まることだけは確かである。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-3 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304857195.html
國體護持 第六章 第二節 (自立再生社會の概要)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
目次・例言 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277160853.html
第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生社會の概要)-1
人に志がなければならないのと同じやうに、國(国)家にも志がなければならない。國家にとつて、私利私欲と經濟(経済)的な國益よりも、國家の命運を賭した國家としての志がなければならない。人にとつて志といふのは、生きる目的と希望であり、人に備はつた本性である。他の動物と異なり、これがなければ、人は精神(神)の安定が得られず、生活が安定しない。人は、即物的な生活だけで滿(満)足する生き物ではない。祖先祭祀と自然祭祀などの祭祀生活ないしはその擬似生活としての宗教生活を營(営)むことでなければ、魂の安靜は得られないのである。
第一章で觸(触)れたが、祖先祭祀の根源とは、親が子を慈しみ、子が親を慕ふ心にある。我々の素朴で根源的な心には、たとへ死んで「から」を失つても、その「たま」は生前と同樣(様)に子孫を慈しんで守り續(続)けたいとするものである。たとへ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいはそれと引き替へてでも、家族が全ふな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願ふ。そして、子孫もこのやうな祖先(おや)の獻(献)身的な心を慕ふのである。死んでも家族と共にある。それが揺るぎない祭祀の原點(点)である。子孫が憂き目に逢ふのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天國(国)に召され、極樂(楽)・淨土で暮らすことを願ふのは「自利」である。「おや」はその自利を願はない。これは「七生報國」の雛形である。一神(神)教的宗教の説く救濟(済)思想への違和感はまさにここにある。「利他」の「他」は、まづは家族である。あへて家族から離れさせその絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞(壊)する。家族主義といふ「利他」を全ての人がそれぞれの立場で實(実)現すれば、世界に平和が訪れることになるのである。
つまり、これも第一章で述べたが、祭祀の機能は「人類の融和」である。これに對(対)し、世界宗教といふのは、特定の宗教勢力が「絶對神(神)」を定め、それを「唯一神」とすることによつて、これと異なる「唯一神」を主張する宗教勢力とは、不倶戴天(ふぐたいてん・ともにこの世に生きられない、また、生かしてはおけないと思うほど恨み・怒りの深いこと)の敵となる。つまり、このやうな宗教の機能は「人類の對立」である。現に、これまで「祭祀戰爭(戦争)」は一度もなく「宗教戰爭」は數(数)限りなく存在したことは嚴(厳)肅な歴史的事實(実)である。人々の救濟(済)のためにあるとする宗教が、まつろはぬ人々を脅し傷付け殺戮する。それゆゑ、世界平和を眞(真)に實(実)現するためには、人類は宗教進化論の誤謬(ごびゅう・まちがい)に一刻も早く氣(気)づいた上で、祭祀から退化・劣化した「宗教」を捨てて始源的で清明なる「祭祀」に回歸(帰)することしかない。つまり、人類の理想に到達できるのは、祭祀による祖先と萬(万)物に對する感謝をしなから自己の德目を磨き上げることを人生の目標とすることが人類共通の志となるのである。
そして、これが、家族、社會(会)、國(国)家、そして世界の志となれば、自づと動的平衡を保つた堅固な社會構造が出現する。それが後に述べる自立再生社會である。
真理と理想に近づく社會(会)構造は、決して複雜なものであつてはならない。單(単)純明快であることが必要である。煩を去つて朴に復る。これは、「良い考へは常にシンプル」(クリフォード・ハーパー)とか、「小さいことは美しい(スモール イズ ビューティフル)」(E.F.シューマッハー)、あるいは「單純なことは美しい(シンプル イズ ビューティフル)」といふ言葉で表現してもよい。複雑で難解な社會と經濟(経済)の構造では、假(仮)にそれが適正なものであつたとしても、それを理解し管理しうる者だけが社會と經濟を支配する寡頭政治となり、支配構造に對(対)する生殺與(与)奪の權(権)限を掌握した者が故意又は過誤によつて過つた運用をすれば全體(体)の社會の經濟の構造が脆くも崩壞(壊)することになるからである。
そして、この國(国)家の志、さらには世界の志として共通して必要なものは、この方向貿易理論の必然的な歸(帰)結である「自立再生論」を實(実)現するといふ志以外には存在しえないことが理解されるはずである。
(自立再生社會の概要)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304856041.html
いろいろと・・・
大量の洗濯物と未だ格闘中のらすかる☆です(笑)
4泊5日分の洗濯物はものすごい量です。
ハンガーが足りないこともあり、明日も洗濯の日々が続きます。
7月末締めのお仕事や、保育園の夏祭り、ドラクエなんかでバタバタ過ごしてます(ドラクエは余計ですね(^_^;))
旅行中、育児日記の方のブログにチョコチョコ写真をアップしていました。
興味のある方、よかったら見てくださいね
http://rascal.studio-t.jp/?eid=896113
(記事の上にある右側のリンク先(このページなら「初飛行機」)をクリックすると時系列で読むことができます)