國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-1
はじめに・らすかる☆より http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10277101543.html
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第六章 萬葉一統
第二節 自立再生論
(自立再生論と新保護主義の相違點)-1
では、この自立再生論と前に紹介した新保護主義とは、どこが同じでどこが違ふのか、といふことについて説明したい。
まづ、方向貿易理論を採用してゐる點(点)は完全に一致してゐる。そして、グローバル化こそ世界滅亡の道だとの認識や、輸出入を制限していくなど、その前提となつてゐる自由貿易と國(国)際資本の認識などについてもほぼ一致してゐる。また、GATT(WTO)の解體(体)など既存の國際組織を解體させる方向は熱烈に支持できるし、その他指摘された七つの具體的政策提案についても、以下に述べる點を除き、さほど大きな異論はない。
しかし、まづ、大企業の解體(体)については、これを強制的に行ふことには絶對(対)に反對である。方向貿易理論に適合しない企業は、その大小を問はず自然淘汰されていくとするのが自立再生論であつて、このやうな政策は、方向貿易理論の實踐(実践)にとつては完全にマイナスになる。企業の産業的牽引力に信賴(頼)を寄せるべきであり、ましてや、大企業には一般的にはスケールメリットによる技術とノウハウの集積があり、何よりも雇用の確保と擴(拡)大がなければ、産業構造の變(変)革は實(実)現できない。大企業の解體政策は、これらを否定して、失業を增(増)やし、技術とノウハウを散逸させて國(国)内經濟(経済)全體を沈滯化させ、自給自足體制へ移行するために大きな桎梏となつてしまふからである。
このやうな「大企業の解體(体)」の主張は、マルクス主義の亡靈である。企業は惡(悪)、大企業は巨惡とする考へに根據(拠)がないことは明らかである。企業(會(会)社)が惡であれば、その相似形である家庭も國(国)家も惡であり、人間自身も惡となる。それは本能を否定する性惡説である。道(規範)を踏み外すことがあつても、必ずまた道に戻ることも本能による規範意識による。江戸中期に、石門心學(学)といふ獨(独)自の學派を拓いた石田梅岩は、武士に武士道があるのなら、商人にも商人道(商道)があると説いた。雛形理論である。そして、利を求める商人にも人としての義(士道)を守ることを求め、利と義とは兩(両)立するとし、その序列を「先義後利」とした。これが我が國の「あきんど」の魂として定着し、今日に至つてゐる。道を外すことを「外道」といふ。秩序と規範の投影である禮(礼)がないことを、無禮、非禮、失禮といふ。禮に始まつて禮に終はる。それが道である。その意味では、「柔道」や「空手道」などがスポーツとなつたときに武道は死んた。試合終了の禮を濟(済)まさないうちから、勝つて小躍りしてガッツポーズをする姿は見苦しく、外道の野蠻(蛮)人と成り下がる。これと同じで、儲かつたことを世間に誇示するだけで社會(会)奉仕をしないのは商道から外れる。
このやうな「商道」の思想は、共産主義者からすれば理外の理なのであらうが、いづれにせよグリンピース・インターナショナルの經濟擔當(経済担当)者コリン・ハインズがこの新保護主義の主唱者の一人であつたことからすれば、冷戰(戦)構造崩壞(壊)後、マルクス主義者ないしは共産主義者の多くが環境保護思想へと轉(転)向して行つたことと無縁ではないと想像できる。そして、そのためか、この新保護主義には決定的に缺(欠)けてゐる「視座」があることに氣(気)付くのである。
それは、第一に、新保護主義が打倒しようとする現在の國(国)際體(体)制が大東亞(亜)戰爭(戦争)の戰後體制であるとする認識が完全に缺(欠)落してゐる點(点)である。新保護主義を育んだ土壤は、まさに大東亞戰爭を「惡(悪)」として斷(断)罪した歐米思想であり、大東亞戰爭による大東亞共榮(栄)圈(圏)といふ經濟(経済)ブロックを壞滅(壊滅)させるために歐米が構築した經濟ブロックによる「保護主義」をそのまま承繼(継)した「新保護主義」であるといふ思想的系譜なのである。もし、新保護主義が自己の正當(当)性を主張するのであれば、安政の假(仮)條(条)約によつて、保護主義の極地であつた鎖國主義を放棄させた歐米の誤りに對(対)する歴史的な懺悔から出發(発)しなければならないはずであるが、やはりこの新保守主義なるものは、白人至上主義を一歩も出られない普遍性のない思想といふことである。
國體護持 第六章 第二節 (自立再生論と新保護主義の相違點)-2 http://ameblo.jp/rascal-amb/entry-10304860094.html