横浜にぎわい座
どうもこんばんは霧島です。
暑い日が続いていますが皆さん大丈夫でしょうか。私はダメです。
話は変わりますが、先日サークルのミーティングで念願の落語に行
一時期めちゃくちゃハマってYouTubeなんかで聴いたりして
横浜は桜木町駅からすぐのところににぎわい座という寄席があるの

このあたりは周辺の建物もちょっと雰囲気のある感じでいいです。
にぎわい座の建物自体は新しく、どのような経緯でできたものなの
【創設】
開港後、日本中から横浜に人が集まるようになり、娯楽が求められ
横浜高速鉄道みなとみらい線の開業(2004年2月1日)に伴う
2002年、当時の高秀秀信市長によって、横浜中税務署跡地に、
とのこと。
街の活気が失われることを心配する地域住民の声がにぎわい座のオ
当日の演目はご覧の通り。

落語を聴くのがメインのつもりでしたが、色物も大変面白かったで
パフォーマンスしつつも話芸もしっかりしていて、エンターテイメ
落語は滑稽噺も人情噺も織り交ぜて演じられ、笑ったり泣いたり
スタートは前座から始まって最後は真打という構成ですが、話の引
実際に私たち
また聞いている人に、いかに自然にわかりやすく状況を説明するか
こうして考えてみると、漫画を描く
見ている人、
落語で漫画と言えば、「昭和元禄落語心中」が大変面白く、第17
いきなり寄席に行くのはハードルが高くても、まずは身近なところ
といいつつ、チケットを買って席につけば面白い世界に引き込んで
ちなみに2時間みっちりで3000円くらいですが、途中の休憩か
以前友達と新宿の末廣亭に行きたい…と話していたのですが、コロ
落語に行ってきたよの話はこのくらいにして、つい先ほどの話です
もちろん会場はすごい人込みでしょうからそちらに向かうのは避け
いつもより少し遅めの散歩に繰り出した際に横浜駅の近くでビルの

この夏…ただ暑いというだけで終わってしまう…と思っていたので
子どもの時は花火の大きな音がそれはもう苦手で泣きじゃくってた
あとまた漫画の話に戻るけど、花火とか夏祭りはシチュエーション
実は先日これまた散歩の途中にたまたま町内のお祭り的なものに遭
お祭り、好きだけど結構気合い入れとかないと立ち向かえない…
でもあのちょっと浮かれた感じの雰囲気いいですよね。久しぶりに
では夏のあれこれに思い馳せつつ仕事に戻ります。実はまだノルマ
したらば!
rin
Xにツイッターを代入したい
須々木です。
あれよあれよという間に、ツイッターの青い鳥がどこかに旅立っていってしまいました。
このスピード感の差に、良くも悪くも日米の違いを垣間見る思いです。
国によってネットのサービスに対する考え方は大きく異なりますし、そもそも無料で使っている身なのであまり文句も言えませんが、もう少し明確なビジョンの提示と事前告知をしてくれるとありがたいものです。
多少の変化を加えながらも当たり前のように存在していたツイッターというツールの今後に対する不透明感が急激に増していく中、“次”を探す動きも見られます。
その様、まさに民族大移動。
しかし、意外とツイッターの代替となるツールは見当たらないのが難しいところです。
もちろん、ツイッターに何を求め、どのように活用していたのかにもよりますが。
僕は日常的にツイッターを見るタイプですが、リストで見るタイプです。
フォローしているけれどほとんど見ていない場合もあれば、フォローしていないのにリスト表示している場合もあります。
日常的に見ているわりには、通常あまりコミュニケーションツールとして活用していません。
有用な情報の仕入れと、備忘録のような使い方です。
あとは社会観察。
ツイートするときも、一言で書く日記のようなもので、自分用のメモに近い感覚です。
よって、積極的にリプを飛ばしあう使い方をする人とはたぶん使い方にかなり差がありそうです。
ツイッターのDMは、日常的なコミュニケーションツールとしては使っていませんが、普通に連絡手段としては使います。
横浜創作オフ会でもメインの連絡手段として使っているので、あれこれ制限がかかると、わりと厄介です。
インスタのDMも機能的には似たようなものですが、ツイッターとインスタは根本的に文化が違いますしね・・・
こうやって考えると、ほどよく緩く使えるツイッターはなかなか優れたツールだった気がします。
これが根本的に改造され、似て非なるものになったらと考えると、やはり悩ましいものです。
実質ツイッターでしかつながっていない人もいますし。
必要に応じて早めに予備の連絡手段を確立していく必要がありそうです。
結局、一つの会社がコントロールするサービスへの依存というのは、長い目で見て一定のリスクがあると気付かされます。
僕はツイッターがなくなっても生きていく上で特に困りませんが、ツイッターを通じて仕事をゲットする人は致命的でしょう。
同じことはYouTubeに関しても言えそうですが、便利であっても命運を委ねるのはリスキーですね。
その点で言うと、ネット黎明期の個人サイト文化というのは、面倒なところはありつつも、全体として強いシステムを形成していたと言えそうです。
乱立するサイトに完全な依存関係があるわけではなく、どこかが停止しても全体としての機能不全は起きにくいシステムでした。
理想的には、
- SNSやアプリなどのツール (圧倒的に便利だけど翻弄されることも)
- 個人サイトやサークル公式サイト (面倒だけど自由度が高く安定感がある)
- オフの繋がり (時間や場所の制約はあるが圧倒的に密で効率的なコミュニケーション)
の三位一体が良い気がします。
どれも一長一短なので、良いとこどりなら最強ですし、個人的にもあっています。
よって、僕が主導して何かやるときは、だいたいこの三位一体路線になっていきます。
どれか一つに特化すると、瞬間的に盛り上がったとしても「繋がり」の寿命が短くなりやすい気がするんですよね。
もちろん瞬間的な盛り上がりはおおいに結構なのですが、その後に意味ある何かが残り続けるのか否か。
そんなわけで、間もなく「第10回横浜創作オフ会:再開」の参加募集を開始します。
年2回ペースだったものが中断し、2019年9月以来の復活です。
過去9回を重ねた「繋がり」はどこまで生きているのか。
まだこの「場」は需要があって機能するものなのか。
正直、予測不能です。
初回同様、「やらなきゃ分からんな!」と思いつつ、とりあえずやれることをやってみましょう。
ちなみに、ツイッターがXになっても、横浜創作オフ会は横浜創作オフ会です!
sho
7月の活動報告
どうも遊木です。
……暑すぎるっ!!!!
太陽が痛い!
日中は外出しないよう心掛けているんですが、先日、久々に1時間以上屋外に滞在したら、あっという間に熱中症予備軍になりました。
帽子被って傘さして、小まめな水分補給しててもなるんだから、もう外に出ちゃいかん。
個人的に、カバンの中の水が熱めのお湯になってたのは衝撃だった。
ということで、今月の活動報告です。
□制作関連
ここ最近は、打ち合わせ、プロット、資料漁り、絵コンテ、ネーム作業をずっと繰り返しています。
毎回プロットまではスピーディに出来るのですが、絵コンテ→ネームに時間が掛かるのと、意外と資料漁りも時間泥棒。
現在制作中の作品は、現実に沿った専門性のある作風なので、ソース確認を重視しているのですが……論文とか探し当てちゃうと、まぁ読むのに時間かかるよね。
もちろん毎回全部読むわけでもないし、話に関係ない箇所はガンガン飛ばしますが。
自分の足で確認出来るものは話が早いけど、扱うネタには、資料でしか事実確認出来ないものも結構あるので、そいつらがネックです。裏付け作業に、複数の資料を漁る必要があるから。
積読も着々と溜まっていくわ……。
もうあれかな……今週は積読を片付ける週とか決めて、一気に攻めないとダメなのか。
最近は、作品からのインプットが全然出来ていないので、そちらもどうにかしたいです。
ただ、今月から始めた第何稿になるかわからんネームは、結構すらすら進んでいる気がします。
っていうか、前回があまりにも難産で白目向いてたので、普通のスピードでも「め、めっちゃ進む…!」と勘違いしている気がする。
ネーム以外では、ちょっと落書きをしてました。
先日は軽い気持ちで車を描き出したら、「ぇ…ぇ…!?楽しい~!」ってテンション上がって、線画だけのつもりが色まで付けてしまった。
□落語鑑賞
ミーティングの時間を使って、初めて落語鑑賞に行きました。
明らかに我々が最年少グループでしたが、普通に面白くて、また行きたいと思った!
落語と言えば、メインターゲットはお年寄りのイメージですが、若い人も全然楽しめると思います。
途中に挟まる「色物」の芸も見応えがあるし、やはり、トリを務める「真打」の演技力は圧倒されるものがありました。
「面白いとは何なのか」と考える良い機会だったと思います。
□「士郎正宗仕事展」鑑賞
マルイシティ横浜で開催された展示会です。
展示スペースは狭いながらも、作品一点一点の情報量がとんでもない作家なので、鑑賞後はかなりの満足感がありました。
攻殻機動隊を初めて見たときは衝撃を受けましたが、不思議と自分の中にすっと浸透する感覚があったのを覚えています。
私の創作の根源には「銀河鉄道999」があるので、サイバーパンク的設定や思想、SFとは元々相性が良かったのでしょう。
どの作品もディティールの描き込みがすごく、「うわぁ~自分でも描きたい~!」と思わせる熱量がありました。
□三連休
〇BAY WALK MARKET 2023(夏季の部)
お邪魔するのが恒例になってきました。
夕涼みに行くのに、丁度良い規模感なんですよね。
海を見ながらビールの飲み比べを楽しみつつ、ジャズの演奏を聴いたり、沢山いるワンちゃんたちを愛でたり、QOLの向上を感じる催しです。
〇オイスターバーに行った
ずっと気になっていたベイクォーターのKinkawookaに行きました。
美味しかった……!!
牡蠣といえば、生牡蠣か牡蠣フライしか食べ方を知らなかったのですが、意外と色々な食材に合うんですね。
あと、産地によって味の差がかなりあることも知りました。
産地食べ比べのメニューがあるオイスターバーに行ったら、是非注文して欲しい。
□ポケモンカード展
〇ポケモンカード美術館
この夏の横浜は至る所でポケモンコラボをしていますが、そのうちの一つです。
スカイビル10階に、本物のカードが飾られています。
パルデア地方のカードが、何枚か伏せてある状態だったのが面白いですね。
パラドックスポケモン等が開いてないと思われますが、期間中に表になるのだろうか。
〇ポケモンカード 伝説の回廊
こちらはランドマークプラザで開催中です。
ポケカの中でも、特に伝説系の特大カードが展示されています。
質感やキラキラ感も再現されているので、ポケカ好きの人必見です。
というか、SARは普通に絵が美しいですね。
「暫く見ない間に伝説ポケモンがこんなに増えちゃって……」って気持ちになりました。
□映画「君たちはどう生きるか」鑑賞
詳細は長々と別記事であげているので、そちらをどうぞ。
複数回見ると、また違った感想を抱きそうな作品です。
□第10回横浜創作オフ会会合
2020年の3月に一度やりましたが、第10回本番がコロナの影響で流れ、その後長らく休止状態でした。
リベンジですね。
会合ではなかなか面白い話が出来たし、面白いことも起きたので、近々エッセイ漫画的な形で暴露したいです。
……いいよな?
本番は9月ですので、是非記念すべき第10回横浜創作オフ会にご参加を!
□YOKOHAMA URBAN SPORTS FESTIVAL
今年もお邪魔してきました。
天気が良くてスポーツ日和ではありましたが、マジで暑すぎました。
去年は6月の頭に行われていたので、もうちょいマシでしたが……今年はやばかった。
しかしアーバンスポーツは、「都市を舞台にしたスポーツ」というだけあって、街中で開催するのが合ってますね。
他のスポーツより「イケてるか」を重視しているので、サッカーや野球を観戦しているときとは違う楽しみがあります。
お祭りがこのまま定着して欲しいなぁとは思いますが、開催の時期は考慮して欲しい……頼む。
また資料映像が増えたので、空き時間を見つけて動きの研究をしたいですね。
こんな感じで7月は生きてました。
インスタに関連写真を更新しているので、是非そちらもどうぞ。
多分8月はポケモン色になると思います。
aki
君たちは、どう生きるか。
どうも遊木です。
三連休は(インドア人間にしては)アクティブに動き回ったので、太陽を沢山浴びられました。
各地で猛暑日が続出している中、みなさんはどのような連休を過ごされましたか。
さて、巷でも話題のジブリ最新作『君たちはどう生きるか』。
私も三連休明けにしっかり見てきましたよ。
いろいろ感じるものがあったので、思うままに感想を書いていこうと思います。
一回しか鑑賞していない&他情報をほぼ入れていないので、本編と齟齬があるかもしれません。
ご了承下さい。
ここからはネタバレを含む内容になります。
□感想を始める前に
さて、感想を書くにあたってまず躓いたのが、「この作品を分析・考察することに意味はあるのか」という点です。
私は割と考察好きですが、それは考察の先に、作者が仕掛けた遊び心や、作品をより楽しむ鍵があると感じられるから。
そんな中、本作は作り手の宮崎さんですら「私自身、訳が分からないところがある」と答えています。
ただ、自分のことをやるしかない、と。
そんな裸一貫で取り掛かったような作品に、描写の元ネタを探したり、過去のインタビューと不必要に結び付けたり、そんなことに果たして意味があるのか。
野暮ではないか。
一方で、私が作品を分析したり、感想を残すのは、創作者としての自分を蔑ろにしないためです。
「あのときの自分はこんな感想を抱いた」と、記録していくため。
自分の中でぐるぐるした先の折衷案が、「ぐちゃぐちゃの感想を抱いたなら、そのままの形で飲み込んで、整理整頓はせずに、あるがままを残そう」でした。
抱いたものを丸飲みにすることこそ、作品への誠実な向き合い方なのではないか、と。
そう納得したとき、作中、アオサギが何度も自分自身を呑み込み、腹に納めているシーンが過りました。
そんなわけで、まとまりのない文章になりそうですが、思ったことを思ったまま綴っていこうと思います。
□ジブリの一期と二期
まず、私の中で宮崎ジブリは二つのシーズンに分けられています。
長編アニメの第一期、第二期みたいに感じて貰えればわかりやすいかと。
私としては、第一期は『もののけ姫』まで、『千と千尋』から第二期が始まり、『風立ちぬ』で最終回を迎えたイメージです。
『千と千尋』が放映されたときは、「この人は、まだこんなに大きな引き出しを持っていたのか」と感じたものです。
一方、全ジブリ作品を見比べても、『もののけ姫』が一つの頂点であることは間違いないだろうとも思います。
そして、2013年に放映された『風立ちぬ』からは、「監督・宮崎駿の最期」をひしひしと感じました。最期だからこそ、主人公は庵野さんが演じなければならなかったのか、と。
そう感想を抱いていたからこそ、もう一作つくると公表されたときは、「えッ!?」となったわけです。
正直、『君たちはどう生きるか』がどんな作品になるのか、まったく予想できませんでした。
内容の話ではなく、ジブリ作品の中での立ち位置について。
鑑賞した今、本作の私なりの解釈は、「過去のジブリ作品を巡る旅」であり、「宮崎駿を巡る旅」であり、『風立ちぬ』が「監督・宮崎駿の最期」ならば、『君たちは』は、「宮崎駿という一個人の最期」であるな、と。
エピローグであり、総集編であり、処女作であり、遺作でもある。
一期はもちろん、二期にも属さない新しいクールの作品で、だからこそ処女作のような新鮮さもあり、連続ものとしての集大成感もある。
そんな綯交ぜな作品であるな、と。
しかし、
『もののけ姫』は“生きろ。”
『風立ちぬ』は“生きねば。”
そして、『君たちはどう生きるか』。
どんな変化があっても、宮崎さんの貫くものは確かにそこにあります。
また、どんなときであろうと、苦難を乗り越えて成長することが、「生きる」ことであり、人生の解でもある。
それが、宮崎さんのぶれない芯なのかもしれない、とも思いました。
□眞人の「運命の一作」
さて、もう少し内容に踏み込んでみましょう。
主人公の眞人は、『千と千尋』以降に見受けられる、非常に“生っぽい”人物です。
戦時中という、時代に沿った日本男児らしい振る舞いが出来る一方、年相応の弱さやずるさがある。
嫌悪するほどではないけど、眞人はヒーローや聖人ではない。
ただの子供、ただの人であると。
それがこの物語の大前提。
母の死、父の再婚、上手く伝えられない想い、煩わしさ、そういった沢山の“儘ならないもの”。
そんな日々の転換点となるのが、実母が残した「君たちはどう生きるか」という本との出会い。
この本との出会いを境に、自己完結していた主人公の視点は徐々に変化していきます。
ところで、人生には「運命の一作」が存在する、私はそう信じています。
あの作品と出会ったから、今の自分がある。何年経っても、心の片隅にあり続ける。
そんな作品です。
そして、創作者なら一度は思ったことがあるでしょう。
願わくば、自分も誰かの「運命の一作」を創りたい、と。
ジブリ作品の多くは、「運命の出会い」をきっかけにキャラの成長が始まります。
それが人だったり、事件だったり、本だったり、表現は様々ですが。
私は、宮崎さんが「自分のことをやる」という軸からぶれていないと感じたのは、この点でした。
本作には「これは宮崎さん自身かな」と思わせるキャラが多数いますが、眞人もまた宮崎さんの依代ならば、彼が成長するための「運命の出会い」は、空から降ってくる少女でも、森の妖精でも、神からの呪でもない。
後に沢山の物語を生み出す、熱心な読書家であった宮崎少年と同じで然るべきだ、と。
眞人の「運命の出会い」は、「運命の一冊」でなければならなかった。
また、眞人の「運命の一冊」が、映画タイトルと同一なことも印象的でした。
もしかしたら、この映画もまた、いや、今まで自身が生み出した作品もまた、誰かの「運命の一作」になるのではないか。
そんな願いがあるのかもしれません。
□アオサギは誰?
物語で一番象徴的なもの、それが作品の顔であり、ポスターにも載っているアオサギです。
登場シーンから、かなり印象的に描写され、鑑賞者の多くが「コイツが何者なのか」が一番気になったことでしょう。
結論から言うと、アオサギが何者なのかは明かされません。
(それをいうなら、作中のほとんどのものが明かされないが)
眞人を塔に誘うものであり、敵であり、協力者であり、信用できないものであり、友であり、相棒である。
そして、おそらく今後二度と巡り合わないモノ。
最初は不気味に、途中からはコミカルに描かれるアオサギですが、彼は作中で異端な存在です。
本作はとにかく鳥が沢山出てきますが、不思議ワールドで自我を持つ鳥たちは、現実の世界に解き放たれた瞬間、普通の鳥に戻ります。
まるで、魔法が解けるように、夢から覚めるように。
しかし、アオサギだけは現実と不思議の世界を行き来できる。
また、アオサギの風切り羽(作中では「カザキリの七番」と呼ばれていた)は、不思議ワールドの鳥たちから身を守る力がありました。
明らかに異質な存在のアオサギは、一体何を意味しているのか。
私は、もしかしてアオサギは高畑さんなのではないか、と思っています。
意見が合わないことも、ムカつくこともある。
しかし、“創作”という不思議ワールドで、時にはライバル、時には協力者、時には相棒として、そこにいてくれた人。
もちろん、創作以外の場面でも、沢山の思い出があるでしょう。
何より、本作の中に、かつては相反する表現だとしていた高畑イズムを感じるんですよね。
まるで、先に逝かれた高畑監督もまた、自分をつくる一部であったと、宮崎さん自身が呑み込んだような。
そんな感覚を抱きました。
□鳥は自由か
先にも述べたように、本作はとにかく「鳥」が沢山出てきます。
みなさんは「鳥」にどんな印象を持ちますか。
私は、まず初めに「自由の象徴」が思いつきます。
しかし、本作に出てくる鳥は、何かしら不自由で、不気味で、恐ろしさがあります。
じゃあ、この作品においては鳥=自由の象徴ではないのか、と聞かれると、私はそんなことはないと思いました。
よく、創造・妄想の世界は自由と言いますよね。
私は本作の塔の中、つまり不思議ワールドはそれに該当すると思っています。
だから、そこには自由を象徴する鳥が沢山いるし、現実では起こりえないことが沢山起こる。
不条理が受け入れられている。
本作は“自由”を、素晴らしいものではなく、恐ろしいもの、一筋縄ではいかないものとして描いているのではないか。
むしろ、真の自由は不自由の中にこそあるのではないか、と問いかけているように感じました。
偶然なことに、それは創作の在り方に似ています。
そして、人生の在り方にも通ずるものがある。
□大叔父の願い
さて、本作のもう一人の重要人物は、眞人の大叔父です。
失踪した義母を探すために迷い込んだ不思議ワールドで、導かれるように大叔父と出会う眞人。
彼は眞人に、世界をつくる自分の仕事を継いで欲しい、継げるのは血縁だけ、と言います。
その後には、自身が世界を巡って集めた、汚れのない、美しい積み木を用意し、「お前が積みなさい、優しい平和な世界をつくりなさい」と言います。
しかし眞人は、自身のずるさの象徴である傷を触りながら、「自分には資格がない」として、大叔父の仕事は継がない意志を伝えます。
大叔父は、まるで最初から分かっていたように眞人の意志を受け入れます。
これは本当にそのままですが、全て宮崎さんの言葉なのではないでしょうか。
自分のあとを継いで欲しい、仕事を継いで欲しい。
優しい平和な世界=夢と希望を与える作品を作って欲しい。
ただ、先の未来を生きる者たちが、それを受け入れないという選択をするのなら、自分もそれを受け入れよう、と。
実の息子に向けた言葉なのか、息子含めた映画監督たちに向けた言葉なのか、全ての人に向けた言葉なのかはわかりませんが、これは、そのまま宮崎さんの真実だと思いました。
また、大叔父が用意した無垢の積み木を、怒ったインコ大王が組み立て、崩れそうになったら剣で真っ二つにしてしまったシーンも印象的でした。
同じ国の住民でありつつ、身内ではないものに壊される無垢の積み木。
しかし、インコ大王の暴挙に眞人も大叔父も、怒りはしなかった。
ここにも、宮崎さんの何かしらの想いがあったのでしょうか。
結果、眞人はこれがきっかけで不思議ワールドと、つまりは大叔父や若き日の母と決別するわけですが、ほとんどは自分の意志で別れを告げています。
「この世界に留まるより、現実でヒミやキリコ、アオサギのような友をつくる」と。
創造した世界がいかに楽しくても、現実と切り離すことはできない。
いつかは帰る時が来る。
一方で、創造世界で得た成長は、現実世界に連れて行くこともできるのだ。
これは、映画が持つ力、作品が持つ力を、宮崎さんが信じ続けている証でもあるように感じました。
□旅の終わり
最後は父と義母と再会を喜び、最終的には弟を交えた、新しい家族の絆を暗示させ、物語は終わります。
話しは戻りますが、主人公視点のせいか、序盤は父も義母もお手伝いさんも、腹に何かしら一物ありそうな印象を受けます。
コミュニケーションが取れない父、含むものが在りそうな義母、媚びてくるばあや達。
さぁ、本性はどんな奴だ?と、こちらも期待していたぐらいです。
しかし、主人公の見る目が変わると、彼らの印象もガラリと変わります。
「形」は人それぞれであるけど、彼らの言動には確かに「優しさ」がある。
誰も眞人を陥れようとはしていない。
彼らなりの愛情を示している。
だからこの物語は、「愛情を知っていく旅」でもあるのかもしれません。
しかし、旅はいつか終わるもの。
アオサギが最後に残した言葉が、私としては宮崎さんからの一番のメッセージに感じました。
“今は向こうの世界を覚えている、でもやがて忘れていくだろう”
―――それで良い。
まるで、そういわれているような。
物語の展開で泣くシーンはなかったのに、私は最後のこの言葉でブワッときました。
やがて忘れる、それが自然なこと。
ただ、忘れることは“なかったこと”にはならない。
□最後に
どんな偉大な先人がいても、苦難があっても、親しい人の言葉があっても、自分の人生の舵を人に委ねてはいけない。
その上で、多くの人に支えられて生きている現実を、ありのまま受け止めろ。
それが、『君たちはどう生きるか』から受け取った、私なりの教訓です。
この作品から何を受け取るか、何も受け取らないか、それも自由でしょう。
足並みを揃える必要はない。
無理に感動する必要も、わかろうとする必要もない。
何故なら、宮崎さんも「わからない」と言っているから。
誰に向けたものなのか、監督本人でも判然としないのではないでしょうか。
あくまで、「自分はこう生きた。君たちはどう生きるか」だと思うから。
さて、かつて旅をした少年は、やがて“次の誰か”の背を押すのでしょうか。
叶うなら、自分も誰かの背を押せるだけのものを、この世に残したいですね。
一緒に見に行った須々木氏も感想をあげているので、そちらもどうぞ。
カヘッ!
aki
「君たちはどう生きるか」備忘録
須々木です。
カヘッカヘッカヘッ pic.twitter.com/uUYHjaNMsX
— スタジオジブリ STUDIO GHIBLI (@JP_GHIBLI) July 13, 2023
というわけで、宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」見てきました。
カヘッカヘッ?
せっかくなので、今回も備忘録を好き勝手にまとまりなく書いておこうと思います。
毎度のことながら、あくまで個人的な見解であることをご了承ください。
ちなみに、「風立ちぬ」については以下の記事参照です。
※※ 以下、映画「君たちはどう生きるか」ネタバレ注意 ※※
そもそも見る前に少し思いましたが、タイトルの付け方が前作「風立ちぬ」と似ていますね。
既存の作品のタイトルをそのまま使っているものの、内容的にはほぼ別物(オリジナル)というスタイルです。
そして、やはり見てみると「風立ちぬ」とセットで感じるべきものであると思いました。
「風立ちぬ」は宮崎駿が引退を宣言して作り上げた作品。
「君たちはどう生きるか」ではたぶん改めて引退宣言はしていない気がしますが、それを意識していないことはないであろう作品。
両作ともに、宮崎駿が“宮崎駿”の終わり(作家としての終わり、人間としての終わり)をリアルに感じながら作り上げた作品でしょう。
これら二つの作品は、どちらもリアルベースの日本の戦時中を描いているという共通項があります。
1941年に生まれた宮崎駿の幼少期に相当する時代です(数年のギャップはあるとも言えるが)。
また、自らのルーツとも言える戦闘機製造と接点を持つ主人公というのも似ています。
もちろん、「風立ちぬ」は戦闘機がシナリオの軸であり、責任ある大人として主人公が描かれている点で、直接的に戦闘機に関わらない「君たちはどう生きるか」とは異なります。
しかし、実家の航空機製作所とともに疎開した宮崎駿の幼少期の経験がベースにあることは共通しているでしょう。
このように似た点も多い「風立ちぬ」と「君たちはどう生きるか」ですが、印象はだいぶ異なります。
あくまで個人的な感覚ですが、「風立ちぬ」はベクトルがよりストレートに自分に向いていて自伝的だったように思います。
自分がやってきた仕事を振り返り、意味づけをしていくような感覚の作品でした。
重みのある独白をアニメーションとして聞かされるような感じです。
一方、「君たちはどう生きるか」は、自分をつくってきた周囲の人々まで組み込んでいて、どこか遺言的な雰囲気を感じました。
一般の観客に向けて何かを伝えようという意識は相対的に低く、より自由で非商業的、同人的な作品と思えました。
言いたいことをこの一作で言いきるため、商業的に整えるための「削る作業」そのものを削ってしまったような作品でした(故に、非常に要素が多く感じる)。
そして、鈴木Pが「宣伝しない戦法」をとったのは、本作があまりに非商業的であり、「商業的な慣例に則った宣伝」が難しすぎたせいではないかとも思います。
内容に関しては、正直よく分かりません。
シナリオはいろいろよく分からないし、伏線がどうなっているのかの判断は難しいです。
もしかして、もっとしっかり見ると分かってくるのかもしれませんが。
この「分からない感じ」は、宮崎作品において「もののけ姫」まではほとんどなかったような気がします。
「千と千尋」で断片的に入り始めて、その後、より目立つようになってきたと思います。
「ハウル」や「ポニョ」は、この路線の到達点と言える作品だと思いますが、「もののけ姫」でひとつの頂点を極めて以降の宮崎作品群の特徴でしょう。
よって、「風立ちぬ」がちょっと違う路線だったことを考えれば、「君たちはどう生きるか」は路線回帰なのかもしれません。
しかし、「ハウル」や「ポニョ」のような“エンタメのラッピング”(分かった気にさせる効果)もより省かれてしまっているので、「いろいろ分からない感じ」「シナリオ解釈が明示的でないこと」を許容できるかどうかで賛否が大きく分かれそうです。
客にアートを鑑賞するようなスタイルを求める形になり少々酷な気もしますが、これこそレジェンドの特権なんでしょう。
極端に分かりやす過ぎるものが蔓延る現代において、このように分かりにくいものに触れられる機会は貴重だと思いますが、この感覚はまさしく現代アートに触れるときの感覚です。
これを「ただのアニメーション作品ではない鑑賞体験を得られる!」と捉えるか、「アニメーション作品の体を成していない!」と捉えるかは個人の自由だと思います。
みんなで同じ見方をする作品でないことだけは確かでしょう。
ひと通り思考した後、タイトルについて考えてみることが多いのですが、今作「君たちはどう生きるか」はなかなかどうしたものか。
「君たち」とは誰のことなんでしょう?
普通に考えると「映画を見た人たち」「これからの時代を生きる人たち」みたいな気はしますが、個人的には「宮崎駿の周囲の人々」という気もします。
本作は、わりと狭い範囲の人々に向けて作った作品なのではないか。
だからこそ「外野」である我々には余計に意味が分からないのではないか。
もしくは、「君たち」というのは結構どうでも良いのかもしれません。
本作は結局、小学生だった宮崎駿が、教科書に載っていた『君たちはどう生きるか』に強い印象を受け、長い時を経てようやくアンサーを形にできた作品。
そう考えるなら、本作冒頭に掲げるタイトルが「君たちはどう生きるか」となるのは、もはや必然という気がしてきます。
「宮崎駿は、こう生きたんだよ」と。
そして、それをどう捉えるのかは、皆さんの自由だと。
○参考 : 「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと|好書好日
sho

















