君たちは、どう生きるか。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

君たちは、どう生きるか。

どうも遊木です。

三連休は(インドア人間にしては)アクティブに動き回ったので、太陽を沢山浴びられました。

各地で猛暑日が続出している中、みなさんはどのような連休を過ごされましたか。

 

 

さて、巷でも話題のジブリ最新作『君たちはどう生きるか』。

私も三連休明けにしっかり見てきましたよ。

 

いろいろ感じるものがあったので、思うままに感想を書いていこうと思います。

一回しか鑑賞していない&他情報をほぼ入れていないので、本編と齟齬があるかもしれません。

ご了承下さい。

 

 

 

 

ここからはネタバレを含む内容になります。

 

 

 

 

 

 

□感想を始める前に

さて、感想を書くにあたってまず躓いたのが、「この作品を分析・考察することに意味はあるのか」という点です。

私は割と考察好きですが、それは考察の先に、作者が仕掛けた遊び心や、作品をより楽しむ鍵があると感じられるから。

そんな中、本作は作り手の宮崎さんですら「私自身、訳が分からないところがある」と答えています。

ただ、自分のことをやるしかない、と。

そんな裸一貫で取り掛かったような作品に、描写の元ネタを探したり、過去のインタビューと不必要に結び付けたり、そんなことに果たして意味があるのか。

野暮ではないか。

 

一方で、私が作品を分析したり、感想を残すのは、創作者としての自分を蔑ろにしないためです。

「あのときの自分はこんな感想を抱いた」と、記録していくため。

 

自分の中でぐるぐるした先の折衷案が、「ぐちゃぐちゃの感想を抱いたなら、そのままの形で飲み込んで、整理整頓はせずに、あるがままを残そう」でした。

抱いたものを丸飲みにすることこそ、作品への誠実な向き合い方なのではないか、と。

 

そう納得したとき、作中、アオサギが何度も自分自身を呑み込み、腹に納めているシーンが過りました。

 

そんなわけで、まとまりのない文章になりそうですが、思ったことを思ったまま綴っていこうと思います。

 

 

 

□ジブリの一期と二期

まず、私の中で宮崎ジブリは二つのシーズンに分けられています。

長編アニメの第一期、第二期みたいに感じて貰えればわかりやすいかと。

 

私としては、第一期は『もののけ姫』まで、『千と千尋』から第二期が始まり、『風立ちぬ』で最終回を迎えたイメージです。

『千と千尋』が放映されたときは、「この人は、まだこんなに大きな引き出しを持っていたのか」と感じたものです。

一方、全ジブリ作品を見比べても、『もののけ姫』が一つの頂点であることは間違いないだろうとも思います。

そして、2013年に放映された『風立ちぬ』からは、「監督・宮崎駿の最期」をひしひしと感じました。最期だからこそ、主人公は庵野さんが演じなければならなかったのか、と。

 

そう感想を抱いていたからこそ、もう一作つくると公表されたときは、「えッ!?」となったわけです。

正直、『君たちはどう生きるか』がどんな作品になるのか、まったく予想できませんでした。

内容の話ではなく、ジブリ作品の中での立ち位置について。

 

鑑賞した今、本作の私なりの解釈は、「過去のジブリ作品を巡る旅」であり、「宮崎駿を巡る旅」であり、『風立ちぬ』が「監督・宮崎駿の最期」ならば、『君たちは』は、「宮崎駿という一個人の最期」であるな、と。

 

エピローグであり、総集編であり、処女作であり、遺作でもある。

一期はもちろん、二期にも属さない新しいクールの作品で、だからこそ処女作のような新鮮さもあり、連続ものとしての集大成感もある。

そんな綯交ぜな作品であるな、と。

 

しかし、

 

『もののけ姫』は“生きろ。”

『風立ちぬ』は“生きねば。”

そして、『君たちはどう生きるか』。

 

どんな変化があっても、宮崎さんの貫くものは確かにそこにあります。

 

また、どんなときであろうと、苦難を乗り越えて成長することが、「生きる」ことであり、人生の解でもある。

それが、宮崎さんのぶれない芯なのかもしれない、とも思いました。

 

 

 

□眞人の「運命の一作」

さて、もう少し内容に踏み込んでみましょう。

 

主人公の眞人は、『千と千尋』以降に見受けられる、非常に“生っぽい”人物です。

戦時中という、時代に沿った日本男児らしい振る舞いが出来る一方、年相応の弱さやずるさがある。

 

嫌悪するほどではないけど、眞人はヒーローや聖人ではない。

ただの子供、ただの人であると。

それがこの物語の大前提。

 

母の死、父の再婚、上手く伝えられない想い、煩わしさ、そういった沢山の“儘ならないもの”。

そんな日々の転換点となるのが、実母が残した「君たちはどう生きるか」という本との出会い。

この本との出会いを境に、自己完結していた主人公の視点は徐々に変化していきます。

 

 

ところで、人生には「運命の一作」が存在する、私はそう信じています。

あの作品と出会ったから、今の自分がある。何年経っても、心の片隅にあり続ける。

そんな作品です。

 

そして、創作者なら一度は思ったことがあるでしょう。

願わくば、自分も誰かの「運命の一作」を創りたい、と。

 

 

ジブリ作品の多くは、「運命の出会い」をきっかけにキャラの成長が始まります。

それが人だったり、事件だったり、本だったり、表現は様々ですが。

 

私は、宮崎さんが「自分のことをやる」という軸からぶれていないと感じたのは、この点でした。

 

本作には「これは宮崎さん自身かな」と思わせるキャラが多数いますが、眞人もまた宮崎さんの依代ならば、彼が成長するための「運命の出会い」は、空から降ってくる少女でも、森の妖精でも、神からの呪でもない。

後に沢山の物語を生み出す、熱心な読書家であった宮崎少年と同じで然るべきだ、と。

眞人の「運命の出会い」は、「運命の一冊」でなければならなかった。

 

また、眞人の「運命の一冊」が、映画タイトルと同一なことも印象的でした。

もしかしたら、この映画もまた、いや、今まで自身が生み出した作品もまた、誰かの「運命の一作」になるのではないか。

 

そんな願いがあるのかもしれません。

 

 

 

□アオサギは誰?

物語で一番象徴的なもの、それが作品の顔であり、ポスターにも載っているアオサギです。

登場シーンから、かなり印象的に描写され、鑑賞者の多くが「コイツが何者なのか」が一番気になったことでしょう。

 

結論から言うと、アオサギが何者なのかは明かされません。

(それをいうなら、作中のほとんどのものが明かされないが)

 

眞人を塔に誘うものであり、敵であり、協力者であり、信用できないものであり、友であり、相棒である。

そして、おそらく今後二度と巡り合わないモノ。

 

最初は不気味に、途中からはコミカルに描かれるアオサギですが、彼は作中で異端な存在です。

 

本作はとにかく鳥が沢山出てきますが、不思議ワールドで自我を持つ鳥たちは、現実の世界に解き放たれた瞬間、普通の鳥に戻ります。

まるで、魔法が解けるように、夢から覚めるように。

 

しかし、アオサギだけは現実と不思議の世界を行き来できる。

また、アオサギの風切り羽(作中では「カザキリの七番」と呼ばれていた)は、不思議ワールドの鳥たちから身を守る力がありました。

 

明らかに異質な存在のアオサギは、一体何を意味しているのか。

 

私は、もしかしてアオサギは高畑さんなのではないか、と思っています。

意見が合わないことも、ムカつくこともある。

しかし、“創作”という不思議ワールドで、時にはライバル、時には協力者、時には相棒として、そこにいてくれた人。

もちろん、創作以外の場面でも、沢山の思い出があるでしょう。

 

何より、本作の中に、かつては相反する表現だとしていた高畑イズムを感じるんですよね。

まるで、先に逝かれた高畑監督もまた、自分をつくる一部であったと、宮崎さん自身が呑み込んだような。

そんな感覚を抱きました。

 

 

 

□鳥は自由か

先にも述べたように、本作はとにかく「鳥」が沢山出てきます。

 

みなさんは「鳥」にどんな印象を持ちますか。

私は、まず初めに「自由の象徴」が思いつきます。

 

しかし、本作に出てくる鳥は、何かしら不自由で、不気味で、恐ろしさがあります。

じゃあ、この作品においては鳥=自由の象徴ではないのか、と聞かれると、私はそんなことはないと思いました。

 

よく、創造・妄想の世界は自由と言いますよね。

私は本作の塔の中、つまり不思議ワールドはそれに該当すると思っています。

だから、そこには自由を象徴する鳥が沢山いるし、現実では起こりえないことが沢山起こる。

不条理が受け入れられている。

 

本作は“自由”を、素晴らしいものではなく、恐ろしいもの、一筋縄ではいかないものとして描いているのではないか。

むしろ、真の自由は不自由の中にこそあるのではないか、と問いかけているように感じました。

 

偶然なことに、それは創作の在り方に似ています。

そして、人生の在り方にも通ずるものがある。

 

 

 

□大叔父の願い

さて、本作のもう一人の重要人物は、眞人の大叔父です。

 

失踪した義母を探すために迷い込んだ不思議ワールドで、導かれるように大叔父と出会う眞人。

 

彼は眞人に、世界をつくる自分の仕事を継いで欲しい、継げるのは血縁だけ、と言います。

その後には、自身が世界を巡って集めた、汚れのない、美しい積み木を用意し、「お前が積みなさい、優しい平和な世界をつくりなさい」と言います。

しかし眞人は、自身のずるさの象徴である傷を触りながら、「自分には資格がない」として、大叔父の仕事は継がない意志を伝えます。

大叔父は、まるで最初から分かっていたように眞人の意志を受け入れます。

 

 

これは本当にそのままですが、全て宮崎さんの言葉なのではないでしょうか。

自分のあとを継いで欲しい、仕事を継いで欲しい。

優しい平和な世界=夢と希望を与える作品を作って欲しい。

ただ、先の未来を生きる者たちが、それを受け入れないという選択をするのなら、自分もそれを受け入れよう、と。

 

実の息子に向けた言葉なのか、息子含めた映画監督たちに向けた言葉なのか、全ての人に向けた言葉なのかはわかりませんが、これは、そのまま宮崎さんの真実だと思いました。

 

また、大叔父が用意した無垢の積み木を、怒ったインコ大王が組み立て、崩れそうになったら剣で真っ二つにしてしまったシーンも印象的でした。

同じ国の住民でありつつ、身内ではないものに壊される無垢の積み木。

しかし、インコ大王の暴挙に眞人も大叔父も、怒りはしなかった。

 

ここにも、宮崎さんの何かしらの想いがあったのでしょうか。

 

 

結果、眞人はこれがきっかけで不思議ワールドと、つまりは大叔父や若き日の母と決別するわけですが、ほとんどは自分の意志で別れを告げています。

「この世界に留まるより、現実でヒミやキリコ、アオサギのような友をつくる」と。

 

創造した世界がいかに楽しくても、現実と切り離すことはできない。

いつかは帰る時が来る。

一方で、創造世界で得た成長は、現実世界に連れて行くこともできるのだ。

 

これは、映画が持つ力、作品が持つ力を、宮崎さんが信じ続けている証でもあるように感じました。

 

 

 

□旅の終わり

最後は父と義母と再会を喜び、最終的には弟を交えた、新しい家族の絆を暗示させ、物語は終わります。

 

話しは戻りますが、主人公視点のせいか、序盤は父も義母もお手伝いさんも、腹に何かしら一物ありそうな印象を受けます。

コミュニケーションが取れない父、含むものが在りそうな義母、媚びてくるばあや達。

さぁ、本性はどんな奴だ?と、こちらも期待していたぐらいです。

 

しかし、主人公の見る目が変わると、彼らの印象もガラリと変わります。

「形」は人それぞれであるけど、彼らの言動には確かに「優しさ」がある。

誰も眞人を陥れようとはしていない。

彼らなりの愛情を示している。

 

だからこの物語は、「愛情を知っていく旅」でもあるのかもしれません。

 

 

しかし、旅はいつか終わるもの。

 

アオサギが最後に残した言葉が、私としては宮崎さんからの一番のメッセージに感じました。

 

 

“今は向こうの世界を覚えている、でもやがて忘れていくだろう”

―――それで良い。

 

 

まるで、そういわれているような。

物語の展開で泣くシーンはなかったのに、私は最後のこの言葉でブワッときました。

やがて忘れる、それが自然なこと。

 

ただ、忘れることは“なかったこと”にはならない。

 

 

 

□最後に

どんな偉大な先人がいても、苦難があっても、親しい人の言葉があっても、自分の人生の舵を人に委ねてはいけない。

その上で、多くの人に支えられて生きている現実を、ありのまま受け止めろ。

 

それが、『君たちはどう生きるか』から受け取った、私なりの教訓です。

 

 

この作品から何を受け取るか、何も受け取らないか、それも自由でしょう。

足並みを揃える必要はない。

無理に感動する必要も、わかろうとする必要もない。

何故なら、宮崎さんも「わからない」と言っているから。

誰に向けたものなのか、監督本人でも判然としないのではないでしょうか。

 

あくまで、「自分はこう生きた。君たちはどう生きるか」だと思うから。

 

 

 

 

さて、かつて旅をした少年は、やがて“次の誰か”の背を押すのでしょうか。

叶うなら、自分も誰かの背を押せるだけのものを、この世に残したいですね。

 

 

 

一緒に見に行った須々木氏も感想をあげているので、そちらもどうぞ。

 

 

カヘッ!

 

aki