宮崎駿に敬意を込めて
須々木です。
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を見てきました。
印象が新鮮なうちに、書きなぐっておきます。
たぶん時間経過と共に違って見えてくる作品だと思うから。
以下、僕の感想を書いていきますが、もちろんネタばれ要素を含むのでご注意ください。
あと、勢いに任せて書きなぐっていること、一回見ただけなので部分的に記憶が曖昧であること、すべてが個人的見解であることもご了承ください。
とりあえず、見終わって最初に思ったこと。
確かにこれは最後だな。
長編アニメとかではなく、作品として本当に最後のつもりなんだろう、ということ。
他の人が「風立ちぬ」をつくってもあんまり意味がなかったのかもしれない。
“僕たちの知っている”宮崎駿のつくった「風立ちぬ」として生まれる意味。
僕たちは宮崎駿を知っていて、彼の今までの作品、仕事を知っている。
そして、その前提があってはじめて「風立ちぬ」は作品として存在することができる。
こういう状況は、クリエーターとして贅沢なのかもしれないけれど、宮崎駿はそれだけのものを世に刻んだし、こういう作り方が許される人なのだと思う。
主人公の声が庵野秀明であったことについて。
もちろん、事前情報として、主人公役が庵野秀明だということは知っていました。
もちろんネットを始め賛否両論あったことも知っています。
そして、映画が始まると、とりあえず違和感。
堀越二郎ではなく、そこにいるのは庵野秀明だったためです。
ただ、物語が進行するにつれ、違和感はいつの間にかなくなり、作品を見終えると必然だとさえ思える。
宮崎駿と庵野秀明。
二人は、劇場版アニメ「風の谷のナウシカ」の作画スタッフ募集告知を見た庵野秀明が大阪より上京して以来のつきあいであり、庵野もその後アニメーターとして名を馳せ、そして苦悩していく。
その過程を継続的に見てきた宮崎駿。
自身を師と仰ぎ、仲人までつとめた庵野さんに、この作品の主役の声を任せた意味は重い。
「風立ちぬ」において主人公は実在した堀越二郎であり、宮崎駿だ。
だからこそ、自分の作品の声優に、声とは別のベクトルで価値を加えることを要求してきた宮崎駿の作品として、この作品の主人公にアニメーターが吹き込む(声というよりは命を)ことは必然だった。
そして、それが庵野秀明であることも必然だったと思うわけです。
カプローニ伯爵について。
カプローニ伯爵は二郎に“夢”の続きを託す(と同時に、二郎の内面の一端を担う)。
ここで重要なのは、超越的にも思えるカプローニ自身が、誰よりもその“夢”の光と闇を認識していること。
彼は、“夢”に対して善悪の判断をくださない。
その判断も“夢”の重要な要素と言わんばかりに、二郎につなぐ。
託したい。
だから託す。
その評価も含め。
だから、宮崎駿に自身のこれまでの仕事を振り返させるのは見当違いなのだろう(安易にそういう趣旨の質問をする人は多そうな気もするけれど)。
僕たちは、与えられた宿題をそのまま突き返すような馬鹿な真似をしてはいけない。
過去の宮崎駿作品と比べて。
「風立ちぬ」は、根本的に違う。
今までの作品には、どれも作品を届けたい相手がいて、その相手が誰であるかが作品の軸として存在し、明確になっていた。
その相手は、これからの時代をつくっていく小さな子供たちであることが多いけれど、とにかく存在していた。
ただ、本作では、それを感じることはできなかった。
誰かのためではない作品だと思った。
もちろん、相手が「これからの時代を生きる人」だということはわかるが、それでもその人たち向けにつくろうという意思は感じられないし、作品の軸とも思えなかった。
むしろ、「ただ、語りたい」「ただ、残したい」という意思を感じた。
「風立ちぬ」で描かれたのは、自分自身。
堀辰雄は、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節を「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と訳して受け継いだ。
そして、宮崎駿は、自分自身を重ね合わせた堀越二郎という実在の人物をもとに描くストーリーに、堀辰雄の「風立ちぬ」を取り入れた。
過去を生きた様々な人の思いを受け継ぎながら、さらに誰かにつないでいきたい。
そういった意思に、一つの作品としての輪郭を与えてできたのが、宮崎駿の「風立ちぬ」なのだろう。
最後の最後に、自身を描いた。
僕たちが長く見せてもらってきた“宮崎駿という作品”の、エンドロールを見せられてしまったという感覚だった。
その意味で、僕はこの作品を単純に「劇場版アニメーション」と呼ぶことに抵抗を感じたりもする。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre
風立ちぬ、いざ生きめやも。
どこからか来て、どこかに去っていく「風」。
いつの間にか生まれ、いつの間にか消えていく「生」。
曖昧でとらえどころのないものに、人は大きな不安を覚える。
そして、その不安の中に希望を探す(希望を見つける、ではない)。
宮崎駿の語る「風立ちぬ」が、「生きねば」と言っているのかというと、僕は少し違うようにも思う。
「風立ちぬ」というとらえどころのない作品に、それを見た僕たちは不安を覚える。
だから、その不安の中に希望を探したくなる。
この作品に無理やりメッセージ性(作品に触れた人に求めるもの)を見出したいのなら、結局そういうことなのではないかと思う。
この作品には、口づけのシーンが多い。
口づけのシーンは、主人公の「愛」を最もシンプルに表すと同時に、宮崎駿の「贖罪」を最も歪めて表しているように感じた。
宮崎駿が試写会で見せたという涙の理由は、ここにあるのではないかと勝手に思っていたりする。
宮崎駿がつくってきたのは、飛行機ではないが、それでも想像を絶する犠牲を強いた上でその道を歩いてきたのだろう。
美しい夢とエゴイズムを表裏に重ね合わせた仕事に取り組みつつ、絶えず生まれていく犠牲を真っ直ぐ捉えながら。
その手に取り戻すことができないと知ったとき、人は「贖罪」を求める。
事実、彼は今後について「これからはボランティア」と語っている。
この作品には、喫煙シーンが多い。
そこに感じたのは、苛立ちと執着。
現代は、捨てることを求める。
そぎ落とし、わかりやすくして、流れやすくすること、効率化することを求める。
アニメーター「宮崎駿」は、もうこれ以上捨てられなかった。
年々、より多くを捨てることを求めるようになる社会に限界を見た。
その限界が、彼の限界なのか、アニメの限界なのか、社会の限界なのかはわからない。
そもそも、まったくの見当違いなのかもしれない。
ただ、宮崎駿の煙草の箱に、もう煙草は残っていなかったのだろう。
sho
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を見てきました。
印象が新鮮なうちに、書きなぐっておきます。
たぶん時間経過と共に違って見えてくる作品だと思うから。
以下、僕の感想を書いていきますが、もちろんネタばれ要素を含むのでご注意ください。
あと、勢いに任せて書きなぐっていること、一回見ただけなので部分的に記憶が曖昧であること、すべてが個人的見解であることもご了承ください。
とりあえず、見終わって最初に思ったこと。
確かにこれは最後だな。
長編アニメとかではなく、作品として本当に最後のつもりなんだろう、ということ。
他の人が「風立ちぬ」をつくってもあんまり意味がなかったのかもしれない。
“僕たちの知っている”宮崎駿のつくった「風立ちぬ」として生まれる意味。
僕たちは宮崎駿を知っていて、彼の今までの作品、仕事を知っている。
そして、その前提があってはじめて「風立ちぬ」は作品として存在することができる。
こういう状況は、クリエーターとして贅沢なのかもしれないけれど、宮崎駿はそれだけのものを世に刻んだし、こういう作り方が許される人なのだと思う。
主人公の声が庵野秀明であったことについて。
もちろん、事前情報として、主人公役が庵野秀明だということは知っていました。
もちろんネットを始め賛否両論あったことも知っています。
そして、映画が始まると、とりあえず違和感。
堀越二郎ではなく、そこにいるのは庵野秀明だったためです。
ただ、物語が進行するにつれ、違和感はいつの間にかなくなり、作品を見終えると必然だとさえ思える。
宮崎駿と庵野秀明。
二人は、劇場版アニメ「風の谷のナウシカ」の作画スタッフ募集告知を見た庵野秀明が大阪より上京して以来のつきあいであり、庵野もその後アニメーターとして名を馳せ、そして苦悩していく。
その過程を継続的に見てきた宮崎駿。
自身を師と仰ぎ、仲人までつとめた庵野さんに、この作品の主役の声を任せた意味は重い。
「風立ちぬ」において主人公は実在した堀越二郎であり、宮崎駿だ。
だからこそ、自分の作品の声優に、声とは別のベクトルで価値を加えることを要求してきた宮崎駿の作品として、この作品の主人公にアニメーターが吹き込む(声というよりは命を)ことは必然だった。
そして、それが庵野秀明であることも必然だったと思うわけです。
カプローニ伯爵について。
カプローニ伯爵は二郎に“夢”の続きを託す(と同時に、二郎の内面の一端を担う)。
ここで重要なのは、超越的にも思えるカプローニ自身が、誰よりもその“夢”の光と闇を認識していること。
彼は、“夢”に対して善悪の判断をくださない。
その判断も“夢”の重要な要素と言わんばかりに、二郎につなぐ。
託したい。
だから託す。
その評価も含め。
だから、宮崎駿に自身のこれまでの仕事を振り返させるのは見当違いなのだろう(安易にそういう趣旨の質問をする人は多そうな気もするけれど)。
僕たちは、与えられた宿題をそのまま突き返すような馬鹿な真似をしてはいけない。
過去の宮崎駿作品と比べて。
「風立ちぬ」は、根本的に違う。
今までの作品には、どれも作品を届けたい相手がいて、その相手が誰であるかが作品の軸として存在し、明確になっていた。
その相手は、これからの時代をつくっていく小さな子供たちであることが多いけれど、とにかく存在していた。
ただ、本作では、それを感じることはできなかった。
誰かのためではない作品だと思った。
もちろん、相手が「これからの時代を生きる人」だということはわかるが、それでもその人たち向けにつくろうという意思は感じられないし、作品の軸とも思えなかった。
むしろ、「ただ、語りたい」「ただ、残したい」という意思を感じた。
「風立ちぬ」で描かれたのは、自分自身。
堀辰雄は、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節を「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と訳して受け継いだ。
そして、宮崎駿は、自分自身を重ね合わせた堀越二郎という実在の人物をもとに描くストーリーに、堀辰雄の「風立ちぬ」を取り入れた。
過去を生きた様々な人の思いを受け継ぎながら、さらに誰かにつないでいきたい。
そういった意思に、一つの作品としての輪郭を与えてできたのが、宮崎駿の「風立ちぬ」なのだろう。
最後の最後に、自身を描いた。
僕たちが長く見せてもらってきた“宮崎駿という作品”の、エンドロールを見せられてしまったという感覚だった。
その意味で、僕はこの作品を単純に「劇場版アニメーション」と呼ぶことに抵抗を感じたりもする。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre
風立ちぬ、いざ生きめやも。
どこからか来て、どこかに去っていく「風」。
いつの間にか生まれ、いつの間にか消えていく「生」。
曖昧でとらえどころのないものに、人は大きな不安を覚える。
そして、その不安の中に希望を探す(希望を見つける、ではない)。
宮崎駿の語る「風立ちぬ」が、「生きねば」と言っているのかというと、僕は少し違うようにも思う。
「風立ちぬ」というとらえどころのない作品に、それを見た僕たちは不安を覚える。
だから、その不安の中に希望を探したくなる。
この作品に無理やりメッセージ性(作品に触れた人に求めるもの)を見出したいのなら、結局そういうことなのではないかと思う。
この作品には、口づけのシーンが多い。
口づけのシーンは、主人公の「愛」を最もシンプルに表すと同時に、宮崎駿の「贖罪」を最も歪めて表しているように感じた。
宮崎駿が試写会で見せたという涙の理由は、ここにあるのではないかと勝手に思っていたりする。
宮崎駿がつくってきたのは、飛行機ではないが、それでも想像を絶する犠牲を強いた上でその道を歩いてきたのだろう。
美しい夢とエゴイズムを表裏に重ね合わせた仕事に取り組みつつ、絶えず生まれていく犠牲を真っ直ぐ捉えながら。
その手に取り戻すことができないと知ったとき、人は「贖罪」を求める。
事実、彼は今後について「これからはボランティア」と語っている。
この作品には、喫煙シーンが多い。
そこに感じたのは、苛立ちと執着。
現代は、捨てることを求める。
そぎ落とし、わかりやすくして、流れやすくすること、効率化することを求める。
アニメーター「宮崎駿」は、もうこれ以上捨てられなかった。
年々、より多くを捨てることを求めるようになる社会に限界を見た。
その限界が、彼の限界なのか、アニメの限界なのか、社会の限界なのかはわからない。
そもそも、まったくの見当違いなのかもしれない。
ただ、宮崎駿の煙草の箱に、もう煙草は残っていなかったのだろう。
sho