本日2022年10月15日、解体撤去を2日後に控えた百瀬川隧道へ惜別に行ってきた。前記事では9月中に訪ねるつもりと書いていたのだが、ちょっと気が変わってギリギリの姿をこの目に焼き付けておこうと、このタイミングとなった。
これを紹介する前に、まずは健在な在りし日の百瀬川隧道をちゃんとご紹介しておかねば。
つうわけで、まずは初訪問となった2009年5月21日の写真を。岩脇山の蒸気機関車避難壕、横山隧道、観音坂隧道、谷坂隧道、襠鳥坂隧道、杉本隧道などの初訪問もすべてこの日であり、キャリア初期(謎)の記念すべき日のひとつだ。
まずは北側からのショットだが、
車を停めたかった場所にあの人がいたので、手前に停めてズーム!…という感じだったんだろう。
なのでサッサと隧道を抜けて、
南側の一枚。
しかしまあ、この頃の写真はさすがにどれも(現在にも増して)下手くそだ。なぜにここまで寄る?天井川隧道ならなおさら、もっと引かないとよくわからんでしょ~。
そして、
植生がうっとうしい扁額写真も一枚。
その後ようやく、
歩行者用トンネルに気づく、と(笑)。
ここの歩行者用トンネルは、意外とわかりにくかった。上の写真のように、微妙な距離を挟んで平行しており、なおかつ歩行者用トンネルは気持ち下がった位置にあってしかも小さいので、状況によっては「え?そんなんあったっけ?」ってなり得るレベル。小ささ、伝わると思う。
正対したら、
この感じやし!
なぜにここまで広いデコで
もうちょいなんとかできたでしょう?
いや、絶対できたって(笑)。
初訪問時に撮ってた写真はこれで全て。歩行者用トンネルの写真のほうが多かったっていう(笑)。
二回目の訪問は、2012年4月5日。今度は南側から。
これは前回記事で使った写真だが、このように引きで撮ると、天井川の感じとかボトルネックっぷりとかが伝わるな。
で、こちら北側。
結局、何度かの訪問時の写真の中で、これがもっとも植生に邪魔されずスッキリと坑門がよく見えているようだ。
観音坂隧道、谷坂隧道と同じく下見板張り風の意匠で、竣工時の写真によって、現在はのっぺりしているピラスターより内側もオリジナルは下見板張り風であったことが確認されている。
昭和8年建造の観音坂・谷坂両隧道に対し、この百瀬川隧道は大正14年建造と8年先んじている。逆に大正14年といえば、横山隧道、佐和山隧道から遅れること2年。つまり、この滋賀県に稀代の隧道アーティスト・村田鶴が赴任していた期間に造られているのである。
公式に村田の設計とは記録されていないようだが、在任期間中の、しかもことさらにここ湖北の隧道たちを多く手掛けた村田が、本隧道に全く関わっていないとは考えづらい。
ここ百瀬川隧道のポータルデザインは、コンクリート黎明期ならでは、冠木門タイプの煉瓦隧道フォーマットを踏襲したものだが、ここでの下見板張り風意匠を、後の観音坂、谷坂隧道でより磨き上げて登場させたのではないか?
…とか、妄想するとめっちゃ楽しい~。
まあ、もう無くなっちゃうんすけどね(泣)。
【次回】は、2014年の「詳細記録」版を。