パリ・オペラ座バレエ来日公演で、大好評の「白鳥の湖」。

皆様の熱いコメントが、X(Twitter)で沢山回ってきまして、自分まで観た気がしてきました(笑)

錯覚とは恐ろしい。

 

さて、ヌレエフ版の「白鳥の湖」は、もはやオデット/オディールよりも、王子やロットバルトが目立つ、という数ある「白鳥の湖」でも、異色のバージョンともいえます。

(ボリショイ・バレエのグリゴローヴィチ版も、やや路線は類似しているかも。)

 

一体、ヌレエフが描こうとした世界観はどのようなものだったか、ルドルフ・ヌレエフ財団のHPを参照しつつ、まとめてみました。

ヌレエフ時代のダンサーたちの映像や写真も合わせてどうぞ。

 

↓ヌレエフ自身が、クレール・モットーと4幕の離別のPDDを踊る貴重な映像

 

 

ヌレエフが、パリ・オペラ座バレエのために新しい「白鳥の湖」の創作を開始したのは1984年、彼が芸術監督に就任してすぐのこと。

 

しかし、ヌレエフの新バージョンは、オペラ座のダンサーたちからは不興を買い、2週間もの間、誰もヌレエフの振付を学ぼうとしなかったそう。

オペラ座では、ブルメイステル版「白鳥の湖」が1960年代からずっと上演され続けており、ダンサーたちが、慣れ親んだバージョンを手放すことを拒否したためでした。

 

結局、次の年のレパートリーにブルメイステル版を入れる、ということで妥結し、リハーサルが開始されるという、今からは想像もできないスタートでした。

 

↓ミカエル・ドナールとギレーヌ・テスマーの黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ。

 有名なプティパ版ではなく、ブルメイステル版の音楽と振付です。

 

 

↓びっくりするくらい動画が重いですが、ミカエル・ドナールとクレール・モットーの第2幕抜粋映像。

 途中の王子のソロをはじめ、これもブルメイステル版です。

 

 

 

新バージョンの「白鳥の湖」の幕開けは、1984年12月、プレミアキャストは、エリザベット・プラテル、シャルル・ジュド、パトリス・バールが務め、今ではオペラ座に欠かせないレパートリーとなりました。

 

既に、ウィーン国立バレエで、自身の「白鳥の湖」を手掛けていたヌレエフですが、オペラ座版は、王子やロットバルトといった男性バレエダンサーの役柄を膨らませた、全く異なるバージョン。

 

最も大きな特色は、従来は「白鳥へ姿を変えられた王女オデットの物語」であったストーリーを、「王子の物語」へ変えたことです。

その「王子の物語」で、全編を彩るのは、「フロイト的な解釈」で描かれる「王子の白昼夢」という説明が、ヌレエフ自身の言葉としても残されています。

 

"To me, Swan Lake is one long daydream of prince Siegfried. Reared on romantic reading, his desire for infinity has been fired and he refuses the reality of the power and the marriage forced on him by his tutor and his mother.

To escape from the dreary destiny that is being prepared for him, he brings the vision of the lake, this “elsewhere” for which he yearns, into his life. An idealized love is born in his mind, along with the prohibition that it represents. (The white swan is the untouchable woman, the black swan the reverse mirror image, just as the evil Rothbart is a corrupt substitute for Wolfgang, the tutor).

And so when the dream fades away, the sanity of the prince does not know how to survive.”

 

「私にとって、「白鳥の湖」は、ジークフリート王子が見た長い白昼夢だ。

読書で空想に耽りがちな王子は、永遠の理想像を追い求める情熱にあふれるあまり、家庭教師や母(王妃)が示す権力や結婚といった現実から目をそむけている。

周囲に決められた未来から逃げるかのように、彼は自ら作り出した「湖」の世界へ入り込んでいく。

その世界では、理想化された愛が、「白鳥」という触れていない女性として描かれ、「黒鳥」はその対極、そして家庭教師は邪悪なロットバルトとして登場する。

そして、自らの夢の世界が消えていくと、王子は生きる術が分からず、途方に暮れてしまうのだ。」

 

 

↓ルグリのジークフリート王子1幕のソロ

 

 

「フロイト的な解釈」って???と哲学が苦手な私は、「あわわ…」となっておりますが…。

フロイトは、かのレオナルド・ヴィンチについての著作の中で、彼が「飛翔」の研究に取りつかれていた理由として、「大空を飛ぶことは、抑圧された欲求がいびつな形で表れたもの」という解釈をしているそうです。

 

フロイト派の考察では、「社会的・道徳的に許さない様々な性的欲求は、無意識の奥底へと抑圧され、その衝動は、複雑な心的な集合(コンプレックス)となる」とされています。

 

↓普段は「分かりやすく」とか避けているのですが、哲学がダメダメなので頼ります…。

 
これを当てはめると、「白鳥」と「黒鳥」の姿で登場するオデット/オディールは、王子の想像が生み出した渇望の象徴であり、王子の内面で歪められた家庭教師の姿として、ロットバルトは王子の意識を支配するものとして登場するといえます。
 
母親が差し出す、王位や結婚相手といった未来に怯える王子は、無意識の世界で抑え込まれていた「白鳥の湖」へと逃げこみ、そこで理想であるオデットと出会うというワケ。
 
また、ヌレエフは明確に、舞台美術をデザインしたフリジェリオへ、「まるで王子が幽閉されているような牢獄の空間」を作り出すように指示したそう。
 
家庭教師から踊りを教わる前の場面で、閉ざされた柱の隙間から、外の世界を垣間見るような王子の姿がありますが、彼の心をよく表した演出だと思います。
 
そして、オデットに象徴される「白鳥の湖」は、あくまでも、社会的には許さない逃避の世界であるため、はじめからハッピーエンドは訪れることはありません。
 
それは、王子と家庭教師(ロットバルト)の力関係にはっきりと表現されていると思います。
第1幕終わりで、湖へと入り込む前の家庭教師とのデュエットの振付は、終幕でまるっきりそのまま再現されるのですよね。

 

 

自らの理想を手にするには、父親像ともいえるロットバルトを倒す必要がありますが、未熟な王子には「父親殺し」はできず、最初から父親像を超えることはできないのです。

かつて家庭教師からされたようにしか闘えない王子は、理想像であるオデットが去っていくのをただ呆然と見つめ、湖に溺れるしかありません。

 

 

ただ、この「白鳥の湖」が、王子の想像の産物だとすれば、終幕で王子自身が命を落としたというよりは、「理想を追い求める自分」が消滅したのかも。

誰しもが子供時代、社会的に見て、現実的に見て、「それは無理でしょう?」という夢を無邪気に描いていたと思います。

それが、成長するにつれて、周りの大人からの言葉や挫折経験を経て、「現実」と向き合い、社会へ出ていくようになります。

だからこそ、「オデットと王子が死後に結ばれる」のではなく、「オデットと引き離される」という究極の悲劇で終わる気がしています。

 

ヌレエフ版「白鳥の湖」が心を打つ理由、それは、誰もが一度は経験したであろう成長期の挫折が、見事に描かれているからかも、と勝手に思ってしまう人でした。

 

 
↓おまけ プレミアキャストでもあるエリザベット・プラテルとシャルル・ジュド主演映像。
 

パ・ド・トロワがルテステュ!

 

 

 

 

 

 

 

恐らく、チャルダッシュのソリストがオーレリー・デュポンでは?

 

 

 

 

 

 

↓更におまけ ルドルフ・ヌレエフ自身がロットバルトを踊った写真!!!

 

 

 

 

 

参考HP