私の友人S君は、昔から酒を飲むと

よく記憶を無くす。


羨ましいほどに綺麗さっぱりと・・・


嘘?本当?嘘だろう・・・


「本当だって・・・」


「またやっちまったか・・・反省」


年末年始の忙しない宴会シーズンになると

よく思い出します。


酒に限らず、

人間はよく記憶を無くす。


時間が経つにつれて忘れるし、
睡眠中にも、

記憶は奥のほうに仕舞い込まれてしまう。


睡眠の最大の目的は

記憶の整理だと聞いたことがある。


どうやら人間は、

整理しないまま記憶を溜め続けると

頭がパニックするらしい。

確かに、

それはその通りかもしれない。


一晩寝ただけで、

親や友達の顔を忘れてしまうのは大問題であるが、
かといって、

交わした会話の中身まで鮮明に記憶していたら

大変なことになる。


生まれてこの方、起こった出来事や、

交わした会話、そのときに考えたことなどを

すべて記憶にとどめていたら頭がパンクしてしまう。


もし仮に、

平成6年の5月24日に

友人の山田君と交わした会話などというものが
一言一句違わずに記憶から取り出せるとしたら、
人間は間違いなく気が狂ってしまうだろう。


人は誰しも

思い出したくない出来事を

山のように抱えて生きているからだ。

忘れないことが重要であるように、

忘れることもまた重要だということだ。


だが、人間というのは、

忘れないようにしても忘れてしまうもの。


忘れようとしても忘れられないもの。


そういう、

ややこしい生き物なのだ。


完璧に記憶を無くせたら

どれほど素晴らしいことだろうか。


誰でも一度や二度は

そう考えたことがあるのではないか。

だが、結局、

人間は完全なる記憶と

完全なる記憶喪失の間で

生きていくしかないのである。


とはいうものの、

もしも忘れることができるなら、

あなたは何を忘れるだろう。


悲しい記憶や

失敗した記憶を

すべて無くしてしまうのはどうだろう。


忘れてはならない失敗もあるが、

立ち直れないくらい悲しいことや、
辛いことは、

記憶からなくしてしまってもいいのではないか。


人間は、

そんなには強くないのだから。

反対に、

うまくいったことや、
成功した体験などは

あまり長く記憶に留めないほうがいい。


気分は良いが、

その記憶によって

成長が止まっている人は

想像以上に多い。


正しい記憶の無くし方。


いずれ極めてみたいものである。





 
私は仕事柄、

タクシーに乗ることが多い方だと思う。


乗ると必ずと言って良いほど

運転手さんと話をする。


雑学や地の利など

大変勉強になる。


モチロン、

ヘタクソな運転には辟易とする。


あるとき、ずばりタクシーの仕事で、

メシが食えているのか、いないのかを何回か続けて聞いてみた。


そうすると

現実的な生々しい結果が出た。


東京地区では、

タクシー会社勤めの運転者さんの年収は500万円強、
個人タクシーで約750万円強。

大阪では、

年収300万円弱と、
東京と大阪では、こんなにも開きがあるのだ。


ということは、必然的に東京では、

メシが食えているということになる。


驚くことに、

親子三代タクシー運転者というヒトもいるとのこと。


さらに驚くことに

東京の個人タクシーは、

燃料はハイオクと決っているようなのだ。


そして、彼らの稼ぎ方を聞くと

銀座や六本木での飲み屋帰りの長距離狙いより、
かえって街中のワンメーターのお客様をつないでいくことの方が

水揚げが上がるとのこと。


これは

まさに物流業/サービス業にも言えることだ。


荷量の多い大手の仕事を狙って請負うと、

大半が価格競争となり、赤字の仕事となる。


しかし、

中堅や中小の仕事となると

価格に厳しいことには変わりがないが、
輸配送業務以外に保管業務や流通加工、

配車や受注伝票の入力など、
仕事に幅が出てくる余力が残されている。


実際、

我々の知り合いで

順調な経営を行っている物流会社の主要荷主は
中堅もしくは中小企業であり、
見方を変えれば

将来のトヨタや松下と取引しているとも言える。


大口狙いは誰もが考え、動くこと。


そのため、

そこには厳しい競争が待っている。


小口は、

できれば避けたいとまず感じてしまう。


しかし、その小口の内容を良く見て、

理解すればお金が埋まっていることが解る。


その分、

手間もかかるかもしれない。


しかし、

コツコツ小口を重ねることが

稼ぐポイントになるのは、
物流業もタクシー業も同じであると、私は強く感じるのだ。





褒める。


ホメる。


他人はおろか、自分を褒めることさえ難しい・・・


私は最近、

一日に一回自分を褒めることにしている。


70パーセントくらいは朝、顔を洗い、

鏡を見ながら褒める。


「お前はイケてるよ。素晴らしいよ。

 今日の仕事も絶対にうまくいくよ。」と、


自分を褒め、励ますのである。


こういうことができる日は、

たいてい体調がよく、精神状態もいい。


もともと躁状態の自分を

さらに持ち上げるのだから、効果はてきめんだ。


会社に行く途中の景色までもが

輝いて見える。


町行く人も、世の中も、

すべて愛すべき存在に感じてしまう。


こういう日には、

仕事でも必ずいい結果が出るものだ。

ところが、

人生とはこんな日ばかりではない。


朝起きた瞬間から体が重く、頭も重く、

精神状態も最悪という日もある。


こんな鬱の朝には

とてもではないが自分を褒めることなどできない。


鏡を見ることすら嫌になる。


それでも会社には行かなくてはならない。


そういう時、私は、

時間ぎりぎりまで部屋でごろごろしながら、
どうでもいいようなテレビ番組を見つづける。


そして最後には

致し方なくシャワーに向かい、

着替えて会社に向かうのである。

こんな朝は最悪だ。


町の景色もどんよりとしていて、

人々は灰色に見える。


負のエネルギーばかりを感じ、

やる気はかけらも出てこない。


往生際の悪いことに、

会社に行かなくてもいい理由ばかりを考えてしまう。


行ってもしょうがないんじゃないか。


誰も望んでいないような気がする。


俺は社長には向いていないのかもしれない。


結局人間は何のために生きているのだ。


などと、

最後には哲学者のような禅問答ばかりを繰り返すのである。

こんな日は、

仕事の成果もぜんぜん上がらない。


誰とも目を合わせたくないし、

会話に自信がもてない。


人の話に共感することが出来ず、
無理やり作った笑顔は、

引きつっているのが自分でも分かる。


こんな日が全体の30パーセント。


私は早々に仕事を終えて、

子供と風呂で遊ぶ。


そして、自分を褒める。


子供にも褒めて貰う。


そんな日は、自分を褒めるのは難しい。


だが、それでも私は自分を褒める。


順番としてはまず、世の中を嘆く。


「やってられるかちきしょー!」と叫び、
世の中のイケていないところをあげ連ねる。


次に「あーやだやだ」と叫びながら

部屋の床をごろごろと転がる。


転がっているうちに酔いが回ってきたり、

目を輝かした子供がじゃれてくる。


そのとき

すかさず自分を褒めるのである。


「お前はイケてなくはない。いい男だよ。
 今日はたしかにイケてなかったけど、そんな日もある。
 俺だって完璧じゃないんだ。

 いや、完璧なやつなど世の中にはいない。
 そう考えると俺はイケてる方じゃないのか。
 いや、イケてるはずだ。

 絶対にイケてる。お前はえらい。素晴らしい。」などと、


主語がどうなっているのか解らないような、
むちゃくちゃな理論で自分を褒めるのである。

その結果どうなるのか・・・


次の日には明るく元気に・・・なんてはずはない。


人間はそんなに単純ではないのだ。


だが、

それでも私は自分を褒め続けようと思う。


だいたい現代人は

自分を褒める努力が足りない。


自分で褒めずして、

いったい誰が自分を褒めてくれるというのか。


自分を褒めることが出来る能力。


それも立派な才能だ。


あ~あ、うまく褒めたい!


うまく、ホメられたい!








人間というのは、

当事者意識がないとなかなか動けない生き物です。


いくら正論を述べたところで、
直接自分に関係ないと感じることには極めて無関心。


今度の選挙に関しても、みなさんは、
自分達の将来がこの選挙にかかっているとは

感じていないでしょう。

論理的に考えると、

全国の物流事業者が選挙に参加することで

候補者が勝つ。


そうすると

送り出した議員によってさまざまな問題が解決され、
物流専従者の就業環境が改善される。


だから自分たちの明るい未来のために

みんなで選挙に参加しましょう、
というのは確かに正論です。


しかし

いくらこの正論を訴えても、

彼らを動かすことはできません。


ロジックだけでは

人は動かせないのです。

例えば

好きな相手を口説くとき、
自分と付き合うと

どんな理由で
どのようなメリットがもたらされるかを

語り続けても、
相手の気持ちが

傾くことはないでしょう。


選挙も同じ。

人を動かすには、

相手の感情を動かすことが必要なのです。


頭で理解させるのではなく、

心を掴む。


極端にいえば

ロジックなど伝わらなくてもいいのです。


「よく分からないけど、

 この人についていけば何かが変わるかもしれない」。


こうなれば、

組織は非常に大きな力を得ることになるでしょう。

このように

エモーションに訴えかけて人を動かす力を

“扇動力”といいます。


小泉さんにあって、

安倍さんには無いものといえば分かりやすいでしょうか。


組織が大きければ大きいほど

当事者意識は薄れるもの。


当然、

扇動力の必要性は高まります。


沢山の人を動かすとなると、
エモーションをかきたてる

高い才能を持ったリーダーが必要不可欠です。


しかし

そのようなリーダーは、

現実にはなかなか存在しないものです。






人間は、言葉でものを考えます。


夏になったら「暑い」。


針が刺さったら「痛い」。


当たり前のことですが、

日本人は日本語で思考を巡らせます。


だから日本語にない感情を抱くことはできませんし、
日本語にないものは考えようがありません。


言葉とは、

考え方や価値観を非常に大きく影響を与えるのです。

例えば日本語で育ったアメリカ人と、

英語で育った日本人。


私は両方のタイプの人間を知っていますが、
どちらが日本人っぽいかというと、前者です。


イメージ出来ないものは、実現出来ない。

いくら100パーセント日本人のDNAを持っていても、
「わびさび」という言葉を知らなければ、
それを感じることができないのです。

言葉はブロックです。


ブロックを積み上げることで

思考が進む。


ブロックが薄ければ、

思考も薄い。


ブロックを磨けば、

思考も磨かれます。


思考力を磨くという事は、
ひとつひとつの言葉を磨く事なのです。

例えば

愛について考えるとき、
「愛」という言葉の意味を、

“自分なり”に答えを持っていることが重要です。


答えは一つとは限りません。


時と場合によって、その意味は変化します。


だから

考え続けることが必要です。

薄っぺらい意味でしか

捉えられていないものは、
薄っぺらい思考にしかなりません。

ある辞書で「本物」という言葉を引いたところ、
『にせものや作りものでない、本当のもの。また、本当のこと。』
とありました。


これでは

何も言っていないに等しい。


辞書には

肝心なことは載っていません。

私は、自分なりの辞書を作ることにしました。


当たり障りのないものではなく、
面白い辞書・自分なりの

「ものさし」足り得る辞書を作りたい。

ひとつの言葉の意味を

とことん追求していきたいと思います。


言葉の意味を考え続けることは、
私にとって思考力を鍛える訓練となるはずです。


一年も続けると

間違いなく思考力は高まると思います。

そう考えています。






日本人は

「どこか自分の外側に答えがある」と勘違いしている。


そのため、

何か困ったことに突き当たると、

最初から

「この問題の答えはどこにあるのか、何なのか?」

と考えてしまう。


自分が

「解決すべき問題は、そもそも何か」を考えずに、
目先の問題への答えばかりを見つけようとする。

これは、

受験勉強の悪影響としか言いようがない。

社会に出てみたら、答えのない世界が待っていた。

実際、

企業が遭遇する問題のほとんどには答えがない。

にもかかわらず、

日本の学校では答えを覚え込む訓練だけをする。


日本の学校が、

世界に通じる人材を養成できなくなって久しいが、

その最大の理由は、

学校が世界の現実と、

事ほど左様に乖離してしまったからではないだろうか。

教えるべきは、

「Googleで検索しても答えが出てこない問題を、

 どのように考えて、解くか」と
いうことである。


教師は、生徒にこう言わないといけない。


「指導要領のなかに答えなどない。

 答えはクラスのみんなで考えて見つけましょう」。

私は会社経営のかたわら、

クラブチームの監督として、采配を受け持っている。

その経験から言うと、社会人経験が豊富な30代~40代ですら、

最初の2~3カ月は、答えを知ろうとするクセが抜けない。


「とにかくアイデアを出せ」といくら言っても、

自ら制限をかける。

ゴルフ

心の中にゴルフの OB杭があり、

「フェアウェイはこのあたりかな」

とおそるおそる球を打っているようだ。

イタリアや返還前の香港で、子供達と話をした事がある。

彼ら彼女らに発想法を教えると、皆がアイデアを出し続ける。

ちょっとした方法を教えただけで、
「もう止めてくれ」と言いたくなるほどに、

次々にアイデアを出してくる。

ところが

日本人はなかなか解き放たれない。


それほどまでに、日本人には

「正解がどこにあるか探し始める」という

基本動作が染みついている。

世の事象の大半には答えがない。


だから、

その場その場で勇気を振りしぼって
考えるしか道はない。

「この世界でこの問題に答えを出せるのは自分自身しかいない」。

このようなメンタリティになれるかどうかが、

自分の創造性を発揮し、
本物となるための最も重要な条件ではないだろうか。


サッカー

若かりしころ、私は、ある選抜チームに参加した。

最初にショックを受けたのが

「自分で考える」というカルチャーだった。


コーチが私にディフェンスの動き方について質問した。

「早速、戦術書で調べます」と答えたところ、
コーチはラインズマンフラッグを投げつけ、怒鳴った。

「馬鹿者、お前と俺がやらなかったら、
 世界中の誰がこの問題を解決できるんだ。」

「ピッチの中は自分達で解決するしかないんだぞ!」。

本物=プロフェッショナルは、創造性を発揮できる人である。


どうすれば自分の創造性を引き出せるのか。


問題がぼやけている段階では、創造の力は出てこない。


解決すべき問題を特定し、

取り組むべき物事のスコープを狭めることが

重要なポイントなのだ。

前述のコーチと私は、2人で分かっていることを
ノートに書き出していった。


そして、その時点で分かっていないこと、

このテーマをまとめるに当たって

確認しなければいけないことを整理していった。

すると、

試すべきことや確認すべきことが非常に狭まってきた。

では、どうやって調べるか。


どうやって確認するか。


こうしたことを2人で議論していった。


すると、

ポーンと思考が“飛び”、良いアイデアがたくさん出た。


これが、

問題点を「狭めることの重要性」を

身をもって知るきっかけとなったのだ。

創造性を発揮するためには、右脳をフル回転させたい。

一方で、

ロジカルに考えるために左脳も使いたい。


本物=プロフェッショナルは、

この両方の脳を同時に駆動できる人間ではないだろうか。




あなたの報告は、どのレベルですか?



0点 

報告の入門前(報告以前の問題、心の移植が必要)


  報告は上司の機嫌のいい時だけ行う。
  自分に都合のいい報告だけを行い、都合の悪いことは聞かれてから行う。
  都合の悪い報告は、結果が出ていても継続中にして、結論を引き延ばす。


1点 

報告の見習い(新人1年生レベル)


  仕事が終了したら、直ちに命じた人に直接報告している
  5W1Hでわかりやすく表現している。
  時々上司から聞かれてから報告することがある。


2点 

報告の素人(入社1年後レベル)


  報告を受ける人の状況をみながら、タイミングよくしている。
  結果、経過の順に要領よく報告している。
  報告の機会に次の指示を求め、また、上司の考えを知る機会としている。


3点 

報告の凡人(入社3年後レベル)


  状況が変わったとき、その仕事のメドがついたとき、など中間報告をしている。
  上司から「あの件はどうなっているのか」と聞かれる前に中間報告をしている。
  必要資料の添付、参考資料を用意している。


4点 

報告の鉄人(恥ずかしくないレベル)


  結果や状況報告だけに止まらず、「自分の意見」や、「提案」を添えている。
  さらに情報提供も報告にあわせて行っている。
  他の件の「報連相」も場合によっては行っている。


5点 

報告の達人(ほめられるレベル)


  報告したいことだけでなく、相手が求めていることを察知して報告をしている。
  上司に対してだけでなく、関係各部門への報告も抜かりなく行っている。
  相手の好みに応じた報告の仕方をしている。

キャッチボールは難しい!


キャッチボールのミスは、独りではミスれない・・・





コンプライアンスとイノベーション

4月3日は聖徳太子が
17条の憲法を制定した記念の日だそうです。

制定は西暦604年ですので、
今から1400年程前になりますが、
その教えは今なお
色褪せることがないように感じられます。

ある意味で、
日本人のDNAに刷り込まれた教えなのかもしれません。

17条の第一条にあたる部分が
「以和為貴」の部分です。


◆原文:

一曰。以和為貴。
無忤為宗。
人皆有党。
亦少達者。
是以或不順君父。
乍違于隣里。
然上和下睦。諧於論事。
則事理自通。
何事不成。


◆読み:

いちにいわく。やはらぎをもってたっとしとなし、
さかうることなきをむねとせよ。
ひとみなたむらあり、
さとれるものすくなし。
これをもって、あるいはくんぶにしたがはず、
またさととなりにたがう。
しかれどもかみやわらぎ、しもむつびてととのへば、
ことをあげつらわむに、
すなわちことわりみずからかよへり。
なにごとかならざらむ。


◆訳文: 以下は、小林惠智さん(教育学博士)が訳したものです。

一つ、節度をもって仲良くすることが大事で、
足を引っ張り合うようなことはしてはいけません。
人は皆、派閥をつくって群れ感情的に動くもので、
論理的に考え行動できる者は少ない。
つまり、直接の上司の命令に従わない者や仲間同士の喧嘩で、
規範を逸脱する者がでる。
しかし、上の者に敬意を払い、下の者に正しく接すれば、
上下関係は円満となり、正しい議論が生まれ、
物事の原因や結果を共有し、
正しい対策が取れるので、
不祥事は起きない。


昨今、
コーポレートガバナンス、
コンプライアンス、内部統制等々、
社内の管理体制は強化に向かっています。

企業で発生する不祥事が後を絶たないことから、
経営をする側はリスクヘッジとしての
管理強化に邁進しているのでしょう。
そして管理を強化することは
「人材を性悪説として見ざるを得ない」という視点が
基本になっていると推察できます。


しかし、
このような潮流は「人を中心に置く経営」という視点から見て、
本当に有効なのでしょうか?


ソニーの会社設立の目的は

「真面目なる技術者を、
 最高度に発揮せしむべき
 自由闊達にして愉快なる
 理想工場の建設」 

とあります。

ホンダは自社社員を

「愚民」と語りつつも
「個人の価値観」=「美学、異質混合、感情、素直さ」を

大切にしてきました。

さらにリクルートは、
自社の経営について、

「人はそもそも不合理な存在である。
 故に人間をありのままに捉える」(官僚型経営と逆説的)、

つまり
「情緒性」を大切にすることに取り組んでいたそうです。


ある意味で管理強化と対極にある
「自律性を前提とした自由闊達さを引き出す」
考え方だと思います。

「管理強化」と「自由闊達さ」。

これは
「コンプライアンス」と「イノベーション」を比較するようなもので、
どちらが優位という議論にはならないでしょう。


新聞を読んでいて、
ある大手企業の人材開発部門が
社長室の直轄になったという記事を見つけました。

また、別の記事では、
人材開発部門が従来の管理本部の中ではなく、
取締役のスタッフ部門として、
切り出された企業もありました。

人材を活かす部門が
管理部門側に属するべきか? 
戦略部門側に属するべきか?
企業側も試行錯誤をし始めたのでしょう。

これも
「管理」か
「自由闊達さ」かという
議論の一つかもしれませんし、
或いは
「この二つから止揚するのか」という考え方もあるでしょう。


今一度、
聖徳太子の教えに学び、
「組織と人の関係がどうあるべきか」を、
神田川を眺めながら、しばし考えた夏の夕べでした。




勝負は、

勝たなければならない。


プロセスが

どんなにすばらしくとも、
また、

周囲に努力が評価されていたとしても、
結果を出さなければならない。


その結果とは、

目標があればその「達成」であり、
目標がないとすれば、

誰が見ても「よくやった」と
納得のいく、素晴らしい「結果」であろうと思う。


例えば、

営業活動であれば、

まず受注である。


「安い仕事を獲ってきた」と、

後々現場から言われても、
人員のコントロールなど、

改善を行うことで、利益を出せるようになるかもしれない。


また、

輸配送であれば、発荷・帰荷の考えをひっくり返し、
往路で利益が出るように組み直せる可能性はある。


また

傭車の活用もしかりである。


全ては「仕事を獲る」

いわゆる「受注」がスタートであり、
高い安いは、自社の運営の問題である。


また、

営業所の損益に関して言えば当然、
最終的には、

黒字の営業所をつくることが「勝つ」ことであろう。


12ヶ月中、5勝(黒字)、7敗(赤字)でも
年間黒字、もしくは目標を達成すれば良い。


単月ごとの損益や、目標に振り回されて、
肝心の年間で、結果が赤字や未達になれば何の意味もない。


繁忙期に月次の損益を意識する余り、
人員を増加させず、

荷主からのクレームや品質低下につながり、
信用失落、ひいては取引停止になった物流会社が、

どれほど多いことだろうか。


大規模な物流であればあるほど、

そう簡単に黒字にはならない。


なかには

1年目は赤字、2年目で収支トントン、
3年目で利益という立ち上げパターンもよくあるケースである。


これらも改善のスピードいかんである。


「受注」「目標達成」「黒字化・利益化」など

すべて

「勝てば官軍」であり、
その時はじめて

プロセスは正当化されるのである。


もちろん、

手段を選ばずということでは無い。


自分達の誇りに照らして

ジャッジしていくということなのだ。