続・父とふたり旅  その1~ 龍郷に住む龍は琉球王朝から来た!? | かんながら

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旅の記録です

 
この旅は、今年の4月、旧雛まつりの浜下りのドタバタ(旧雛まつりは、浜下り 〜次へ向かう禊)からの、宮古島滞在中に実の父が電話してきたことがはじまり(「1」をうみだす 〜宮古島にて)。
ちょうど、ロシアとウクライナの戦争が始まったころ(美しい世界を紡ごう 〜神の島より心をこめて)。
 
これはいつもの「ミシマ劇場」の匂いがぷんぷんする特別な流れである。
 
 
 
旅を終えて書いているから、ああやっぱりな、って思うわけだけど。
 
普通は父と旅するっていっても大したことないかもしれないんだけど、
ものごころつく前に生き別れた父だってことで、レアケースであろう。
 
 
ま、わたし自身はなんでも受け入れちゃうんで、特別感ないんだけどね。
80歳すぎたよく知らないおじいさんとふたりで旅行するってことであっても。
前回1度、こういうこともあった(実の父と二人旅 〜鹿児島へ)。
 
 
旅がとりあえず決まってからもいろいろあった。
まず、父は当初、後妻さんと3人で旅しようといいだした(そして、東京 島とノロ 〜わたしの思いがつくる未来)。
 
はじめ受け入れるつもりだったけど、今までの経緯を振り返ってみて、
「小さな美志摩ちゃん」が嫌だといっているとさすがに気づいたから断った。
 
 
大神島の浜降りでいろいろあって、
宮古島に行って、
戦争が始まって、
ギリシャとローマの舞台のエーゲ海に行き、
日本とはいろいろありそうなイスタンブールから戻って、
鳥越神社の祭りで将門さんが出て、
 
 
 
しかも、伊勢平氏おじさんとの八ヶ岳からの。
「美志摩かな」のかんながらの3年とコロナのおかげでようやく関係が落ち着き始めたこのタイミング。
 
なにがくるんだろ。
 

 

今回は値段を考慮して、大阪経由の奄美空港行きJAL。

ツアーで購入。

 

朝の東京ー伊丹便はビジネス客が大半で、最近は宮古か那覇行きばかりのってたから、久しぶりのピリッとした空気感。

飛行機も新しくてビジネス仕様。

緊張感のあるフライトの時間ってやっぱり好き。

 

飛行機ってビジネスマンの乗り物って感じがする。

わたしはビジネスマンじゃないけどね。

 

 

わたしにはめずらしく、予約は早くしたものの、本当は帰り予定どおり帰れる保証がないから、やっぱりツアーはキャンセルして飛行機だけにしようと思ったが、父が予約しといて、っていった名瀬の初日のホテルがいっぱいで、ツアーをキャンセルできなかったのだ。

 

奄美にもかれこれ12年、何度も通っているが、こんなことははじめてである。

ちなみに、レンタカーも、今までは当日連絡すればとれたのに、

1ヶ月近く前にとりあえず押さえておいた日程だけしかとれなかった。

 

 

そもそも梅雨明け直後は天気が安定していて、この時期狙ってくる観光客は多くて隠れたピークシーズンではあるのだけど。

 

 

大阪城。

石山本願寺の戦い。

 

「お浄土へいける」の報酬を頼りに戦った一向一揆。

 

白山のサルタヒコには、「それは違う」って言われたけど、そこの部分はまだ理解できていない。

 

 

久しぶりにJALの機内誌が復活してて、記事の中で、

「人生七十古来稀なり」って「古希」についてのことが書かれていた。

 

 

 

と、羽田空港の近くの「穴守稲荷」のある「鈴木新田」。

 

ここもわたしには因縁の場所でありながら、宿題が残されている「江古田」(シンクロの重なる場所には、やはり 〜練馬・江古田)。

ここを訪ねたときにみたけど、わからないままでいる「穴守稲荷」。

 

穴守稲荷神社。

穴守稲荷は、羽田空港のそばのそれが有名である。

関係があるのかないのか、も情報がないのでわからない。

しかし、妙に立派で頑丈そうな鳥居から想像するに、少なくとも意識されているとは思われる。

 

昔「竜田稲荷」と呼ばれていた時代があった、という記述もみたが詳細はわからない。

竜田、だったらまたすごい。龍田神社への旅(鎮魂祭 〜龍田の神と聖徳太子とともに石上神宮へ)や恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 その3 飛鳥・纏向編(前編)につながっている。

最初の八ヶ岳で、祈りのときに真っ赤に染まる川沿いの情景とともに降りてきたあの歌。

 

「ちはやふる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは」

 

いまだに、あれが何を意味するのか、どこにつながっているのかはわからない。

ただ、だんだんといろんなピースが集まり始め、何かをあらわしはじめているのは確かだ。

 

って書いている。

ふーーん。

穴守稲荷きたよ。しかも、「竜田神社」というキーワードを連れて。

 

その上、「鈴木新田」だってさ。

 

「鈴木」って、熊野の名前。

 

「熊野」と「竜田」と「穴守稲荷」と「江古田」。

 

 

西新宿のヨドバシにもその伝説がある中野長者の鈴木九郎(地震の翌日は内藤新宿へ灰の水曜日 〜梅を辿って江戸の旅蕎麦にひかれて諏訪詣 〜新宿は熊野と信濃の交差点!?都の西北にある森は)。

 

 

まさに上空を飛んでいた大阪城、石山本願寺の戦いで本願寺側についた雑賀孫一(さいかのまごいち)あらため「鈴木孫一」も「鈴木」。

 

 

八ヶ岳から「竜田」きてるから(八ヶ岳の向こうにみえるもの)、その辺のごちゃごちゃっとしたのが動くってことなのかな。

 

あと、「笠森稲荷」ってのが大阪にあって、それが「天満宮」とかぶってるっていうトピックもきてたみたいだから(地震の翌日は内藤新宿へ)、穴守稲荷はかなり色々ありそうな予感。

 

 

この青がやっぱり好き。

 

 

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにもそまず ただよふ 

若山牧水

 

 

なぜかわたしにはこの歌、日本武尊をイメージしちゃう。

空も海も、わたしにとっては父。

関係ないのは頭ではわかっているのに、なぜなんだろ。

 

いつか、青い鳥になれるかもって遠くまで旅している白い鳥。

 

 

 

着陸寸前。曇っているけど、だんだん青空見えてきたよ。

 

 

雲かき分けて到着。

ええ、わたしハレ女なんで。

 

 

雲一掃。

 

 

空港についたら、加計呂麻島(かけろまじま)のPV。

驚いた。

 

 

加計呂麻島に、加計学園問題が起きる前、安倍元総理夫人の安倍昭恵さんがしょっちゅうきていたのは、有名な話。

10年くらい前になるのかな、「諸鈍シバヤ」で彼女をみかけたのは。

 

そして、加計学園は、別の場所にできることになって、瀬戸内町には、自衛隊の基地ができた。

内地からの移住者がすごく増えて、予算もたくさんついた。

たぶん、これもそのひとつなんだろうと思われる。

 

 

空港でレンタカーのお迎えを待ってたら、「レンタカー借りたい」って電話している人が断られていた。

これも初めて見る光景。

 

今までは当日にレンタカー予約が普通にできたんだもの。

 

 

 

世界遺産に登録されて、インフラを整え始めた矢先にコロナで全てが2年ストップして、いきなり飛行機が各地から飛んでくるようになっても観光客に対応なんかできっこない。

 

しかも、この島の(ネイティヴの)人たちは、お金はいらない人たちだから、観光客を必要としていない。

 

 

それが証拠に「島外の人は来ないで」って言っているお店も多いし、休業している宿も多い。

 

 

「きてほしい」って思っているのは、観光でお金を得ようと移住してきた「よその人」だけである。

 

 

 

父が到着するまで4時間以上あるから、龍郷町をドライブして、大勝でうなぎ。

本当は、「麦の実」のメロンパン食べたかったけど、休み。

 

 

大熊の展望台からの眺め。

 

 

大熊漁港はカツオ漁の基地だったみたい。

「チボリ水」っていう長持ちする水が湧いていたらしい。

 

島役人の精神的支柱の役割であった観音堂が1819年に笠利の赤木名から名瀬に移され、現在はその御神体の観音坐像と弁財天坐像は大熊観音堂と大熊龍王神社に安置され、1998年に奄美市指定文化財になっています。

 

と、ある。

なんで笠利の赤木名から名瀬に?

どうも都というか政治の中心地がうつった模様。

 

 

1819年の年表をみてみると、1819年恐慌っていうのがある。

 

アメリカで起こった恐慌のようである。

 

この恐慌によって、それまでのヨーロッパと交易する植民地という状態から[4]、自由放任資本主義では必須となる金融と産業に比重が増していく動的な経済に転換されたことが自明になり[5]、好況と不況のサイクルに見舞われるようになった[6][7]

ナポレオン戦争の後では地球規模の市場調整が進み[8]、景気低迷の厳しさは、過剰な公有地投機と組み合わされ[9]、銀行や企業から抑制無く発行される紙幣によって加速された[10]

第二合衆国銀行自体がこのインフレを呼ぶ行動に深く関わっており[11]、1818年からその西部にある支店が貸付を急速に締め付け始めたことで、州立銀行債券市場の規制における曖昧さを補償しようとした[12]。第二合衆国銀行の銀行券に相当する金貨を提供できなかったことで、州認証銀行は貸し付けを行っていた抵当の重い農園や事業用土地に対する取り立てを始めた[13]。その後に続いた金融危機は、1817年にヨーロッパにおける農業生産が突然回復したことと組み合わされ[14]、倒産が広がり、大勢の者が雇用を失った[15]

金融危機と不況は銀行と企業に対する民衆の不満を掻き立て[16]、連邦政府の経済政策に基本的な欠陥があるという考えが広がった[17]。アメリカ人の多くはこのような事態を初めて経験する者であり、その地方経済の利益を守るために政治に関わるようになった[18] 。この広がった不満は「旧」共和党員と同盟した民主共和党によって動員され、小さな政府、憲法の厳格な解釈、更に南部の卓越というジェファーソン流の原則に立ち戻ることになった[19]。1819年恐慌は好感情の時代に終わりを告げ[20]ジャクソン流民主主義の興隆を招くことになった[21]

 

 

なんか、今の状況と妙に似ていると思うのはわたしだけ?

世界史全くだめだからわかんないけど、東インド会社とかそのあたりの頃みたい。

 

で、偶然かもしれないけど、アメリカの恐慌と同じ時期に、経済か政治の中心が笠利(北部)から移ってきたってことみたい。

 

 

そして、そこに湧く「チボリ」水。

チボリって、わたしにはイタリア・ローマ近郊の温泉地。

 

 

 

古代ローマ時代から保養地として知られ、ハドリアヌス帝や多くの貴族たちによって別荘(ヴィラ)が営まれた。ヴィッラ・デステ(エステ家の別荘)とヴィッラ・アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘)のふたつが、ユネスコ世界遺産に登録されている。

 

古代ローマの水道の水源でもある。

 

ローマとアメリカ。

そこに見えてくる微妙にVSな関係。

 

そういえば、カトリックはアメリカでは貧しきものの宗教で人気ないって、言われたことがある。

 

 

コロナ騒動の当初、ローマカトリックの教皇フランシスコは、

「こんなときこそ、キリスト者は行って、病める人を励ましなさい」って言っていた。

 

 

鯨浜。

父の実家の集落は龍郷町の嘉渡らしい。

 

得藤長(とくとうちょう)っていう役人が嘉渡の人で、「ハブ藤長」ってあだ名がつくような

怖い役人だったみたい。

 

ここで愛加那(西郷隆盛の妻)を調べていてわかったけど、

愛加那の生まれの「田畑(龍)氏」は、「笠利氏」の末裔で、

 

 

本祖である笠利為春(1482年 - 1542年)は、琉球第二尚氏・初代尚円王の父・尚稷(しょうしょく)の孫とされ、『校正鹿児島外史』等では、笠利氏は源為朝の嫡流(嫡男・為頼の裔孫)であるともされている[5]。 とある。

 

ってことで、どうも琉球王朝、第二尚氏の尚円王、そして源為朝とも繋がっているようす。

 

ってことは、さっきの大熊の、

「笠利から移した弁財天」は、琉球王朝の龍家ってことになるのかもね。

 

 

 

龍家の末裔という人もすでに配置されている「ザ・ミシマ劇場」。

ルーツは父と同じ龍郷町って聞いてたけど、近すぎない?

 

しかもその先は琉球王朝で、第二尚氏で、源為朝か。

 

 

源氏じゃん。

 

 

だんだん繋がりが見えてきたよ。
 
 
 
琉球と、鹿児島。
 
 
 
みんな、奄美と琉球は文化が同じと思ってるけど、違うから!!

 

 

 

「ばしゃ山村」でジェラートを食べる、って父がいう。

 

「ジェラートありますか」と父。

「アイスクリームならあります」とウェイトレス。

 

 

「ジェラートってアイスクリームのことだから」

 

ってどんなに言っても、

「ジェラートはないんか」と聞き続ける父。

 

 

認知機能は大丈夫らしいんだけど、ガンコだからね。

ガンコな人は認知症になりやすい、っていうけど、これの延長線上にあるのだと理解した次第。

 

 

わたし、ドライブ好きなんで、車運転中には自分の世界で話するの面倒だから、こういう時間しか話さない。

 

突然脳出血で左半身が不髄になったと聞いていたが、視野が全体的に暗くなったので見えにくいとはぼやいていたけど、
さすが美志摩の父らしく、復活していた。
 
 
夜は、しろくまさんと一度いったことのある居酒屋 誇羅司屋(ほこらしや)に。
 

 

お腹いっぱいになるまで食べて、すでにここまでで生ビールと焼酎ロックを3杯飲んでいたが、

部屋でさらにWattaと75ビール。

わたしだけ。

 

 

JALの機内誌でみた、杜甫の「人生七十古来稀なり」。

 

わたしが具体的な人物を何人か思い出したことは言うまでもない。

 

 

70歳まで生きるってことは珍しい、ってことなんだけど、

杜甫のこの詞には前段がある。

 

(てう)より回(かへ)りて日日(ひび)春衣(しゆんい)を典(てん)し、
毎日 江頭
(かうとう)に酔(ゑ)ひを尽くして帰る。
酒債は尋常、行
(ゆ)く処(ところ)に有り。

 

人生七十 古来稀なり。

 

つまり、朝廷(勤め)から帰る杜甫が、

酒代のために服を質入れしている、貧乏なさま。

そして70歳まで生きることはないんだから、って言っている。

 

ここまでは機内誌に書いてあった内容と同じ

 

父は詩吟が趣味なので、続きを解説。

 

実はこの歌には後段もあって、

 

 

花を穿(うが)蛺蝶(けふてふ)は深深(しんしん)として見え、
水に点ずる蜻蜓
(せいてい)は款款(くわんくわん)として飛ぶ。
伝語
(でんご)す 風光、共に流転(るてん)して、
暫時
(ざんじ) 相(あひ)賞して 相(あひ)(たが)ふこと莫(なか)れ、と。

 

蝶と蜻蛉(とんぼ)が美しく飛ぶ様子をみて自分の人生を重ねて

 

私もこの風光も、共に流転していくのだから、しばらくの間でも、お互いにその美しさを賞(め)でて楽しみ、そむくことのないようにしようではないか』と。と自然に向かって言っている。

 

すべては、流転する、か。

 

 

父と25年ぶりに再会したとき(というか、物心ついてはじめて会ったとき)、くれた本は

宮本輝の「青が散る」だったけど、

宮本輝作品もテーマは「流転」だった。

 

 

平家物語も、諸行無常を語る。

すべては流転する。

 

でも人間は執着があるから、変わらないことを望む。

 

 

いい目しているから、「変わってほしくない」って思っている人たちはもちろんそうだが、

コロナではっきりわかったけど、不満を持ちつつ、変化を恐れて不本意な現実にしがみつく人たちもいっぱいいる。

 

 

みんな、団塊の世代が退場したら、世の中が変わるって思っているみたいだけど、残念ながらそうならない。

 

 

結局、「いい目をしている団塊の世代」と、

「思考停止することで生き延びてきた奴隷のわたしたち」は相互に依存しあっているのである。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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