地震の翌日は内藤新宿へ | かんながら

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旅の記録です

地震の翌日。バレンタインデーだった。
世の中は。
 
 
お勤めしてないし、パートナーもいないし(この言葉はあまりにも自虐的すぎる気もする)、バレンタインデーは今のわたしには関係ない。
 
 
 
 
前の晩、目が覚めるほど揺れたが(松と梅と東北の地震)
 
「大丈夫?」って聞いてきたヨギの治療師は、
「大丈夫じゃない」と返事したのにそれっきりだった。
 
 
 
だったら聞くなよ!!
 
 
 
 
普通だったら、気にかけてくれたことをありがたいって思うはずなんだけど。
 
 
ネット仲間からもらった「大丈夫?」ってメッセージには素直に感謝できたのに。
これは、自分が報われてないって思ってるって潜在意識が訴えてるサインである。
 
 
 
そういえば、ちょっと前に「うちのやつ」って言葉がこころの奥にひっかってるって気づいたんだった(瀬織津姫のしあわせは?)な。そういえば、そのときも揺れたんだった。
 
 
 
揺れる前に、伊勢平氏おじさんに「うちのやつ」って言葉がなんか棘がひっかかるみたいに感じる、って言ったら「友人でいておけばよかったんだよ」ってヨギの治療師のことを言っていると思われる言葉が返ってきた。
 
 
 
そうではなくて、わたしは伊勢平氏おじさん、あなたのことを言ったつもりだったんだけど。
 
 
 
でも根底に流れているものは同じかのかもしれないな。
「うちのやつ」とそれ以外。
 
「家族」や「社会」に属するものと、そうでないもの。
 
 
理想のあり方が存在すると、そこから外れるものは必ずある。
必ず、だ。
 
 
 
みんなわかってない。理想というのは、理想でないものがあるから成立するってことに。
哀れは、理想が生み出す産物なのだ。
 
 
 
「自己犠牲はやめろ」とか
「人柱はダメだ」とかいうふたりが、わたしにいうってことが、わたしの心をあわだたせるのだ。
 
 
じゃわたしの大切な時間をあなた方にかけているワタシは報われるのだろうか、と。
 
 
家族とそうでない人を区別するのは本当に正しいことなのか?
あなたの大事な家族があなたのいない場所で困っているとき、目の前にいる他人に遺棄されたらどう思うのか。
 
 
 
まず、目の前の人を大切にする、で事足りるんじゃないか。
 
 
 
わたしが大切な友人であると思って付き合っているこのふたりは、わたしの心に溜まるかなしみの澱のことをよく理解していない。
 
 
そして、たぶん多くの人が今、家族より目の前にいる他人を大切にしたらいいとは思わないこともわたしは知っている。
 
 
 
戦後まもなくは、家族の枠組みから外れてしまった人がいっぱいいた。
しろくまさんのお父さんは、戦争孤児で子供たちだけで生き延びてきた。
その苦労を語ったことは一度もなかった。
 
人は本当に辛いことを言葉にすることはできないのだ。
 
 
 
 
今の世では、見えないもの、聞こえないことは気づかれない。
 
 
 
離婚や死別、いろんな事情で家族という枠組みから外れた人たちはたくさんいる。
多くは悲しみの中に沈黙しているから、その存在自体気づかれない。
 
 
 
当事者にしか気づかれない存在。
その孤独を2度と体験したくないから自分は離婚しないとか、家族にこだわる人もいる。
 
 
 
家族だけが特別に大事っていう不自然な価値観の方が崩壊したらいいのに。
 
 
 
徴税のために便利だったから、そうしただけなのだ。
墓だって庶民にはなかったのだ。
管理に便利だから戸籍がわりに作ったときいている。
 
 
だって家族であろうとなかろうと、目の前にあらわれる存在は、皆、神の化身であり、自分自身の投影なのだから。
 
 
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なにわの審神者(さにわ)が「笠森稲荷」と送ってきた。
 
笠森稲荷は、wikiによると
 
笠森稲荷(かさのもりいなり、かさもりいなり)は、大阪府高槻市にある稲荷神社と、そこから勧請された神社である。笠森稲荷神社笠森神社(かさのもりじんじゃ)とも呼ばれる。笠の訓読により、(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。
 
東京で最初に勧請されたのが、小石川植物園のあるところ。
そこは、白山神社のお膝元で、加賀藩の土地だって前に歩いたとき(白山通りに導かれ 〜白山菊理媛神と江戸)に白山のサルタヒコから聞いたんだった。
 
なんと、それは昨年の立春だった。1年経ったのか。
そのあと、同じ道は、なにわの審神者(さにわ)とも歩いた(都をつなぐ旅 〜オーサカからトーキョーへ 西の猛霊松尾の神は、東にもいた!(その1))。
 
そして、今そのとき一緒に参拝した代々木八幡宮も今朝久しぶりに正面にいったら修繕に入っていた。
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1年前には白山と大阪の関わりなんてまったく知らなかった。
 
最初に東京に勧請された場所が小石川だっていうから、白山のサルタヒコに問い合わせた。
「そういえば、梅って、石川県と関係なかった?」
「前田(利家)氏の梅鉢紋」
 
「利家の正妻のまつの実家が、石浦神社と関係がある」
って教えてくれた。
 
 
石浦神社は前回の記事(松と梅と東北の地震)にも書いたが石川県最古の神社で、白山菊理媛神は、「白頭山の神」って言っている。
 
加賀藩の前田利家の家紋が、梅の花。
 
そういえば、梅といえば、菅原道真を思い出したんだった(鎮魂祭を前に 〜えびす・大黒・そして弁財天)。
 
 
笠森稲荷の「笠」は「かさぶた」の「かさ」だっていうから、はっと思い出した。
近所の稲荷神社の境内にある天満宮。
「はしかの神様」っていわれてる。
はしかもまたかさぶたができる病気である。
 
なんで天満宮?って思ってた。
 
 
なぜ天満宮に「牛」がいるのか。
なぜ梅なのか。
 
ずっと疑問に思ってきたことがなんとなく繋がり始めたような気がする。
 
 
 
梅の花が咲き始めた。
 
 
わたしが震災トラウマを持っているのを知ってる同じく「おひとりさま」のネット仲間が心配して連絡をくれ、ラーメンを一緒に食べた。
 
 
そして、なぜか「花園神社にいこう」。
 
花園神社といえば、内藤新宿(花園神社はおいなりさん)。
 
基本、神社でなく寺派の彼は、「善政」ってテーマでみたら、間違いなくサラブレッドの血統であろう。
 
「絵馬を見るのが好きで」
「叶えばいいなって思うんだよね」
 
 
いや、あなただって自分の幸せを願ったほうがよくないですか。
 
 
 
っていっても、私たちふたりとも、自分の幸せ願うのは下手そう。
だって、どうだっていいんだもん。
 
 
彼は自分のわずかな自由時間である睡眠時間を、思い詰めた人の相談を聞くことに充てている。
わたしはたまたま長い付き合いで、その場その場にたまたま居合わせたから彼がなぜそうしているのかを知っているけど、何も知らないひとからしたら「自分の幸せを考えたら」みたいなことを言われるのかもしれないな。
 
わたしが言われているように。
 
人には、魂が渇望することっていうのがある。
それが使命とか生きる意味って言われるものなんだと思う。
 
 
食べるより、寝るより、生きるために必要な活動ってものがあるのだ。
 
 
ここでも梅が満開。
 
 
「西島三重子は池上線だな」
 
「池上線?」
「同棲してたパートナーにさられて、置き去りになった人の悲しみを歌った歌だよ」
「あー。伊勢平氏おじさんが好きだっていってたけど、全くかすらないからわかんなかったよ」
「きつい失恋したときにちょうど流行ってたんだよね」
「ふーん」
 

 
内藤新宿は唐辛子の産地だったんだ。赤く見えるくらいに。
あと、かぼちゃ。
 
かぼちゃって子どもの頃祖父母は「なんきん」っていっていたけど、方言かな。
そういえば東京にきてからは、「南瓜(なんきん)」じゃなくて「かぼちゃ」っていう。
 
 
 
 
徳川さまが来る前に大和國吉野山より勧請されたとある。
どなたがどこからこられたのか。
三光院稲荷って、大阪のような気が。
 
保食神っていうところも「みどりの俵石」を彷彿とする。
 

味取の俵石【みどりのたわらいし】

 

その昔、食物の神である保食命とその姫が力をあわせて俵石を運んでいました。大量に運んだところで姫が「もういくら運んだでしょうか」と保食命にたずねます。保食命はそろばんを使い計算し始めましたが、近くの川の流れる音が大きいため、何度計算し直しても正確な数が分かりませんでした。「川水ども静かにせよ」と叫ぶと川音はピタッと止みましたが、それでも正確な数は分かりません。姫は、正確な数も数えられないような不甲斐ない男に連れ添っていてはいけないと、保食命を置いて去っていってしまった。

 

 

 
 
 
せっかくなら淀橋にと言ってきた。
え、あそこにいくんだ。
さすが「墓参り代行」。
 
 
 
 
昨年きたときには工事していたここは、新しい公園にリニューアル(やはり呼ばれた西新宿 〜十二社(じゅうにそう)熊野神社・淀橋)。
 
 
そして、熊野神社。
八咫烏。
 
そういえば、五島の三島さんは、3本足なんだから三島の神だっていってたな。
熊野とつながっちゃうの?
 
そうすると丹後や一関にまでいっちゃうんですけど。
もちろん拠点は大阪の高槻。
 
槻(つき)はケヤキ。
 
たしかに溝咋神社のあるエリア(茨木〜高槻)は、阿武山古墳があり、なにわの審神者(さにわ)が送ってきた「笠森稲荷」のある場所をみたら「総持寺」まである。
 
 
絶対なにか、あるエリア。
 
 
 
中野長者も「鈴木」氏である。
 
淀橋は、もともと「姿見ず橋」だったのを不吉だからって変えたらしいんだけど、改心したきっかけが「娘が蛇に変えられた」ってやつなんだよね。
前回書いた「道成寺」に似ている。
 
女が蛇になるっていうのと、「寺」がからむってところが似ている(という個人的な感想)。
 
 
 
 
ラフォーレ原宿の広告は、「Hermes」に。
 
 
そして、もうすぐ祈念祭。
今年の豊穣を願う祭。
 
 
 
もうすぐ四旬節。
まもなくマリアさまとも会えなくなる。
 
 
 
いろんなことが塗り替えられていく。
果たしてどうなるんだろう。