実の父と二人旅 〜鹿児島へ | かんながら

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旅の記録です

実の父からメールがきたのは旅の一週間前のことだった。
 
「11月1日に最後の同窓会で鹿児島にいきます。時間があれば鹿児島来ませんか」
 
時間はあるよ、と返事した。
時間はあるのだ。仕事はないけど。
 
「鹿児島空港についたらそれからはなんとかしてあげる」と提案があったので、もったいないけど、マイル使用で鹿児島空港に。
父の方は片道3000円のLCCが取れたそうだが、一週間前にそれは無理である。
しかもこちらは成田までの交通費に往復3000円はかかる。
 
 
 
 
6時20分の羽田空港発。
 
そう思って5時前の山手線に。
無事京急のエアポート快特に乗ったのに、なんと大鳥居駅で信号機故障で遅れるというではないか。
 
蒲田からタクシーしかないかと焦ったが、なんと、
 
今日の飛行機は7時10分発だった。
 
6時20分は次の旅だ。
あーよかった。
 
徐行運転で少々遅れたが早すぎだった。
 
 
 
 
 

エアポートラウンジからのご来光。

 
 
そして、搭乗。
滑走路まで行って離陸待ちとCAからアナウンスがあったが、機長から貨物室の整備不良で引き返すという。
 
あと20分、あと10分、まるで蕎麦屋の出前のようなアナウンスが続き、機内の緊張はマックスに。
 
私は父を待たせるだけなので、どおってことない。
どうせ父も無計画に決まってる。
鹿児島空港で足湯にでも入って待ってるであろう。
 
給油するので万一に備えてシートベルトは外してくださいとの初めてのアナウンスがあったり、結局2時間遅れて出発。
 
しかもWi-Fiのない古い機材で、出発直前に今から飛ぶというメールをなげて、連絡つかぬまま出発。

 
 
いよいよ鹿児島空港に近づいておりている途中、なんだかきになるお山を発見。
 
 
秩父神社の御神体の武甲山みたく、ちょっと白くてピラミッドみたいになっている。
(あちらは採掘されて大変な状況)
 
気になるけど、どこなのかはよくわからない(知っている方がおいでだったら教えてください)。
 
 
 
2時間遅れで鹿児島空港着。
ランチ代をもらう。やったー。
 
 
父に連絡。
 
 
出ない。
 
 
いつものことなので驚かないけど。
 
 
出口出たところに父は待っていた。
 
 
「泊まるところはとってあるんか?」
 
ないよ、そんなの。
 
「ま、なんとかなるやろ」
そういって空港バスに。
 
前途多難。
 
 
市内にでてこむらさきのラーメン。
 
父はここが好きなんだけど、わたしはそれほどでもない。
やはりとんこつラーメンは博多か久留米である。
 
東京なら西麻布の赤のれん。
そして「九州じゃんがら」のぼんしゃんらーめんが好き。
 
 
市内循環バスから市内観光。
本当はシティビューとかいうもう少し立派な方に乗るはずだったのに、
間違えてハチ公バスみたいなコミュニティバスに乗る。
 
行き先はほぼ一緒。
 
 
 
南洲神社には、西郷隆盛の墓がある。
 
西郷隆盛は、菊池源吾で、元々は熊本の血筋らしい。
生粋の鹿児島県民ってわけではないそうだ。
 
それでもぶっちぎり一番人気のヒーロー西郷さん。
 
 
 
 
南洲神社の中のカフェで神社(ジンジャ)エール。
命名したのはわたしではなく、公式なカフェメニュー。
 
 
 
 
 
そして親族の家に泊まった。
はっきりいって、無理やり。
 
もともとバックパッカーなので、図太い。
本心は嫌がられているかもしれないが、「いいよ」と言われれば
ありがたく泊めてもらう。
 
連れて来た父の方は、知らん顔である。
 
 
以前ここに泊まったとき、父の奥さん(後妻さん)は泣いた。
誘ったのは父で、わたしはなにも知らされずについて来ただけだったが、
親族に前妻の子を紹介されるのが嫌だったらしい。
その奥さんとの間に異母兄弟がいるが、彼らは大人になってわたしがある日突然訪ねてくるまで、
異母きょうだいが存在することどころか、父が前に離婚していたことすら知らなかったのだ。
 
 
それでとっても気まずい空気になり、20人ばかりの宴会の中、
私に声をかけてくれたのは、その場の最年長であり、もっとも発言力のある叔母と、
ちょっぴり空気が読めない、人のいい従兄弟ひとりだけ。
 
叔母は、父の奥さんを「人生にはがまんしなければならないことがある」とたしなめていた。
 
あとのみなはわたしが存在していないように振る舞い、わたしはただひたすら味のしないビールを飲み続けた。
11年前のできごとだ。
 
今回は父の奥さんはいない。
夕方遅く、連れてこられて娘の方だけ返すわけにもいかず、泊めてくれたのだった。
きっとこれも秘密になるやもしれぬ。
 
 
夜は銭湯に。
鹿児島市内の銭湯は全部天然温泉らしい。
熱々のお湯がたっぷり湧いている。390円。
 
 
夕飯を食べながら、父は自慢の家系図を見せた。
空気がよく読めるほうのいとこが作成した。
 
自分の祖父母から親族の一覧。
3代前までだから、家系図としては浅いが、全親族網羅している自慢のもの。
 
 
父の子の欄に、わたしの名前は当然なかった。
 
 
フォローしてくれたのは、父ではなく叔父の奥さんだった。
 
 
 
 
翌日は墓参りに行った。
実は11年前にも墓地には行った。
 
でも父の奥さんの意向により、わたしは本堂でお留守番だった。
 
先祖は墓にいないと思っている私にはどうでもいいことだが、
先祖に隠しごとが通ると思っていたのだろうか。
 
墓に行こうと行くまいと、私の存在は先祖にはとっくにバレていると思うが、
おそらく墓まいりという血縁の儀式に入れなければ気が済むということなのであろう。
それならそれでよい。
 
 
わたしが前回も今回も、わたしが墓参りさせてほしいと申し出たわけではない。
まったく罰当たりかもしれないが、わたしは墓は現世生きている人のためにあるのだと思っている。
 
あの世の人たちは、墓にいない。
墓というよりしろを必要としているのは、ほかならぬこの世の住人の方だ。
 
墓の前にきて、先祖を思い出す。
「思う心に神宿る」なのだ。
 
 
はじめて墓まいりをさせてもらった。
そして、もうひとつ墓があることを知った。
「遠い親戚の墓」といとこが言っていたのは、祖父の兄弟のひとりの墓であった。
ハンセン病で施設にいたという人とその奥さんとして一緒にくらした女性のものだった。
 
ツレが「かなは、どうしてそんなにハンセン病の人たちに対して特別な感情をもつのか」とよく言う。
 
わたしにもよくわからなかったが、わたしは大学時代のあるときから、「自由」を渇望するようになり、
そして、何かに突き動かされるように旅を続けてきた。
 
あるときはヨーロッパを、あるときはアフリカを、あるときはシベリアを。
すべてを捨てて旅に生きており、「フーテンの寅子」と言われていたくらいだ。
 
 
あるとき、日本財団のハンセン病制圧活動についての本を手にしたことがきっかけで、ハンセン病患者のことを知った。
自分の素性がわかって、家族に迷惑をかけぬよう、名前も変え、過去を全て断ち切ってひっそりとハンセン病患者として施設の中で生きる人たちの存在を知ったときから、気になってしょうがなかったのだ。
 
無意識に自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。
家族のなかに存在自体を認められないというところに。
 
 
わたしが突然、自由を求めて旅をはじめた年と、墓標に刻まれた「遠い親戚」の亡くなった年は同じだった。
 
 
墓参りを終えて、市内観光の続き。
 
「おはら祭」だったのだが、歩くのが面倒な父はいかず。
 
 
 
有名なこの場所へ。
この木の橋、西郷どんの時代にはすでに石の橋だったとか。
 
 
 
 
 
本当の宅地跡はここではないと。
どうも上の写真の橋のたもとだったそうで。
 
そんなに離れてはいないけどね。
 
そして2泊目も親族宅にお世話になることに。
1泊目とは違う銭湯(温泉)に連れていってもらい、
夕食はスーパーで買ったビールとやきとりをつまみに、手作り煮しめで宴会。
 
 
 

終戦まで1ヶ月を切った日に、満州で戦死したという祖父のたった一枚の写真。
後ろに写ってるのがなんなのかとか、気になるけど、わからない。
 
 
享年38歳。
父の戦死により、祖母の「ナツコ 沖縄密貿易の女王(奥野修司著)」そのものの人生が始まる。
まだ中学生くらいの歳の叔母が母の代わりとなり、父たちを育てた。

 

父は当時の苦労話をよく語るが、苦労したのは叔母の方であろう。

そして、母子家庭の苦労はわたし自身もとことん味わったし。

そのことに対していたわりや労いは聞いたことがない「不憫」という言葉がそうなのかもしれないが。

 

 

やっぱり平和な社会が一番。
世界平和より望むものなんか、やはりない。