イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。セキセイインコ青
 
忌部山 聖天(歓喜天)
だれか読んでおくんなまし。
聖天寺の庚申塔
 
左「歓喜天(聖天)」、右「八栗寺」で神仏習合、裏山「五剣山」
 
 
 

待乳山 院(待乳山聖天)は、都内最古の寺で、金龍山浅草寺の子院で、本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音。金龍山浅草寺は、東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。歓喜天といえば阿波忌部と大覚寺とのつながりを妄想。秘密の鍵をにぎる大覚寺派宗祖秘鍵大師空海。毘沙門天は多聞天で金毘羅で、藤原北家がビビッて気絶の宮毘羅大将のこと。小高い丘(待乳山)には595年(推古天皇3年)9月に龍が出現して守護した、浅草寺の山号(金龍山)の由来。待乳は、本当の土である真土のこと。浅草寺は、都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音で知られ、元は天台宗で、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山。真言宗智山派 清瀧山 蓮花寺は、伊豆国出身の豪族で北条氏開基が気になる。伊豆の伊=イの国の伊。そして、「江戸三大大師」で空海さんの痕跡。

 


りまりまさんのブログのハイビスカスで脳裏にホオズキが浮かびました。

そしてコメントさせていただきました。



ホオズキ(鬼灯)は何となくハイビスカスを思った。

沖縄ではお墓の周りにハイビスカスが植えられていたり、供えられている。別名・仏桑華(ぶっそうげ)と呼ばれ、沖縄では亡くなった方の幸せを願う花である。故人にハイビスカスを供えるという習慣は昔から受け継がれ、今でも沖縄ではお墓周りにハイビスカスを供えるそうだ。


ホオズキは、日本の仏教習俗お盆では、ガクに包まれたホオズキの果実を死者の霊を導く提灯に見立て、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾る。
灯」の字を当てるのは、盆に先祖が帰ってくるとき目印の提灯の代わりとして飾られたことに由来。

ほおずき
東京都港区芝の愛宕神社の縁日に由来するといわれている。


「愛宕」イ探的には、「阿多子」

神阿多都姫の

あいやー 妄想でっす。ゲロー

 
 
 
 
 

 

長尾は何のしっぽ?⑭のつづきです。

にやり

 
 
探検してると、〇〇尾とか、尾がよくでてくるように思います。
例えば、石清八幡宮、長寺、張など
 
菅原道真さんの友、明印さんの長尾寺
屋島の戦いへ向かう源義経が前を通ったであろう長尾寺
村上天皇の血筋と妄想の静御前、その母、磯禅師が得度の長尾寺
 

長尾寺はしっぽ関係では気になりまするビーグルしっぽ猫しっぽ牛しっぽ熊しっぽ黒猫しっぽ

 

 

長尾寺流れ星御詠歌
「あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ」
山鳥の尾。
なぜ山鳥の尾?うーん
 
 
 
 
本道はいづこ・・・叫び
 
大阪~奈良の長尾街道(ながおかいどう)は、大仙陵古墳(伝、仁徳天皇陵)から奈良葛城の長尾神社への道です。
 
讃岐の富田茶臼山古墳から阿波の那羅そして葛城は、大きな古墳から葛城、似てます。グラサン
 
 
讃岐にも「長尾街道」があり、脇道ばかりですが妄想探検中です。グラサン
讃岐の常盤橋~長尾寺の長尾街道(ながおかいどう)とは、
江戸時代に高松藩によって讃岐(高松)五街道として制定された旧街道(高松藩街道)のひとつ。
香川県道10号高松長尾大内線の旧道にして前身。
江戸時代当時、玉藻(高松)城外堀に架けられた常磐橋を起点とした、四国八十八箇所第87番札所長尾寺への東讃地域東西より延びる参拝道路の性質を持つ旧街道。
 
 
 
ご注意ください!
すべて、誤解され野郎のイ探の勝手なモウソウです。ニヒヒ
 

千葉氏の白井氏探検が続いています。

以前、

妙見信仰で千葉氏の家紋は月星。阿波の伊笠山に祭られる天二上命、ひいてはスサノオ、朱砂の尾と妄想した千葉一族が讃岐にいたのか調べたら高松藩にもいた。歌舞伎の演目で有名な大奥の絵島(江島)事件まで出てきた白井氏。

 

なんということでしょう。

ぐすんうつぼ舟で流され三輪(東かがわ市引田・大内)の地に着いた孝元天皇の妹であり吉備津彦こと彦五十狭芹彦命(桃太郎)の姉・倭迹迹日百襲姫命。

ぐすん両親を亡くし志度から江口へ旅立った幼い長町磯(今様を極めた静御前の母磯禅師)、生まれてすぐの義経との間の赤子を殺された静御前。

ぐすん木花咲耶姫の桜八幡神社で親密になるセカチュウの庵治(阿春で菟道稚郎子の地)の亜紀。

ぐすん難波津(さぬき市津田)から葛城(阿波)への涙の移動の仁徳天皇皇后・磐之媛。

に続き悲運な女性の登場だった。

 

厳島神社に祭られる市杵島姫命は、龍である紀氏の女性と妄想し、厳島神社への信仰は、アマテラスとスサノオの「誓約で生まれた」女神・宗像三女神。

道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれるあらゆる「道」の最高神ととしての総本宮宗像大社。

巫女=大蛇=龍=鰐。

 

千葉氏の尾の白井氏は、天津久米の紀氏の「三里」と同様に、表に出さない(出せない)が、きっとイの国の誇りを胸に刻んだ名と妄想し、日本人の名で様々な「い」とつくのは「イの国」なんじゃないか?と、イ探は妄想の海原へと出てしまった。
キラキラ波船
 

 

 
白井藩(しろいはん)は、上野国群馬郡の白井城(現在の群馬県渋川市白井)を居城として、徳川家康の関東入国時に成立し、江戸時代前期まで存在した藩。
 
前史
室町時代、長尾氏の一族が白井城を拠点とし、この系統は「白井長尾家」と呼ばれる。白井長尾家は長尾景仲・景信のときに関東管領山内上杉氏の家宰となって重きをなした。この時代の白井では中世城下町が形成され、雙林寺が創建されるなど、文化的にも充実を見せた。

雙林寺(そうりんじ、正しくは沙羅双樹林寺)は、京都市東山区鷲尾町にある天台宗の寺院。
山号は霊鷲山(または金玉山)。院号は法華三昧無量寿院
 
 
釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされるインドのビハール州のほぼ中央に位置する山として知られる霊鷲山(りょうじゅせん、和語では“わしのみ山”)にて、十六羅漢を始め諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた

金毘羅大権を調べると、象頭山松尾寺普門院の縁起では、大宝年間(701-704年)に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する(仏法および仏教徒を守護する主に天部の神々(天))護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされ、不動明王を本地仏としたとのこと。脇にそれますが、霊鷲山がやや気になります。讃岐の鷲ノ山と繋がる気がします。鷲ノ山産の石棺は、高松市の石清尾山の(国指定史跡)石船古墳をはじめとして中讃地域など県内8例、大阪府柏原市で2例確認され、鷲ノ山周辺が古墳時代前半期における石材産地および石材加工の一つの中心として広く知られていた。妄想するに、役行者が神験に遭った霊鷲山とは、暗に讃岐の鷲ノ山では?

 

 

『播磨国風土記』飯盛山の条「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」往古、飯野山の山頂に鎮座し、その後、中腹、山麓へと遷座した。また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、京へ帰る時に、自ら木像の作って奉納したことから。18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。飯野山の南山麓には、住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には住王が眠る「住王塚」が残っている。

 
 
 
本尊は薬師如来、大聖歓喜天

 

 

聖天寺は、寛政以降(1789~1800)から、文化前後(1804~1817)にかけては、小さな庵で寺としての格もなく、人々に祈祷をするところで、興憧庵といわれた。1854に、時の住僧の快道という人が、古義真言宗京都嵯峨大覚寺に便りを送り、開敷山現証律院法護寺と名のることを許され、以来その末寺となった。明治初年に、大聖歓喜天が新たに祭られた。戦後一時住職がいなかったが、後に山下法剣住職が住まうようになって金剛山修験本宗派に転派した。昭和27年7月10日源正山聖天寺と名を改め現在に至っている。三枚に剥がれた大岩に大日如来、弘法大師、不動明王を刻んだ磨崖仏がある。

 


雙林寺
天台宗の最澄が唐から帰朝後、宮中において、天下泰平・国体安穏・万民快楽の大祈祷を奉修したのが我が国初の護摩供。最澄は請来した天台密教経疏500巻及び護摩の器具を桓武天皇へ献上。     
当寺は、805年に桓武天皇の勅願で左大史・尾張連定鑑(むらじさだみ)により、最澄を開山として伽藍が創建され、日本初の護摩祈祷道場として建立。
この土地が傅大士(北斉)建ての東陽郡 · 烏傷縣の沙羅双樹林寺(現・浙江省義烏市雲橫山双林寺)に似ていることから、正式名称を霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院という。
弘仁14年(823年)には延暦寺の別院となっている。
その後、寺には平安時代後期の武士で後白河天皇に仕えた平康頼、平安時代後期の歌西行、南北朝時代の歌人頓阿などが隠棲。鎌倉時代には塔頭が17院あったが、後衰微。
1335年に南北朝時代の争乱で炎上し荒廃。
応安6年(1373年)に国阿が入寺して再興すると、至徳元年(1384年)に時宗の道場とされ時宗十二派の「国阿派」の本寺になり「東山道場」と称され、至徳3年(1386年)には後小松天皇から「金玉山」の勅額を賜っている。しかし、応仁の乱に巻き込まれて衰退した。
1584年には羽柴秀吉当寺で花見の宴を催し、前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てさせている。翌天正13年(1585年)には秀吉によって本堂が再建されている。
江戸時代に入ると1605年には高台寺の造営にあたって寺地を献上し、次いで1653年にも真宗大谷派の大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上することとなり、その都度規模が縮小された。
明治時代初年に再び天台宗の寺院に復帰したが、1886年に円山公園の造成のために上地されてしまい、現在では本堂と飛地境内にある西行庵(西行堂)を残すのみとなっている。

 

 

おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌(1689年)に、門人の河合曾良を伴って江戸から奥州、北陸道を巡った紀行文。西行(さいぎょう)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。誕生は1118年。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。房前といえば、コトデンの駅名として残る。高松市牟礼の房前。志度の隣り。志度寺縁起の海女の玉盗り伝説の志度。

 

おくの細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・」

 


良寛とは、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の曹洞宗の補陀落山円通寺(本尊は聖観音菩薩)の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事。
「冬籠り 春さり来れば 飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を 立ち出でて 里にい行けば たまほこの 道のちまたに 子どもらが 今を春べと 手毬つく ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ 吾(あ)がつけば 汝はうたひ つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ 永き春日を 暮らしつるかも」妄想訳

「裏になり 天下春命がくれば 飯野命(法然の祖)乞い ふと 草の庵を 出て 天津久米(紀氏)の三里に行けば 素戔嗚の 旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す八面山の尾根道にイの国の子孫らが 今を天下春命の時代と (糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく 十種神宝の霊力で死者を蘇らせる 河南省の嵩県から淮水に流れる汝水(ジョスイ)川」がつけば、神のお告げを汚れから守る歌をうたい 汝水川が神のお告げを汚れから守る お互いに呼応し 龍・天村雲命現れる
長く続く天孫降臨の警護三十二神の一神で武蔵の秩父国造らの祖・天下春の日に照らされて 暮らすでしょう」

 

白井藩(しろいはん)は、徳川家康の関東入国時に成立し、江戸時代前期まで存在した。
 

室町時代の白井では中世城下町が形成され、雙林寺が創建されるなど、文化的にも充実。霊鷲山法華三昧無量寿院雙林寺(沙羅双樹林寺)は、京都市東山区鷲尾町にある天台宗の寺院。
釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたインドのビハール州のほぼ中央に位置する霊鷲山にて、十六羅漢を始め諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。
 
金毘羅大権を調べると、象頭山松尾寺普門院の縁起では、修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされ、不動明王を本地仏とした。
霊鷲山が讃岐の鷲ノ山と繋がる気がする。鷲ノ山産の石棺は、高松市の石清尾山の(国指定史跡)石船古墳をはじめとして中讃地域など県内8例、大阪府柏原市で2例確認され、鷲ノ山周辺が古墳時代前半期における石材産地および石材加工の一つの中心として広く知られていた。
妄想するに、役行者が神験に遭った霊鷲山とは、暗に讃岐の鷲ノ山ではないか?
 
なんやかんやで、瑜伽神社=法相宗=稲飯命。金=赤=水銀朱。日本最古の水銀朱採掘跡は阿波。役行者が神験に遭った霊鷲山とは、讃岐の鷲ノ山と妄想。金毘羅(稲飯命)と瑜伽神社(法相宗)とセットでお参り。
『播磨国風土記』飯盛山の条「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」往古、飯野山の山頂に鎮座し、その後、中腹、山麓へと遷座。
また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、京へ帰る時に、自ら木像の作って奉納したことから。
18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。
飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。
 

雙林寺、天台宗の最澄が唐から帰朝後、我が国初の護摩供。最澄は天台密教経疏500巻及び護摩の器具を桓武天皇へ献上。     
805年に桓武天皇の勅願で左大史・尾張連定鑑(むらじさだみ)により、最澄を開山として伽藍が創建、
日本初の護摩祈祷道場建立
この土地が傅大士(北斉)建ての東陽郡 · 烏傷縣の沙羅双樹林寺(現・浙江省義烏市雲橫山双林寺)に似ていることから、正式名称を
霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院という。
その後、寺には平安時代後期の歌人
西行などが隠棲。

1584年には羽柴秀吉が当寺で花見の宴を催し、花樹保護の制札を立てさせ、1585年には秀吉によって本堂が再建
江戸時代1605年には高台寺の造営に寺地を献上し、次いで1653年にも
真宗大谷派の大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上、都度規模が縮小。
明治時代初年に再び天台宗の寺院に復帰したが、1886年に
円山公園の造成のために上地されてしまい、現在では本堂と飛地境内にある西行庵(西行堂)を残すのみ。

法然は、天孫降臨の天津久米を思わせる「久米」の地で生れ、稲飯命の後裔であり、稲飯命が祭られる飯盛山である飯野山へつながる。
真宗大谷派の大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上。宗祖親鸞聖人の浄土真宗東本願寺真宗大谷派。親鸞は法然上人を師とする。法然とつながる。現在では本堂と飛地境内にある西行庵(西行堂)を残す。西行は、芭蕉が崇拝。
 
おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌(1689年)に、門人の河合曾良を伴って江戸から奥州、北陸道を巡った紀行文。西行(さいぎょう)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。誕生は1118年。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。房前といえば、コトデンの駅名として残る。高松市牟礼の房前。志度の隣り。志度寺縁起の海女の玉盗り伝説の志度。
 
おくの細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・」
 
補陀落山円通寺(本尊は聖観音菩薩)の国仙和尚を"生涯の師"と定めた良寛
「冬籠り 春さり来れば 飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を 立ち出でて 里にい行けば たまほこの 道のちまたに 子どもらが 今を春べと 手毬つく ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ 吾(あ)がつけば 汝はうたひ つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ 永き春日を 暮らしつるかも」
妄想訳では、
「裏になり 天下春命がくれば 飯野命(法然の祖)乞い ふと 草の庵を 出て 天津久米(紀氏)の三里に行けば 素戔嗚の 旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す八面山の尾根道にイの国の子孫らが 今を天下春命の時代と (糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく 十種神宝の霊力で死者を蘇らせる 河南省の嵩県から淮水に流れる「汝水(ジョスイ)川」がつけば、神のお告げを汚れから守る歌をうたい 汝水川が神のお告げを汚れから守る お互いに呼応し 龍・天村雲命現れる 長く続く天孫降臨の警護三十二神の一神で武蔵の秩父国造らの祖・天下春の日に照らされて 暮らすでしょう」
 
 
白井藩(しろいはん)は、徳川家康の関東入国時に成立し、江戸時代前期まで存在した。
 
 
 
んでもって
 
妙見信仰の千葉氏の白井氏とは、
山王信仰の徳川家康と関係し、京都市東山区鷲尾町にある霊鷲山法華三昧無量寿院雙林寺(沙羅双樹林寺)
山王信仰は豊臣秀吉も。
霊鷲山=鷲ノ山=石清尾山古墳群=石積=刳貫型石棺
飯盛山=飯野山=法然=鰐
阿波忌部族の天富命の孫鷲住王は、阿波国の脚咋別の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。
飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」。
おくのほそ道の芭蕉が崇拝する西行。西行とは、日本の武士で僧侶、歌人。俗名は佐藤 義清。父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。
房前は、コトデンの駅名として残る高松市牟礼の房前。志度の隣り。志度寺縁起の海女の玉盗り伝説の志度。
奥の細道は「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・」
長尾寺や志度寺と同じ補陀落山である円通寺の和尚を"生涯の師"と定めた良寛、
「裏になり 天下春命がくれば 飯野命(法然の祖)乞い ふと 草の庵を 出て 天津久米(紀氏)の三里に行けば 素戔嗚の 旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す八面山の尾根道にイの国の子孫らが 今を天下春命の時代と (糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく 十種神宝の霊力で死者を蘇らせる 河南省の嵩県から淮水に流れる「汝水(ジョスイ)川」がつけば、神のお告げを汚れから守る歌をうたい 汝水川が神のお告げを汚れから守る お互いに呼応し 龍・天村雲命現れる 長く続く天孫降臨の警護三十二神の一神で武蔵の秩父国造らの祖・天下春の日に照らされて 暮らすでしょう」
 
 
につながってゆく
 
 
すべてイ探の雑用係日月ホトトギス君の妄想です。
 
 
 
 
ぜえ、ぜえ、ぜえ
息切れっす。
 
 
これは妄想のし過ぎなとき出る症状のひとつです。
療養が必要です。
白い粉に手を出してはいけませぬ
ぶっとい注射打って
お薬5種類出しときましょう(あなたの支払いですから)
 
 
 
 
ではこのへんで
泣かなかったら またお会いしましょう
 
絶望