イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
 
 
妄想の奈良街道の探検を豊富な画像で再びスペシャルもの その⑦です。
 
讃岐の海から阿波吉野川までを難波皇后目線で移動しました。
 
あくまで讃岐難破から阿波奈良への妄想の奈良街道のお話しです。照れ
 
 
 
まず、仁徳(難波)天皇が皇后磐之媛に内緒で吉備の女子・黒日賣に会いに讃岐の難破まで来て、歌を詠み。
媛は傷心、奈良街道を阿波へ向けて進み、吉野川を渡り奈良(那羅)が見えるところまで来たとあります。
 

 

前回、那羅は阿弥陀様に繋がり、熊野であると妄想しました。

 

忌部神社の近くには摂社玖奴師神社、山を登り、奥にある忌部本宮大社に行き磐座であることが分かりました。

 

さらに忌部山古墳群を目指し山を登ります。

 

 

 

 

 ありました。お願い
 
 
藪漕ぎはなんだったんだと思うほどあっさりと。

 

 

地面の盛り上がりと穴が古墳だと分かります。

 

 

 

 

海抜240mの高地の古墳群

 

 

高地の古墳といえば、

佐伯真魚(空海)の育った善通寺を見下ろす位置、金毘羅宮鎮座の象頭山と同体の山大麻山北西麓標高405m、テラス状平坦部の非常に高地にある古墳として知られている3世紀後半建造の日本国内最古の形状の前方後円墳、野田院古墳を思わせます。

後円部が石積グラサン

 

 

 

 

 

そして、

石清尾古墳群

標高200mあまりの高地

 

猫塚

 

 

 

 

 

内部

 

入るのは怖い 暗い

手だけ入れて撮りました。

天井部の石を持ちこすように綺麗に積んでいます。

側面は内に傾けて上からの力を分散するように積んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

盗掘で盛り上がりがない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾根からやや下がりながら古墳が点在

 

当時から現在に続く人の営みがあるんだと実感。

 

 

古墳群から更に少し登ると開けました。

 

畑かな

 

吉野川とその向こうには阿讃山脈

高い山はなに山かな?

多分、手前の阿波の山の真裏には女人高野四国88霊場結願の大窪寺がある女体山がある方向。

 

 

 

 

古墳群を満喫して、登口まで下山。

 

 

御堂があるのが気になります。

歓喜天の鳥居のだと思います。

 

ただ、薄暗く、やや怖い感じ真顔

 

 

 石になにか刻まれています。

 

 

三つに裂けたような岩に刻まれています。

 

 

 

 

御不動さんだな

 

 

調べると

 

 

 

聖天寺  

 

山瀬東麓203番地

宗派 金剛山修験本宗派

本尊 聖観世音菩薩 

信徒数 約300人
聖天寺は、寛政以降(1789~1800)から、文化前後(1804~1817)にかけては、小さな庵で寺としての格もなく、人々に祈祷をするところで、興憧庵といわれた。
1854に、時の住僧の快道という人が、古義真言宗京都嵯峨
大覚寺に便りを送り、開敷山現証律院法護寺と名のることを許され、以来その末寺となった。


明治初年に、大聖歓喜天が新たに祭られた。戦後一時住職がいなかったが、後に山下法剣住職が住まうようになって金剛山修験本宗派に転派した。昭和27年7月10日源正山聖天寺と名を改め現在に至っている。
三枚に剥がれた大岩に大日如来、弘法大師、不動明王を刻んだ磨崖仏がある。


大覚寺







磐ノ媛の歌に出る山瀬


九月条にみえる皇后磐之媛の動向は、
難波の済で恨み、御綱葉を海に投げ入れる。
大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。
帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む(紀53、磐之媛の歌)
(皇后、還へりたまはずして、猶(なほ)し行でます。山背河に至りまして、歌して曰はく、)
「つぎねふ 山背河を 河沂(のぼ)り 我が沂れば 河隈に 立ち栄ゆる 百(もも)足らず 八十葉(やそば)の木は 大君ろかも」

イ探妄想解釈
皇后は難破での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れた。🍁👺
難破へは帰らず、山背川にまで行き歌った。
「次に山背川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている木は、仁徳天皇かも」
悲しい

那羅山を越え、葛城を望み歌を詠む(紀54、磐之媛の歌)
「つぎねふ 山背河を 宮沂り 我が沂れば 青丹(あおに)よし 那羅(なら)を過ぎ 小盾(こだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮(かつらぎたかみや) 我家(わぎへ)のあたり 」

山背に戻り、宮室を筒城岡の南に造る


イ探妄想解釈
皇后は奈良街道で奈良山を越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「次に山背川を、宮廷へ向かって遡上すれば、青土(鉄鋼石に通じる緑泥片岩が砕けた土や砂)に生える葦が見え、奈良を過ぎて、更に間に合わせの大和を過ぎた辺りで、見たい国は自分の家のある葛城高宮」

結局は山背川と歌われている山の背になっている地区にとどまり筒城の丘に住む家を建てている。

 

大覚寺

 

 

大覚寺が出てきました。グラサン

大覚寺統は、

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。

名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる南朝(大覚寺統)の祖、第90代山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。

 

真言宗大覚寺派は、

日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。

本山は大覚寺。

宗祖は、秘鍵大師・空海(弘法大師)

 

 

秘密の鍵は空海が握り大覚寺がその本山

 

 

 

岩に刻まれているのは、大日如来、弘法大師、不動明王でした。ニコ

 

 

ここに聖天寺がある意味が大覚寺にあり、その秘密のカギは空海が握る

 

 

ということなのか?

 

 

 

御堂の前を通り進みます。

 

 

 

足元に石が

 

 

ポーン滝汗

 

庚申塔が!

 

 

近くには、他にも観音様らしき石仏が転がっている

ゲッソリ

 

どこから???

 

 

どうも斜面一面石仏があるところから落ちてきたようです。

 

もてそうな大きさは観音様でしたので、抱えてもとの位置にもどしました。

しかし、他は重くて無理でした。

 

猪のしわざだと思います。

 

に、しても、信仰が薄くなっていることが大きい感じです。

 

駐車したいちにも石碑?が

 

達筆!

 

 

 

 

 

うにゃうにゃと書いてます。

何をかいてますか?って?

 

 

 

 

へ?ニヤニヤ

ありがたやありがたや

 

 

 

以上!もぐもぐ

 

古代忌部と亀山天皇の子の後宇多天皇の大覚寺に繋がる人の想いの痕跡を感じて

 

 

今回はここまでです。

ではまた。もぐもぐ