イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

 

 

⑰-3の続き⑰-4 原武蔵東京です。

 

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの素粒子の振る舞いに影響するんじゃないかと一方的に思います。魂が抜ける

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 

 

 

四国88霊場結願の大窪寺

オリーブの葉をくわえて飛ぶ鳥?

仏教で?ポーン

 

 

 

摩利支天

不動明王

役行者

なぜこの三方?

 

 

代々知ってる人は知っているのか?

昔の何かを・・・

 

画像は完全にイメージ

 

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしているし、妄想の域を出ません。滝汗

 

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

(東京都)

摩利支天徳大寺

台東区上野4丁目6−2

当山(徳大寺)は江戸時初めの寛永年間に慈光院日遣上人によって創建。

正式には日蓮宗妙宣山徳大寺。

また、仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも称し、下谷広小路(現在の上野広小路)に位置したことから、下谷摩利支天とも呼ばれた。
寺宝として奉安する摩利支天像は、江戸時代中期の京都にて霊夢感得されたご尊像と伝わり、宝永五年(1708)九月に当山へ安置。

一連の経緯は、文化十二年(1815)に発行された『摩利支天略縁起』には、
「当寺奉安の摩利支天尊は、施無畏の後身、
聖徳皇太子の御手彫なり。

下総正中山法華経寺、第五十五世、成遠院日達上人、京北叡昌山本法寺貫頂として、既に正中輪番に下らんとて、東方弘通の擁護を祈られしに、或夜夢らく、尊天来臨ましまし、東の方に立たせ給うと。実に其年正月二日の夜なり。覚めて後、見に一?の霊像を感得し見るに、夢に拝する如く異なることなかりき。躬暫くも離たず。弘通功成りて、帰京の日、霊夢の事を思い、此尊天、東土に縁のましますとて、即ち当寺に什襲奉安し、永く自他の利益を仰ぎ願う。」

本堂正面の扁額「威光殿」は、威光の化身たる大摩利支尊天の拝殿の意として、吉田茂・元総理大臣の揮毫により寄贈。

摩利支天(マリシは「威光・陽炎」の意)とは、仏教を守護する天部の神で、参詣祈願の人々に「気力・体力・財力」を与え、「厄を除き、福を招き、運を開く」、諸天善神中もっとも霊験顕著な守護神であると伝えられております。そのお姿が猪の背に立つことから、古くより十二支の亥の日がご縁日とされてきました。

人が摩利支天の名を知り念ずれば、一切の災厄から逃れ勝利の功徳を得るとして、我が国においては中世以降、武士階級の守護神として摩利支天への信仰が広まりました。
楠木正成や足利尊氏、毛利元就や徳川家康などの武将たちは、摩利支天の尊像や旗印と共に合戦に出陣したと云われ、『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助も髷の中に摩利支天の小像を入れて討ち入りに臨み、本懐成就を遂げたと伝えられております。まさに、諸難を退け勝利に導く、武門の護り厚き守護神として、町人文化が栄えた江戸時代中期以降には、民衆の間にも摩利支天信仰が盛んとなりました。

 

奉額
本堂正面に掲げられる扁額「威光殿」は吉田茂・元総理大臣の筆をふるって、本堂復興の記念として当山へ寄贈。

 

摩利支天といえば、五剣山麓の八栗寺

真顔

 

屋島寺には、947年~57年明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置。やや東にはに乗る摩利支天像のある八栗寺。八栗寺が建つのは、五剣山

 

平家が構えた五剣山が見える屋島の麓、安徳天皇行の宮

 

西浅草八幡神社

台東区西浅草2丁目14

特に詳細なし

 

三峰神社

台東区浅草2丁目3

特に詳細なし

 

待乳山 本龍院(待乳山聖天)

台東区浅草7丁目4−1

浅草寺の子院のひとつ

本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている

隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金山)の由来と伝。

601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山で、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。

名前の由来として待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここは真の土であったことを由来とする説がある。
台東区指定文化財 銅造宝篋印塔

 

 

浅草寺(せんそうじ)とは、

東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音で知られ、元は天台宗で、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山。坂東三十三観音順礼がある。

創建は平安時代。『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、創建は、飛鳥時代の推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像が浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像。

この像を拝した兄弟の主人・師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養したのが浅草寺の始まり。

その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。

観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、非公開秘仏のためその実体は不明。

平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」の観音像を造った。浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山としている。

天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建。
一説に、本尊の聖観音像は、浅草寺創建より100年程前に現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いの岩井堂に安置されていた観音像が大水で流れ成木川に流され、入間川、荒川を経て隅田川に流れ、下流にて尊像発見されたものとの伝承があり、報を聞いた郷の人々が返還を求めたが、かなわなかった。

 

 

 

最初の画像は、左「歓喜天」、右「八栗寺」で神仏習合、裏山「五剣山

 

歓喜天 阿波忌部 大覚寺

 

真言宗智山派 清山 蓮花寺

墨田区東向島3丁目23−17

創建の経緯は諸説あるが、1246年北条時頼の開基

時頼の兄の北条経時の菩提を弔うために、鎌倉佐介谷(現・神奈川県鎌倉市佐助)に創建。

その後、経時の子・頼助が1280年に現在地に移転。

夢のお告げに従い海中から引き揚げた厄除弘法大師を本尊の「川崎大師」、弘法大師が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、観音菩薩の霊託を聞き、十一面観音を彫り天長3年(826年)に寺院を建立したことに始まる「西新井大師」とともに「寺島大師」と呼ばれ、「江戸三大師」で、東向島の旧町名「寺島」の由来。

 

 

北条氏(ほうじょうし、旧字体: 北條氏)とは、

国出身の豪族。鎌倉幕府の執権職を世襲した一族。戦国大名北条氏(後北条氏、小田原北条氏)と異なり、鎌倉北条氏もしくは代々鎌倉幕府執権北条氏のこと

通字は時(とき)。ただし北条から移住した後も実際に北条の名字で呼称されたことが確認できる者は時政、時頼などごく少数派。

 

 

香川県坂出市HPより

北条池は、綾歌郡綾川町に位置し、坂出市中央部の平野約 500ha をかんがいする県下で12番目に大きなため池です。呼称の起源は、江戸時代後期まで旧阿野郡(上古は綾郡)が坂出市府中町からの南の南条郡と同市加茂町から北の北条郡に分かれていた経緯から、古代条里制のなごり”綾北条”に因んで、北条池と呼ばれています。
古代条里の開拓で早くから開けた讃岐有数の穀倉地帯”綾北条”のかんがい用水は、古来より”天井川が”と呼ばれた綾川水系に依存してきました。このため北条池が出来るまでは、綾川の自然流水や伏流水に頼るしかなく、農家の人々は相次ぐ干ばつや度重なる洪水・氾濫などの災害に困っていました。延宝年間(1673~1681年)に、このような農家の窮状を見かねた北条郡林田村の財豪、宮武清八景秀は、新池創築を藩に願い出て、自らも私財を投じて大事業を成し遂げました。時代的には、藩主の命令を受けた
矢延平六が築造したと推考されています。

 

矢延平六とは、

松平頼重は、赴任早々400箇所を越えるため池の築造を命じ、これに矢延平六が深く関わった。平六は、一説では、初代藩主、頼重に従って、(茨城県の大部分の旧きゅう国名)常陸の国から来訪した。

「松平家登士禄」に矢延平六郎という人物が記録されているほか、矢野部平六、兵六とも伝えられてて不明な部分が多い。

しかし、文書や伝承などを総合すれば、高松藩に仕えていた下級武士であったことは確か。平六は「新池」築造の恩人として池の宮に祭られ「ひょうげ祭」の主人公。県中部の丸亀市飯山町でも貯水量が100万トンを超える「仁池」築造の恩人として、池のほとりに建立された飛渡神社祭神。平六は武士といいながら、現場の第一線で農民達と汗を流すタイプの技術者で、広く慕われていた。

 

東とのつながり

極楽寺の伝承では729年、行基によって寒川郡石田郷(さぬき市寒川町石田東)に法相宗の寺院として開基、809年に火災焼失。821年に嵯峨天皇の勅命の元、空海によって寒川郡鴨部郷東山、現在のさぬき市鴨部(かべ)に真言宗の灌頂道場として再興。824年に淳和天皇勅願所となり紫雲山の山号と宝蔵院の院号を賜る。903年に醍醐天皇より法務門主の責務を賜り東讃4郡の談儀所。

 

極楽寺鎮守・志太張神社祭神・天下春命は、八意思兼神の御子神で、武蔵秩父国造等の祖。四国、讃岐にゆかりの多い神ではない。天下春命の父である八意思兼神は、天忍穂耳命の妻・万幡豊秋津師比売命の兄。天照を岩戸の外に出す知恵を出し、葦原中国に派遣する神の選定、邇邇芸命に随伴し、伊須受能宮(後の伊勢の内宮)を拝祭している。

 

にある歓喜天聖天寺。古代忌部亀山天皇の子の後宇多天皇の大覚寺に繋がる人の想いの痕跡

 

和歌山県 皆神社、

とは、流れが速く水深が浅い場所、潮流、海峡のような場所、つまり、みんな同じ「瀬」だと
似た者、近い同族を集めたということか?

 

丸亀市飯山町 飯盛山

 

 

待乳山 (待乳山聖天)は、都内最古の寺で、金龍山浅草寺の子院で、本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音。

待乳山聖天とも称され、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。

歓喜天といえば阿波忌部と大覚寺とのつながりを妄想。秘密の鍵をにぎる大覚寺派宗祖秘鍵大師空海。

毘沙門天は多聞天で金毘羅で、藤原北家がビビッて気絶の宮毘羅大将のこと。グラサン

小高い丘(待乳山)には595年(推古天皇3年)9月に龍が出現して守護した、浅草寺の山号(金龍山)の由来。待乳は、本当の土である真土のこと。

浅草寺は、都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音で知られ、元は天台宗で、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山。
 

真言宗智山派 清瀧山 蓮花寺は、伊豆国出身の豪族で北条氏開基が気になる。

伊豆の伊=イの国の伊グラサン カモ

そして、「江戸三大大師」で空海さんの痕跡。

 

龍、毘沙門天(金毘羅)、弘法大師、阿波忌部につながりそうな歓喜天、讃岐の北条池は、水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)の同母兄・松平頼重が東から来て矢延平六に命じ作る。北条氏の伊豆、伊の字がイの国の伊かもと妄想。

もぐもぐ

 

本日の原武蔵東京はここまでです。

あっさり書くことを心がけます

 

まだつづきまする

グラサン

 

あくまで妄想です。

 

ではまた