先に立ったさまをうつしたとものをいうとありました。 |
『古事記』では天孫降臨で登場。
飯野山(421m)は丸亀・坂出市・飯野町の境界にあり、 |
その南西麓に旧県社 式内社讃岐國鵜足郡「飯神社」がある。
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『播磨国風土記』飯盛山の条に、
「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、
名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。
故、飯盛山と名づく。」ともあり、往古、飯野山の山頂に鎮座し、
その後、中腹、山麓へと遷座したということだそうです。
また、境内の飯天神は、菅原道真が国司として土地に在任中から崇敬し、
京へ帰る時に、自ら木像の作って奉納したことからとのことです。
倭迹迹日百襲姫命
羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城襲津彦、若子宿禰 |
久米池近くの
紀夏井さんを思って菅原道真さんを祭る久本神社
akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記
に、拝殿内、境内に書いてある内容が書かれていましたので、使わせていただきました。
久本神社は、久米池の北東、宝池の南に鎮座する。鳥居には「天満宮」、境内の由緒碑は「久本神社」である。
由緒は、(香川県神社誌)川添村村社 石清水神社境外末社、
久本天神、久本天満宮と稱せられ應和年中の創立にして、當地に讃岐守紀夏井の孫久本なる人あり、菅公の殊遇を蒙りしを以て、應和年中その子久寛祠を立てて奉祀すと云ふ。安永7年當社再建の棟札に「傳云當社天満宮者昔正暦年中此處在久本氏某勧請所也 叉云仁和年中於當国一郷建一社而祭之然某來久」と記せり。世々久本氏の崇敬する所にして、貞治年中再建あり。安永七年及び文化十四年の棟札(久本儀太郎蔵)ありて皆久本氏の再建する所なり。久本氏の裔分かれて高松市及び円座村にある者、昭和五年當所氏子と協力して本殿、幣殿を建築せり。(三代物語)
記念碑には、「当久本神社は、応和年中紀夏井の子孫久実が菅公の恩遇に感じ此の地に菅廟を建立以来千有余年の歴史を以ち天神さんとしてお伊勢さんと共に境内に松の大木が生茂り神社の森厳さを長年以ち続けて来たが最近松食虫に食枯され神社の荘厳さを失い当氏子相集り協議の上菅公の愛された梅を植樹して境内を梅園とし、叉お伊勢さんには桜を植え明るい憩いの庭園を立案し昭和五十五年秋お伊勢さんより着工。昭和六十年春梅の木を氏子持ち寄りて植樹し梅苑とせり。昭和六十年春吉日」とある。
香川県神社誌でこの地区の神社を探すと、由緒の内容や場所から推察するに山端神社だと思う。
山端神社由緒(香川県神社誌)
川添村村社 石清水神社境外末社。三代物語に「天照皇太神宮在新田」とあり。一に伊勢神社と稱へらる。
神社は、石清水八幡神社境外末社であり久米池の北東に位置しており、讃岐国司だった紀夏井さんの子孫の久本さんが菅原道真さんをお祭りした。
神社再建も久本さんです。梅を植樹していることからもとは山端神社と推察されます。
気になったのが、地図では、この神社がある山の麓にも久本神社があり、山の上の境内には梅を植樹していることから以前の山端神社、現在では久本神社。奥宮的位置づけとしている雰囲気です。
麓の神社は桜を植樹していることから天照皇太神宮であり、伊勢神社ともいわれたお宮のようです。
現在、両方とも久本神社なのでセットで久本神社だと思います。
天照皇太神宮から久本神社って、思い切った感があります。つまり、(失礼ですが)ヒミコ様から菅原道真さんに格下げ?
もしかしたら、善政の紀夏井さんの祖が孝元天皇だとわかっていたからかもしれないです。
妄想全開ですが
菅原道真さんは応天門の変で連座して罪を負わされ讃岐の国司を下ろされた紀夏井さんのだいぶん(約30年)後に讃岐国司になった方で、すごい善政を行った紀夏井さんと比較されてなんぎしたとのこと。
でも同様に善政をした菅原道真さんを久本さんは讃えたかったんだと思います。
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