イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。グラサン
 
先の探検では、陸奥、福島県のクニを探検しました。
奥の細道の冒頭に三里うんぬんは、粂(天津久米、久米氏)のこと、大和、月読命の勢力圏、素戔嗚尊の影響のことを言っているとの妄想でした。
福島県には、飯盛山があり、讃岐の飯野山のこと。
よって、 我が精鋭の探検隊員を送り込んで飯盛山を探検しています。
よだれ大あくびぼけーチーンショボーンzzzゲホゲホねーしょんぼりゲッソリもぐもぐ
 


素戔嗚尊が登った皇踏山


屋島


眉のごと雲井に見ゆる阿波の山



 

前回

法然は「藤井元彦」として還俗させられ、土佐国、親鸞は越後国に配流の宣旨。
法性寺を出発し、経の島・室の泊を経て、土佐国に流される途中、九条兼実の庇護により変更され配所となった讃岐国に入った。
勅免の宣旨が下り、四国を離れて摂津国勝尾寺に滞在することとなった。

讃岐→摂津
 
法然配流で讃岐経由で行き着く摂津
義経の母の出身の摂津江口、孤児の静御前の母・長町磯(磯禅師)孤児が補陀落山志度寺を発って向かった摂津江口が偶然にも重なる。
東国と讃岐は義経、静御前でぼやっとつながる激しい妄想。

 

法然とは、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)生まれ。

押領使・漆間時国と、母(秦氏君)清刀自との子として生まれていた。
久米に生まれており秦氏の母グラサン

 

 

では、父、漆間時国(うるま ときくに)とは何者?グラサン

 

 

平安時代後期の人物。官職は左衛門尉。

漆間氏は美作国の豪族で、稲飯命の後裔とされる。

 

法然は、天孫降臨の護衛・天津久米ととれる名前の久米の地で生れ、稲飯命の後裔。

 

 

『播磨国風土記』飯盛山の条「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」ともあり、往古には、飯野山の山頂に鎮座。稲飯命といえば、讃岐国丸亀の飯盛山である飯野山。稲飯命は、讃岐の飯野山、つまり飯盛山に祭られるウガヤフキアエズと豊玉毘賣の子。兄弟には五瀬命、三毛入野命。讃岐には、さぬき市志度、鴨庄、鴨部地区にまたがる山、寒川方面からもよく見える五瀬山、東かがわ市に入野山地区があります。稲飯命については、「彦稲飯命」、「稲氷命」とも。神武天皇(初代天皇)の兄で、末裔が新羅王統の祖ともされるそう。名前からして稲霊、穀神。「御母国として海原に入り坐しき」とあるから、紀伊沖で海に没したとされているようです。

 

 

 

法然は稲飯命の後裔で、飯盛山につながり、更に久米出身で、久米に繋がる。

 

なんということでしょう、

法然とは、まさに、飯盛山の久米、タイトルの白(霊的、五行思想の金、方位は西、白虎)飯(稲飯命)は久しい米(久米)グラサン

つまり、霊的・金・西・白虎の稲飯命は久米グラサン

 

まったくの後付けですが、不思議と内容説明のようなことに・・・。

 

 

つづきますが、父、漆間時国は、1098年頃、漆間国弘、或いは親国の子として誕生。
1133年4月7日に息子が生まれ、勢至菩薩のように賢い知恵を持った子供という意味で名を勢至丸(後の法然)と名づけた。

学問と武芸、ことに弓を射ることにおいてに秀でていた

1141年に明石源内武者定明が夜討ちを仕掛けてきて時国は重傷を負った。

勢至丸が定明に矢を放ち、定明の顔面に命中し、定明は逃げ帰った。

時国は瀕死の床の中で、仇を討たないようにと勢至丸を諭し(この際、法然に出家するようにと言った説もある)

同年1141年4月27日頃に亡くなり、戒名「菩提院殿源誉時国西行大居士」。

醍醐寺本『法然上人伝記』別伝記の説では、法然15歳1147年に父と師の観覚に比叡山に登りたいと伝えた際、時国は「もし登山後に自分が敵に討たれたら後世を弔うように」と告げて送り出した。その後、比叡山で出家した法然が修行中に時国が殺害された。この説では、時国の殺害は1147年よりも後になる。

蓮生(熊谷直実)は各地を行脚する中、1193年に美作国を訪れ、法然の父漆間時国の旧宅の法然生誕の地に誕生寺を建立。

法然の父は地元で尊敬される人だったと言われている。

 

三石神社

ウガヤフキアエズ

 

鼓の存在を逆にたどれば、鼓渕→静御前源義経→伊勢の三郎→平家の宝→平清盛→後白河法皇→重源僧上→唐。唐から鼓を持ち帰った俊乗房重源上人(1121年-1206年)は、紀氏ここでも鰐積が匂います。動機は定かではないが、真言宗の醍醐寺に入り、出家している。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。 61歳の高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興

 

醍醐寺といえばイ探で醍醐寺といえば、空海が感じた耶蘇の地

 

 

法然は、稲飯命の末裔

 

稲飯命の父は、鵜草葺不合命、母は玉依姫。

法然は、鵜草葺不合命、稲飯命の末裔

 

 

屋島には鵜草葺不合命誕生の伝説と神社、鵜ノ羽大明神。

その神社が見つめるのは、桃太郎の鬼退治伝説の鬼ヶ島「女木島」。

女木島は玉依姫を表し、男木島は豊玉姫を表す。

 

豊玉姫の豊は、男木島の隣の小豆郡の豊島を表すとも。小豆島にはスサノオさんが牛飼いを伝えたとの伝承。寒霞渓=神掛。皇踏山=スサノオが登った。

 

屋島といえば源平合戦、浄瑠璃「義経千本桜」原作で義経さんは、平家が壇ノ浦の合戦において滅んだのは周知のことであるが、平家が滅んだのは屋島の合戦であるとし、このときに安徳天皇や二位の尼も入水したのだと院の御所で物語る。

 

興福寺が、浄土に往生するため念仏以外の行をまじえず〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱える専修念仏が一門に偏執し他宗を軽んずる点を非難し、法然らの処罰を朝廷に訴えたことが発端「承元の法難」。

配流の法然の移動は、土佐国→讃岐国→摂津国

法然と摂津は、西国三十三所観音巡礼と配流の法然がつながった。

 

讃岐と法然は、天孫降臨の護衛・天津久米を思わせる「久米」の地で生れ、稲飯命の後裔であり、稲飯命が祭られる飯盛山である飯野山へつながった。滝汗
 

会津の正宗寺の当時の住職であった郁堂の考案・建立の飯盛山の栄螺堂。

「正宗寺」つながりで、柿本人麻呂さんの言葉「玉藻よし讃岐の国は 国柄か・・・神の御面と継ぎ来る・・・」を信じて讃岐内を安易に探検してみれば、円光大師法然御遺跡四十八所の番外札所「慧日山正宗寺」をみつけ、法然、久米、稲飯命、飯野山(飯盛山)がつながった!

 

 

柿本人麻呂さん、讃岐と会津「正宗寺」の栄螺堂がつながったよ!

 

ありがとうごぜーますだ!笑い泣き

 

不思議な映像で素戔嗚尊さん夫婦を祭る神社探検から始まったこのブログ、素戔嗚尊さんにもありがとう五瀬ーますだ!

 

 

 

 

 

と、円は竹縄
今日のところはこのへんで。
 
 
書いて残しておくもんだね万葉集、ワニ積・柿本さん
 
ではまた。魂が抜ける