イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

今日も妄想で、かつてあったとされるイの国を探検だ!

 

 

難破津の大神を護るニホンオオカミ

(ここ掘れ わん!)

大神とは、難破津のうのべ崎にある3世紀のうのべ山古墳の埋葬者を表すのか?

難破津の崎にある3世紀の「鵜のべ山古墳」
そこに眠るのは!「鵜草葺不合命」と妄想。

 

 

 

 

 

瀬戸内海 豊玉姫伝承の男木島方面(北西側)から、さぬき市津田(倭名類聚抄:「難破」)方面を望む。

眉のような山が見える。(東側から見ても眉の形、かつて弥生時代の高地性集落があった)

 

 

 

 

 

松尾芭蕉さんの詠んだ句を妄想で勝手に訳します。

気分が悪くなる方がいらっしゃる可能性があります。

石つぶてなどは投げないでください。

投げるなら、金目のものにしてください。

異国の珍しいお菓子詰め合わせとかでも、まーええです。

どこぞの、見たことない神の名を言いながら、悪魔の所業をしてる輩を最前線に置いて銃撃、爆撃の音と鈴(風鐸)の音とどっちがええか言っていただくのでもええです。

 

 

悪しからずご了承ください。滝汗

          

            

 

尾花沢 

「眉掃きを俤にして紅粉の花」(by芭蕉)

(はゆはきを おもかげにして べにのはな)

 

 

 一般的な意味

「尾花沢の名産紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させる」

 

 

 

尾花沢 

尾花沢市(おばなざわし)は、山形県の北東部、村山地方に位置する市。

延沢城(のべさわじょう)は、山形県尾花沢市にあった日本の城。別名霧山城、野辺沢城。国の史跡に指定。

1547年(天文16年) - 初代城主延沢薩摩守満重によって築城されたと伝えられている。延沢氏は後に天童八楯の一員。
1622年(元和8年) - 仕えていた最上家取り潰しにより幕府に没収。

 

 

最上氏(もがみし)

武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の足利氏の支流で三管領の一つ斯波氏の分家にあたる。室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、のち出羽国の戦国大名として成長した。最上義光は山形藩57万石を領する大大名となったが、その死後の1622年に改易され、子孫はわずか5千石の旗本(交代寄合)に没落。維新後士族。斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれることがある。

最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家当主となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。南北朝時代の延文期(1356年 - 1360年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とする。そして、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称したことを機に所領の最上郡に因んで最上氏を称することとなった。

 

 

眉掃き(まゆはき)

女性が眉をつくることや、眉を払うために使用する小さな刷毛のこと。

具体的には、白粉(おしろい)をつけた後に眉を払うために用いられる小さな刷毛を指す。

 

引眉
平安貴族の「引眉」とは、眉毛を剃ったり抜いたりする習慣で、眉毛を剃る、または抜いたあと、細い弓形の眉を墨で描くことを指す。
引眉は、眉毛を剃る、または抜いたあと、除去した眉よりも高い位置に「殿上眉」という長円形の眉を墨で描くことを意味する。引眉は、奈良時代から江戸時代にかけて広く行われ、平安時代中期頃から男性貴族や平家の武将の元服の時にも行われるようになった。室町時代以降は殿上眉の位置はさらに高くなり、能面にも写されるようになり、江戸時代では、女性の元服の際にお歯黒とセットで行われる習慣となった。
引眉は、眉毛の有無を見れば、その人が未婚か既婚か、どのくらいの年齢かがある程度分かる仕組みになっていた。
 

平安貴族の「引眉」

平安時代の美意識の象徴的な表現であり、感情の抑制と「みやび」の精神を体現していた。引眉は、感情を露わにすることが「はしたない」とされ、喜怒哀楽を物語る眉はコントロールすべき対象だった。眉を剃り落とすことで、顔は能面のように無表情なキャンバスとなり、感情の機微は扇で口元を隠す優雅な仕草や和歌に込められた言葉の裏のニュアンスで表現された。

 

 

眉と言えば、眉山

徳島県に眉山はありますが、昔は「富田山」などらしい。

 

(「「眉山」の地名の由来」より引用)

山名の由来は「万葉集」の船王の「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟とまり知らずも」から命名されたとされているが、詳細は不明である。「阿波志」には「富田山、西富田にあり。医師七条寿庵始めて眉山と呼ぶ。船王の歌を知らざるなり。いわゆる〈眉のごと雲間に見ゆる〉とは遠山を汎称し一山をさすにあらざるなり」と述べている。他説には、京の歌人有賀長伯が蜂須賀氏の歌会で「立春のみどりをこめて佐保姫の粧ひふかく霧む山まゆ」と詠んだのを起源ともする。いずれにしても山全体を眉山と称するようになったのは、幕末のことで、それ以前は麓の地名から佐古山・富田山・八万山・名東山・中津山・福万山・柿谷山・長谷山などとさまざまに、また部分的に呼んでいた。他に、寺社などの関係から大滝山・勢見山・万年山とも呼ばれる場所もある。

 

 

四国最大の前方後円墳のあるのは、香川県さぬき市大川町富田中グラサン

旧、寒川郡が倭名類聚抄の「難破」内だと思うので、まさに富田山なんじゃね?

 

忌部山から那羅街道を難破へ② | イの国探検隊

富田茶臼山古墳

この近くからは、徳島県の奈良への昔の「那羅街道」が始まる

 

(あめのとみのみこと)

太玉命の孫。天櫛耳命の子。弥麻爾支命の父。神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。神武天皇東征においては、手置帆負命・彦狭知命の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。
そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。

 

 

「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも  」(船王)

万葉集の歌だが、難波の宮から海の沖を見ているのか、淡路か阿波の方向に進んでいく船を見て、もしくはイメージして詠んだ歌と思われている。
沖合を行く船、海上には眉のように見える山に雲がかかりつつも見えている。雲行きが怪しいので急いで進んでいる。今夜の泊りは分からないが、というような意味かな。
大阪府の難波の宮から西方の海上に阿波の山は見えない。

「阿波の山」だが万葉集と阿波の関係は不明とされている。

 

平安時代には「難破」であるさぬき市津田方面を豊玉姫の名からの男木島方面から見た景色。きちんと眉のごと見えています。

その山の上には弥生時代の高地性集落跡が確認されています。

津田湾=難破津=大津

 

 

津田の松原琴林公園からうのべ崎を望むと

真ん中の島の様なのが鵜のべ崎(鼻)

3世紀の鵜のべ山古墳など古墳がある。

 

九月条にみえる皇后磐之媛の動向は、
難波の済で恨み、御綱葉を海に投げ入れる。

大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。
帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む(紀53、磐之媛の歌)
(皇后、還へりたまはずして、猶(なほ)し行でます。山背河に至りまして、歌して曰はく、)

「つぎねふ 山背河を 河沂(のぼ)り 我が沂れば 河隈に 立ち栄ゆる 百(もも)足らず 八十葉(やそば)の木は 大君ろかも」

イ探妄想解釈
皇后は難破での出来事で天皇を恨み、常緑亜高木のテングノウチワ(三角柏:ミツノカシワ)を海に投げ入れた。🍁👺

難破へは帰らず、山背川にまで行き歌った。
「次に山背川を遡上すれば、川の入り組んだ淵に、元気に立ち、たくさんの根を張り葉が茂っている木は、仁徳(難波)天皇かも」
悲しい

 


那羅山を越え、葛城を望み歌を詠む(紀54、磐之媛の歌)
「つぎねふ 山背河を 宮沂り 我が沂れば 青丹(あおに)よし 那羅(なら)を過ぎ 小盾(こだて) 大和(やまと)を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮(かつらぎたかみや) 我家(わぎへ)のあたり 」
山背に戻り、宮室を筒城岡の南に造る

イ探妄想解釈
皇后は奈良街道で奈良山を
越え、葛城の方を見て歌を詠んだ。
「次に(の)山を背にしたような山背川(吉野川へ注ぐ支流で、空海の犬墓と天叢雲=二上命を祭る伊笠山がある日開谷地区を流れる「日開谷川」)を、つづら折りの淵をゆけば(吉野川に合流し)、青土(鉄鋼石に通じる緑泥片岩が砕けた土や砂)に生える葦が見え、(その山背河に行くまでに?)(蜂須賀氏が都合が悪いと言って八幡神社に変更した「秘和女(ひわめ)神社」があり、政府に爆破され消えた天日鷲(アメノヒワシ)を祭った浮島八幡美宮があった波忌部開発の日本最大の中州・善入寺島の一部を含む徳島県吉野川市川島町児島)奈良を過ぎて、更に
間に合わせの大和を過ぎ(た辺りで思う)、見たい国は自分の家の辺りにある葛城高宮
結局は山背川と歌われている山の背になっている地区にとどまり筒城の丘に住む家を建てている。

「間に合わせの大和」と言うてる時点で、それ以前は「大和」ではない国と言っている。グラサン
ちなみに「葛城」

「徳島県美馬郡つるぎ町半田葛城」地区があります。

地図上では「端四国八十八ヶ所第67番」葛城堂があります。
この御堂の御本尊は、端四国霊場63番札所
多聞寺へ移されているが、御堂内には観音様がお祀りされているとのこと(「白地本名」さん貴重な口コミ謝謝)。

「多聞寺」多聞天=毘沙門天=金毘羅さん=北で守護 

中心=祖谷

金刀比羅宮は祖谷を北で守護と以前に妄想している。この葛城堂の以前の多聞天さんもきちんと祖谷を北で守護の位置にある。にやり

 

その南側約400m先には「牛王神社」がある。つまり牛頭天皇(素戔嗚尊)をお祭りしているってことだよね。

 

浮島八幡美宮については「愚濁庵のつれづれブログ」を参考にさせていただきました。

 

 

静御前関係も含め、位置関係を図に落とした図

 

鰐川=津田川=鴨部川な関係

鴨部川上流部は四国88結願の大窪寺 女人高野

 

妄想を順にたどる。

大津は、津田湾(難破津)

皇后はテングノウチワを海に捨てる悲しい

 

 

 

『古今集仮名序』

「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花」王仁(わに)

 

王仁(わに)とは、

往古王仁(わに)。古事記には和邇吉師(わにきし)。

歌自体をイ探の妄想では、

「難波津に 裂く野狐の鼻 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの(鵜のべ)鼻(崎)」王仁(わに)

 悪をなす野狐

 

 

 

 

鉄刀、大型の鉄鏃などが津田湾(難破津)周辺の遺跡から出土しています。

 

スイジガイが原形とも考えられている巴型銅器も出土しています。

本物は、東京国立博物館にあるらしい。

 

三角縁三神五獣鏡(奥3号墳)

奥3号墳(前方後円墳)出土で、卑弥呼に関係するといわれている三角縁

場所は、難破津と妄想した津田川(和邇川)河口から遡上して山を廻り込んだ位置にあります。

 

 

 

右奥の海岸沿いの緑は、棟方志功や儒学者絶賛の琴林公園の松林

 

海にテングノウチワを海に捨てた

難波津に注ぐ津田川、妄想の和邇川(山背河)河口

ここから那羅街道入口まで遡上

あの山が雨滝山(あめたきさん)

その右側から裏へ回り込む様に川が流れています。

 

河口から津田川(和邇川、山背河)に入る

流れは雨滝山系(津田湾南側)の山を回り込んでいる

 大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。

 

雨滝山を回り込んで進む途中には、男山神社

式内社 讃岐國寒川郡 神前神社
旧村社

御祭神
誉田別命、足仲彦命、息長足姫命

南流山男山八幡神社ともいい、もともと神前八幡宮と呼ばれていた。
創祀年代は、醍醐天皇の時代 907年4月28日。

参考

901年 菅原道真が右大臣から大宰権帥に左遷

左大臣藤原時平らの謀るところで、以後時平が主導権を握る。


本寺紫雲山極楽寺宝蔵院の住職・明印法印が、男山相応の地に八幡宮を勧請せよとの醍醐天皇が直接命令を下す勅により、京都石清水八幡宮を勧請。
『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 寒川郡「神前神社」に比定される式内社(小社)の論社。

一郡一八幡のはじめとして創祀されたという。
明印といえば、静御前と磯禅師をさとし、得度の長尾寺

菅原道真さんを励まし、志度浦から太宰府へ配流されるのを見送っている

 

 

 

眉掃き=女性が白粉をつけ眉を払う小さな刷毛
感情を露わにすることが「はしたない」とされ、喜怒哀楽を物語る眉はコントロールすべき対象

眉山=さぬき市津田「難破」の北山=旧、寒川郡=富田=富田山=富田茶臼山古墳=那羅街道の讃岐側の起点

 

 

 

おもかげ。ようす。
人と、その弟が似ていることからできた字。

面影」の意。

 

 

紅粉

べにこ
中国から渡来た紅。唐紅とうべに。

 

ベニバナ(紅花)

キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花(すえつむはな)ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。原産はアフリカのエジプトといわれるが、野生種は見つかっておらず、世界へ広まった。紀元前2世紀頃にはアジアの遊牧民族の匈奴へ伝わり甘粛省付近で栽培されていたが、漢の武帝がこの地を占領した。後漢の時代(2 - 3世紀頃)には中国本土でも栽培がされており、日本には5世紀頃に渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。
古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味。

「すえつむはな(末摘花)」とも呼ばれる。 

 

匈奴(きょうど)

紀元前3世紀から紀元1世紀後半まで、東部のユーラシア・ステップに住んでいた遊牧民の部族連合体。匈奴をユーラシア大陸西部のステップの後発集団と同一視する試みは一時期論議を呼んだが、西側にはスキタイ人やサルマティア人が同時存在していたため、考古遺伝学にはフン族との交流や関連が確認されている。匈奴の中核となる民族の正体については、中国の文献には称号や人名を中心とした少数の単語しか残されていないため、さまざまな仮説が唱えられてきた。匈奴の名称はフン族やフナ族の名称と同根である可能性もあるが、これには異論がある。その他、イラン語、 モンゴル語、 トルコ語、 ウラル語、エニセイ語、多民族などの言語的なつながりが提案され、いずれも異論がある。

 

 

紅花(べにばな)

平安時代において非常に人気があり、特に貴族の間で流行しました。 紅花は染料として使用され、特に濃い紅色は貴人のみが着用できる禁色とされ、貴族たちの衣服や化粧品に使われました「源氏物語」にも登場し、光源氏が身にまとった「今様色」として描かれています。 紅花はその美しさと希少性から、平安時代の文化において重要な役割を果たしました

 

今様と言えば、静御前とその母磯禅師ほんわか

孤児となった長町磯(磯禅師)が摂津へ旅立ったのが志度寺門前

志度寺塔頭の普門院は、現在も岡田住職。輪番制のままだと塔頭の筆頭

はっきりしないが、岡田姓で繋がるのは、志度の末地区に住んでいた岡田牛養は、空海を大学で教えた方。

岡田牛養といえば、長尾寺の名僧・明印は岡田牛養の子孫

長尾寺 

明印は(大伴=鰐積と妄想の)讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、902年、道真公が九州へ左遷時に志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」の詩を贈って慰めている。

うーん

イ探の妄想では、この言葉の意味は、励ます意味で送ったものだと妄想するので、

(親愛なる道真さんへ)

「たちまち都から西の方はどこまでも真実が覆い隠される。そんな状況でも、あなたをいつも月夜見大神が見守っています。」 (明印より)

なんだと妄想します。えーん

 

 

静御前の母・磯禅師は、東かがわ市丹生小磯にあった長町家の出身ですが、両親とも磯禅師が幼いころに亡くなっています。えーん

同じ長町姓では、隣の津田町の大庄屋の長町家がありました。

磯の長町家を調べるのに森本繁さんの「白拍子静御前」を参考にさせてもらうと、

磯の父は長町庄左衛門。母はツタというが定かではなく、磯を産んでまもなく他界。病弱だった父もそのあとを追うように他界しています。えーん

ここから「磯の快進撃」と「静の奇跡」な軌跡アップを追ってみます。

孤児となった磯は、長町家の菩提寺である大谷地区の真言宗大渓山延命院釈王寺に預けられる。ぐすん

その後、美声で歌がうまいことに住職が気づく。音譜音譜音譜ポーン

評判となり、

四国88霊場第八十六番札所補陀落山志度寺前で興行していた旅芸人傀儡女(くぐつめ)集団の目にとまり、預かりたいと申し出があり、集団が芸を仕込んだ。

(この時代すでに、四国霊場88の前身となる弘法大師ゆかりの地巡礼は始まっていた)

 

 

志度寺

【御詠歌】
 「いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りの声を耳に触れつつ」

数え12歳のとき、傀儡女が日本一の芸妓にすべく、淀川沿いの名代の遊里・江口の里へ移る。

美貌と美声により、お忍びで遊興に来ていた月卿雲客(げっけいうんかく)の目に留まり、令外の官・内教坊の妓女に預けられめちゃくちゃ芸達者になる。

※令外官:桓武天皇による改革以降、律令官制の不備を補うために、設置された官職

外国施設の接待宴に出演するカラオケ

(白拍子が貴族のあいだで流行っていた)

時の権力者・信西入道(藤原道憲、みちのり)の耳に入る。

  電話うちの皇室系事務所に!

 信西:鳥羽上皇の雅仁親王の乳母紀伊二位朝子を後妻に 上皇に近づき、雅仁を皇位につけた。

今様を後白河法皇に伝授した乙前(おとまえ)を幼女にした目井女(めいじょ)に弟子入り。

今様の奥義を極め、本格的な白拍子となった。4倍界王拳!

信西により宮廷と華冑界(貴族の社交界)に送り込まれる。

磯女は白拍子を宮廷サロンの芸能に高めた。

(後白河法皇の治世下、政治の実権は武家平清盛)

(平清盛以前は、信西が政権を握っていた)

信西の推挙で後白河法皇から禅師の称号を与えられた。🎖

[中右記]には

江口・神前の遊女を歌謡女と表現して「ただ謡うだけで見た目は映えないが、閨房(寝室)のテクニックにすぐれて、客を楽しませる」と書き、

傀儡である咒師・猿楽の芸能は「所作をもって人目を娯しませ、見た目に甚だ見栄えがするけれども、宴終わりてこれを閨房に導けばもどかしさを感じざるを得ない」とまで極言しているとのこと。

白拍子は傀儡女から派生したが、男色盛行の風潮に乗じて、売笑婦と芸能人という二面性を備えるに至り、平安末期の爛熟した享楽文化が生んだ日本の特産となった。

磯女は仙洞御所に伺候しているうち、妊娠して静を出産おやすみ

(磯禅師は、宮廷に多くのパトロンをもっていたが、その中に後白河法皇も枕席を予約されていたといわれる)

客の情報は漏らせないため静御前の父は特定できない。藤原氏の公卿、伏見の中将との説がある。

だれだ?

電子網にかかったのは、源師仲(みなもとの-もろなか)

公卿,歌人。権中納言源師時と待賢門院女房中宮大夫源師忠の娘の子。伏見源中納言と号。1132年叙爵,以後侍従,左少将,右中将,蔵人頭 を経て,1156年参議となり,同4年権中納言に昇る。しかし,信西の執政の背景の平治の乱(1159)に際し主謀者のひとり藤原信頼に連座して解官処分を受け,翌永暦1(1160)年下野国に流罪となる。仁安1(1166)年召還され,本位の正三位に復す。極位は従二位。『千載和歌集』入集の歌人でもある。

信西の執政の背景の平治の乱で連座で流罪になるも正三位に復している。信西と仲良しさんか?グラサン

1182年全国的な大干ばつ。☀️🐪

洛中の神泉苑で美妓百人による雨乞祈祷が行われ、最後に静が一人で白拍子を舞った

静は美声で今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。🎤音譜

「水のすぐれておぼゆるは 西天竺の白露池 尽浄虚融にすみわたる

昆明池の水の色 行末久しくすむとかや

茅の下葉おとづるは 三島入江の氷水

春立つ空の若水は 汲むとも汲むとも尽きもせじ、尽きもせじ・・・」

 

 

 

 

尾花沢 

「眉掃きを俤にして紅粉の花」(by芭蕉)

(はゆはきを おもかげにして べにのはな)

 

 

 

が伝えたいこととは!

 

 

「海神を目障りとした輩を面影にして元はエジプトから中国経由の姫(by芭蕉)

 

イの国~東北への細道は、あり〼!真顔 

 

 

 

 

 

けつねうろん妄想ジャンカー イの国探検隊日月ホトトギスがお伝えしました。

ではまたセキセイインコ青