イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。グラサン
 
先の探検では、陸奥、福島県のクニを探検しました。
奥の細道の冒頭に三里うんぬんは、粂(天津久米、久米氏)のこと、大和、月読命の勢力圏、素戔嗚尊の影響のことを言っているとの妄想でした。
福島県には、飯盛山があり、讃岐の飯野山のこと。
よって、 我が精鋭の探検隊員を送り込んで飯盛山を探検しています。
 


讃岐高松藩の墓地




鰐だねー




 
前回
なんやかんやで、
瑜伽神社=法相宗=稲飯命
金=赤=水銀朱
日本最古の水銀朱採掘跡は阿波
役行者が神験に遭った霊鷲山とは、讃岐の鷲ノ山と妄想。
金毘羅(稲飯命)と瑜伽神社(法相宗)とセットでお参り。

唯識説=阿頼耶識の転変=瑜伽行派=阿閦如来=大日如来の東方=不動金剛
=玄奘(西遊記)=法相宗(薬師寺、興福寺、京都の清水寺)=二千有余年の歴史を持つ磐座信仰
=行基菩薩が十一面観音=朝廷の祈願所=四国「金毘羅大権現」と「ゆがのごんげんさま」一生に一度は「両まいり」

興福寺(南円堂=藤原北家)=法相宗
=四国八十八霊場15番札所・薬王山金色院国分寺
 
興福寺南円堂に入っていない阿修羅=赤い亀=鰐積=金毘羅大権現=瑜伽行派・唯識派=法相宗
 
 寶貴山 大福院(ほうきさん だいふくいん )

(高松市塩江町)
別名:法師ヶ嶽不動尊天台宗山門派。元は修験道寺院
御本尊 不動明王。高松藩主松平家の祈祷所1574年、清雅法印の開基。1662年、伊予国明石寺から分立。明治10年に寺号を復し天台宗寺門派園城寺の末寺。昭和21年に比叡山延暦寺末寺。本堂には、御本尊不動明王のほか、毘沙門天、神変大菩薩(役行者)、智証大師(俗姓は和気、空海の甥もしくは姪の息子)をお祀り。毎年、大般若経の転読。大般若経は西遊記の三蔵法師玄奘がインドから持ち帰り、翻訳したと言われる経典。


 
 
 
今回、
やっと、慧日山正宗寺にもどった感じ。ポーン

 

慧日山正宗寺(しょうしゅうじ)
香川県丸亀市前塩屋町。
浄土真宗本願寺派。円光大師御遺跡四十八所の番外札所。
法然が建永の法難で流罪の途中、塩飽(しあく)本島から当地に上陸。
法然の流罪に伴った角張成阿(かくはりじょうあ)が草庵を結び、1381年、正慧房智空が念仏三昧堂を建立、1684年慧光房西念は念仏法然堂を建立し、慧日山光明庵と号して浄土宗の末寺。
しかし、1804—1818には真言宗となる。
明治八年(1875)釈恵深により本堂が再建されて慧日山正宗寺と号し本願寺派に転入。
現在、法然堂には法然・親鸞・住蓮・安楽の各像を安置。
 
 
法然とは、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)で生れ、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた。
親鸞とは、現在の法界寺日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進 日野有範の長男として誕生。母は、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女」(きっこうにょ)とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿」。母は源義朝の娘で、親鸞は源頼朝の甥にあたるとの説もある。
1180年-1185年、治承・寿永の乱起こる。幼少期、平家全盛の時で、母は、源氏の各家の男子は暗殺されることを危惧し、牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏は源経基以降、五摂家(藤原氏)に仕えたが元を正せば天皇家の血筋であった。
住蓮とは(じゅうれん)は、大和源氏の流れを汲む東大寺の僧実遍を父として生まれる。美声の持ち主で、唱導を能くし、各所の別時念仏で六時礼讃をおこない、僧俗の帰依を受けた。
安楽とは、遵西(じゅんさい、生年不詳 - 建永2年2月9日(1207年3月9日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての浄土宗の僧。父は中原師秀。房名は安楽房(この房名から安楽とも称される)。俗名は中原師広音楽的才能に恵まれ、同門の住蓮とともに六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。
 
中原氏(なかはらうじ)は、10世紀の明経博士中原有象を氏祖とし、中原 有象(なかはら の ありかたは、平安時代中期の儒学者・貴族。美濃介・十市春宗の子。十市氏は、後代の中原氏の系譜では安寧天皇第三皇子磯城津彦命末裔とされるが、記紀にそのような話はなく、『古事記』で十市氏の祖とされるのは、第8代孝元天皇の外戚である十市県主大目という伝説的人物である。
 
 

法然率いる浄土宗

法然は「平等」

住連の「美声」

安楽の「音楽の才能」

で国民の平等を説いた。

 

ザ・ブルーハーツのようなやさしさを感じる!ポーン


ブルハは宗教ではないが、当時の法然らの「南無阿弥陀仏」とひたすら唱える専修念仏は当時としては、パンク音楽だったのでみんな熱狂したと妄想する。

上から下への宗教ではなく、個々の心が欲する信仰だったんだと大妄想する。デレデレ

 
 
 
静御前が捨てた源義経から形見として贈られた鼓とは、重源僧上が唐から持ち帰り天皇に献上され、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の宝だったもの。屋島合戦の壇の浦の波間に漂っていたのを伊勢の三郎が見つけて義経に献上。鼓を天皇に献上した重源僧上とは、俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)上人は、高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した高僧。紀氏の出身で紀季重の子。1133年、17歳で刑部左衛門尉に任ぜられて、重定と名乗った。真言宗の醍醐寺に入り、出家。出家の動機は定かではない。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ
大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行。
ちきり神社は、高松藩の意向で移転した場所にある。松平家の墓所とされるとの通達により、1669年に前山(秣山)に遷された。それ以前は、平池の中洲にあった。元の場所には松平家の菩提寺の法然寺が造営。

平清盛の命で作られたため池「平池(へいけ)」
高松藩松平家の法然寺墓地前から中寺廃寺跡(まんのう町)方向を望む(ちょうど日差しの方向の奥の山上)この墓地がある山は、元、滕神社(ちきりじんじゃ)があった場所。祭神・稚日女命は、天照大神の妹または、幼い天照で、大神の御衣織女(衣服を織る女)と伝えられている。 ちきり:機織りの道具

 

 

気になる歌

 

良寛とは、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の曹洞宗の補陀落山円通寺(本尊は聖観音菩薩)の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事。

 

良寛

冬籠り 春さり来れば
飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を
立ち出でて 里にい行けば
たまほこの 道のちまたに
子どもらが 今を春べと
手毬つく ひふみよいむな
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
吾(あ)がつけば 汝はうたひ
つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ
永き春日を 暮らしつるかも

 

 

みょーに気になる真顔

 

 

 

霞とは
 『万葉集』の頃は【霞】と【霧】とは呼び分けられていなかったが、平安時代以降は春立つものを【霞】、秋立つものを【霧】とする伝統的季節美の概念が成立。

霞=霧

 

王仁(わに)
「難波津に さくやこの花冬ごもり 今は春べと さくやこの花」


傘松道詠
「春は花 夏ほとゝきす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり」

 

これまでの探検で、解釈すると、

天下春命=桜=コノハナサクヤヒメ=神阿多都姫と妄想

夏=ほととぎす=イの国

秋=月=月夜見命=西照神社・大瀧寺

冬=雪=冷=寒=寒川=鰐川(難破津=津田湾にそそぐ)

 

なんてね。オエー

 

 

 

 

イの国探検隊的に解釈してみれば、

 

冬籠り 春さり来れば

(裏になり 天下春命がくれば)
飯(いい)乞(こ)ふと 草の庵を

(飯野命乞い ふと 草の庵を)
立ち出でて 里にい行けば

(出て 天津久米の三里に行けば)
たまほこの 道のちまたに

(素戔嗚の 旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す1,312.3m八面山の尾根道に)

子どもらが 今を春べと
(イの国の子孫らが 今を天下春命の時代と)

手毬つく ひふみよいむな

((糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく  十種神宝の霊力で死者を蘇らせる)
汝(な)がつけば 吾(あ)はうたひ
(河南省の嵩県から淮水に流れる「汝水(ジョスイ)川」がつけば、神のお告げを汚れから守る歌をうたい)

吾(あ)がつけば 汝はうたひ

(如水川が神のお告げを汚れから守る)
つきて唄ひて 霞(かすみ)立つ

(お互いに呼応し 天村雲命現れる)
永き春日を 暮らしつるかも

(長く続く天下春の太陽に照らされて 暮らすでしょう)

 

 

 

 

続けて書けば、グラサン

 

裏になり 天下春命がくれば
飯野命(法然の祖)乞い ふと 草の庵を
出て 天津久米(紀氏)の三里に行けば
素戔嗚の 旧美馬郡穴吹町と美馬郡つるぎ町一宇村との境界に位置す八面山の尾根道に
イの国の子孫らが 今を天下春命の時代と
(糸=絹=)皇后「琉球十三マーイ」つく 十種神宝の霊力で死者を蘇らせる
河南省の嵩県から淮水に流れる「汝水(ジョスイ)川」がつけば、神のお告げを汚れから守る歌をうたい
如水川が神のお告げを汚れから守る
お互いに呼応し 龍・天村雲命現れる
長く続く天孫降臨の警護三十二神の一神で武蔵の秩父国造らの祖・天下春の日に照らされて 暮らすでしょう

 

 

 

 


花山法皇によって観音巡礼が再興。
那智山青岸渡寺での修行中、枕元に現れた熊野大権現から、徳道上人の定めた観音霊場を再興するようにとのお告げを受け、中山寺に納められていた(会津さざえ堂にあった観音像)33の宝印を探し出した。

そして、圓教寺性空上人中山寺弁光上人石川寺仏眼上人を伴い、33の札所寺院を巡礼し、観音菩薩の功徳を世に広めた。

 

33札所

第1番 青岸渡寺
補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
第2番 紀三井寺(金剛宝寺)
ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
第3番 粉河寺
父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や
第4番 施福寺
深山路や 檜原松原 わけ行けば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる
第5番 葛井寺
参るより 頼みをかくる 葛井寺 のうてなに 紫の雲
第6番 南法華寺(壺阪寺)
岩をたて 水をたたえて 壺阪の 庭にいさごも 浄土なるらん
第7番 寺(蓋寺)
けさ見れば つゆ寺の 庭の さながら瑠璃の 光なりけり
第8番 長谷寺
いくたびも 参る心は 初瀬寺 山も誓いも 深き谷川
第9番 興福寺南円堂
春の日は 南円堂に かがやきて 三の山に 晴るるうす
第10番 三室戸
夜もすがら を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
第11番 上醍醐寺
逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな
第12番 正法寺(岩間寺)
みなかみは いづくなるらん 岩間寺 岸うつは 松風の音
第13番 石山寺
後の世を 願う心は かろくとも ほとけの誓い おもき石山
第14番 三井寺(園城寺)
いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
第15番 観音寺(泉涌寺塔頭)
昔より 立つとも知らぬ 今熊野 仏の誓い あらたなりけり
第16番 清水寺
松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん
第17番 六波羅蜜寺
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば
第18番 頂法寺(六角堂)
わが思う 心のうちは 六の角 ただかれと 祈るなりけり
第19番 行願寺(革堂)
を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん
第20番 善峯
野をもすぎ 山路に向かう 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立
第21番 穴太寺
かかる世に 生まれあう身の あな憂やと 思わで頼め 十声一声
第22番 総持寺
おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし
第23番 勝
重くとも 罪には法の 勝寺 ほとけを頼む 身こそやすけれ
第24番 中山寺
野をも過ぎ をも行きて 中山の 寺へ参るは 後の世のため
第25番 清水寺(播州清水寺)
あわれみや 普き門の 品々に なにをかの ここに清水
第26番 一乗寺
春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる 法の華
第27番 圓教寺
はるばると のぼれば書寫の 山おろし のひびきも 御法なるらん
第28番 成相寺
の音 のひびきも 成相の ふきわたす 天の橋立
第29番 松尾
そのかみは 幾世経ぬらん 便りをば 千歳もここに 松の尾の寺
第30番 宝厳寺
月も日も 波間に浮かぶ 生島 を 積むここちして
第31番 長命寺
八千年や 柳に長き 命寺 運ぶ歩みの かざしなるらん
第32番 観音正寺
あなとうと 導きたまえ 観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを
第33番 華厳寺
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともし火も 消えぬなりけり(現在)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲(未来)

番外 山院菩提寺
有馬富士 ふもとのは に似て かときけば 小野の松風
番外 元慶寺
待てといわば いともかしこし 山に しばしと啼かん 鳥の音もがな
番外 法起院
極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮の へだてやはある
 
 
 
 
気になる言葉がちりばめられている。
 
 
 
今日も、瞑想(迷走)イ探妄想ですよ。ゲロー

「白飯は久しい米、飯盛山探検」としては登頂かな?

 

今日のところは、このへんで

ではまた。グラサン