南郷遺跡群は、室宮山古墳が築造されたあと、さらに発展していった。

この遺跡が使われたのは、5世紀前半〜中葉までであった。

それは襲津彦の死後も、彼の子孫が勢力を拡大していたことを示してる。

 

当時の政治は宗教的な祭りを中心とした政治方式がとられていた。

それで、政治のことを「マツリゴト」と呼んだ。

そのシステムの中枢では、宗教と政治が両立し、国を治めるためにどちらも必要なものとされた。

政治の話し合いで決定された政策は、宗教的な占いで「吉」の結果が得られなければ、実行されなかった。

これは大君家のみならず、大豪族でも同様であった。

 

その跡と考えられる遺構が、南郷遺跡群から発見された。

それは極楽寺ヒビキ遺跡と南郷大東遺跡跡、南郷安田(やしだ)遺跡の3つの遺跡である。

これらの遺跡の周囲には生活関連の遺構は認められず、遺跡の性格や規模を考慮すると、王のマツリゴトの場所である可能性は高い。

 

 

 

南郷遺跡群

 

 

 

極楽寺ヒビキ遺跡は、南郷遺跡群の南東部の高台に位置する。

そこからは「祭りの高殿〔楼閣のように高く造った建物〕」の跡が見つかった。

それは、床面積が約220㎡の巨大な掘立柱建物であった。

その柱は円形の柱ではなく、扁平の板柱であった。

 

 

 

極楽寺ヒビキ遺跡 祭りの高殿〔奈良県立橿原考古学研究所〕

 

 

 

この建物は、室宮山古墳から出土した家形埴輪とそっくりな形であった。

家形埴輪の板柱には直弧文(ちょっこもん)が飾られていたので、極楽寺ヒビキ遺跡の高殿の柱にも直弧文が描かれていたものと考えられる。

 

 

 

直弧文の柱の家形埴輪〔室宮山古墳〕

 

 

 

直弧文は、吉備の楯築王陵で使われ始めた弧帯文(こたいもん)が起源とも言われ、葬送の場で使われることから、魔除けの模様だと言われる。

もし弧帯文が起源であるならば、そこには楯築王陵に見られる道教的思想が込められていたのかもしれない。

また、直弧文には✖️印が含まれていることが多い。

✖️印は出雲族の幸の神信仰では、生命誕生の象徴であり、死者が新しい生命に生まれ変わる願いが込められていた。

 

この遺跡では、生活の痕跡を示すような土器がほとんど出なかった。

井戸など、飲料水に関連する施設も存在しなかった。

これらの特徴により、この敷地が生活空間ではなく、神聖な空間であることを肌で感じることができる。

 

西方には、金剛山が美しくそびえる。

金剛山は、古くは葛城山や高間〔高天(たかま)〕山とも言われた。

 

その中腹には、台地状の高天平が広がっているのが見える。

そこはもとは高天村〔御所市高天〕と呼ばれ、「高天原(たかまがはら)」の聖地であった。

そこは、大和に住む西出雲出身者が死者を葬った土地であり、出雲族の祖先の霊が集まる所とも言われた。

高天村の東北にある「極楽」の地名には、「この地に眠る祖霊が、極楽に行ってほしい」という願いが込められている。

 

また池田末則編『奈良の地名由来辞典』によると、遺跡の地名の「ヒビキ」は、当初「桧之本(ひのもと)」だったものが「桧之木(ひのき)」になり、最後に「桧々木(ひびき)」と変わったという。

 

出雲族はヒノキを「霊(ひ)の木」として尊重したので、この遺跡の高殿もヒノキで造られていた可能性がある。

 

高天原の近くの高天彦(たかまひこ)神社〔御所市北窪〕には、高御産巣日(たかみむすひの)神が祀られている。

高御産巣日神は、物部氏の祖・ニギハヤヒ〔徐福〕の母君・高木姫であり、葛城氏の祖神であるとも言う。

葛城氏は、物部氏の血も持っていたので、その地に高御産巣日神を祀ったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

極楽寺ヒビキ遺跡の高殿の柱穴には、赤い土や焼けて黒く炭化した土が入り込んでいた。

これらのことから、この高殿は火災にあったものと考えられている。

この遺跡から出土する須恵器の年代から考えると、火災が起こったのは5世紀前半であったと考えられている。

 

極楽寺ヒビキ遺跡の約300m北東に、南郷大東遺跡がある。

そこには、石貼りの貯水池で溜められた水の上澄みを、木樋(もくひ)を通して下流へ流す仕組みが作られており、その周囲には小さな覆屋(おおいや)が設置されていた。

出土遺物は、土器や祭りに用いた木製品、供物などがあり、水の祭りが行われたらしい。

 

 

 

南郷大東遺跡 導水施設〔奈良県立橿原考古学研究所〕

 

 

 

導水施設による水の祭りは、大阪府の狼塚(おおかみづか)古墳や心合寺山(しおんじやま)古墳の出土埴輪に表現されている。

これらは、各豪族の王がおこなった祭りを再現していた。

 

人間の生活で最も大切なのは、水である。

水は、泉から自然と湧き出すことがある。

古代の人々は、湧き出す水に神秘性を感じて、水の神を祀った。

そして、泉のそばに家を建てた。

泉がない所には井戸を掘り、井戸の神を祀った。

 

その信仰が後世に残り、泉や井戸の近くに神社が建てられることがあった。

 

南郷大東遺跡では、高天原付近から流れ出る川の水を、特に神聖な水として祀ったらしい。

 

南郷大東遺跡から約250m北東には、南郷安田(やしだ)遺跡がある。

 

遺跡の中心部からは、三重のヒノキの柱列からなる大型掘立柱建物が見つかった。

一番外側の柱列は一辺約17mで、極楽寺ヒビキ遺跡の高殿よりも大型の建物であった。

また、古墳時代中期における日本列島最大の建物でもあった。

 

この建物の周囲には、大人数を集める空間は無く、生活の痕跡もなかった。

 

これらの特徴から、この遺跡は葛城氏が政治の話し合いを行った場所だと考えられている。  

 

南郷遺跡群の各所では、渡来人にかかわる遺構や建物も多く発見されている。

 

『日本書紀』の神功〔息長姫〕皇后5年の条に、皇后の命で葛城襲津彦が新羅に行き、多数の現地人を連れ帰ったとの記事がある。

そのとき渡来した人々は「桑原(くわはら)、佐糜(さび)、高宮(たかみや)、忍海(おしぬみ)の四つの村の漢人らの始祖である」と書かれている。

このうち「忍海」は葛城市の忍海(おしみ)と比定されている。

御所市には「桑原」という小字があり「高宮」についても高鴨神社付近に小字が残っている。

 

つまりこの記事では、南郷遺跡群の渡来人は襲津彦が連れてきた人々であったことを示す狙いがあった。

しかし、渡来人の出身地が新羅であるように書かれたのは、誤説であった。

出雲の旧家では、襲津彦は百済の渡来人を連れて帰ったと伝承されている。

南郷遺跡群に住んだ渡来人は、百済や伽耶の人々であったことは、出土遺物からも判明している。

 

南郷遺跡群の最南端には、林遺跡がある。

そこの竪穴住居からは、百済地域のオンドル〔温突〕に似た、竈の煙を熱源とする床暖房が見つかった。

 

南郷柳原遺跡からは、百済と同じような大壁建物が見つかった。

周辺からは、鍛冶関連の遺物や大型の鉄塊が出土しており、鉄器生産が行われた遺跡であったことがわかる。

 

南郷角田(かくた)遺跡からは、甲冑の一部や鋲留めした鉄製品や釘状の鉄製品が見つかっていて、鉄製武器・武具の部品の製品加工が行われていたと考えられている。

 

ここで加工された甲冑や刀などは、大和政権に買い取られ、軍備として兵士たちに配られたものと考えられる。

 

葛城氏とその一族は、百済からの貢ぎ物の財力に加え、南郷遺跡群の手工業生産による収益で経済力を拡大させ、応神大君に並び立つほどの豪族となった。

 

息長姫が没したあとの応神大君は、葛城氏一族に支えられながら、かろうじて政権を保持していた。

 

そのため、葛城氏が副王朝のような存在となり、あたかも二王朝並立とも言うべき状態だった。

 

応神大君家にとって葛城氏一族は、家臣とは言え、侮れない存在となっていた。

 

さぼ