いわゆる大彦王国は物部王国に追われて、都を駿河の安倍川付近に移した。
大彦王が亡くなった後では、王家は安倍家を名のり、クナト国を名のった。
物部王国は領地を拡大し、強力になった。
景行の王子・大碓命は安倍王国の征服に向かい勝ち進んだ。
安倍勢は船で常陸国に移り、鹿島を都とし鹿島神宮を建て雷神を祀った。
そこへ西から中臣氏率いる軍勢が攻め神宮を奪った。
その後、安倍王国は宮殿を陸前国や陸中国へと移した。
そして、国名を日高見国と称した。
大彦が伯耆国から持ち帰り、クナト国で普及させたアラハバキ信仰は、彼の子孫の安倍氏により東北地方でも続けられた。
そのため安倍王国の日高見国はその後、「荒覇吐(あらはばき)王国」とも称した。
そのアラハバキ信仰が広がったため、宮城県以北にはアラハバキ神社が各地で見られる。
アラハバキ神の「アラ」とは、出雲族の幸の神信仰の竜神のことであった。
荒覇吐とは、竜神木信仰を言う。
石塔山荒覇吐神社〔青森県五所川原市〕
石塔山荒覇吐神社の近くに安倍家先祖の供養塔が有り、1987年に安倍晋太郎・晋三父子が参拝した。
石塔山荒覇吐神社秘傳
時代はさかのぼるが、東北地方には、大彦王の子孫の政権が「幸の神」信仰を、大和から伝えた。
陸中国〔岩手県九戸村〕にも「妻ノ神」の地名がある。
その「幸の神」女夫(めおと)神人形が、正月の祭りで飾られる。
木の素朴なこの人形は現代では、その地方に最も多く残っている。
サルタ彦と竜神を意識し、「荒神(あらがみ)」と東北では初め呼ばれた。
東北地方には、サルタ彦祭りの影響が多く見られる。
村の入り口を守るサルタ彦の大人形も、現代では東北に多く残っている。
人形道祖神〔秋田経済新聞〕
しかし発祥の地から遠いために、名前が変ってしまっている。
安倍氏の創建した鹿島神宮の影響で、鹿島様と呼ばれたり、また仏教の影響で仁王様になったりしている。
岩手県二戸市浄法寺町には、安倍氏が建てたという天台寺がある。
そこを流れる川は、安倍氏に因んで安比川と呼ぶ。
その寺の境内に荒神堂が今も幸の神信仰の名残りを留める。
荒神堂〔天台寺境内:岩手県二戸市浄法寺町〕
「御神木」を意識する時は、波波木神と呼んだらしい。
だから荒覇吐神とは、荒神と波波木神を合わせた神だ、ということになる。
波波木神の発祥の地は、山陰地方の伯伎(ほうき)国だった。
だから、その地は元は「波波伎(ははき)の国」と呼ばれた。
中心は倉吉市だが、市の東北部〔福庭〕に伯伎二の宮がある。
そのお社は伯伎の古名の、波波伎神社となっている。
祭神は古代出雲王国の、事代主命である。
市街地にあるが、古い由緒にふさわしく鎮守の森を持つ。
波波伎神社〔鳥取県倉吉市〕
「波波伎」とは、竜神が巻きつく神木のことだ。
斎部広成著『古語拾遺(しゅうい)』に、「古語で大蛇を羽々(はは)と言う」と書かれている。
すなわち伯伎の国とは、「竜神木の国」だと言っても良い。
斎の木とワラヘビ〔波波木神〕
竜神木は「斎の木」と言ったり、「宝木(ほうき)」と呼んだりする。
「羽々木」の発音がなまって、宝木となったらしい。
鳥取市気高町宝木には、その発音の元の母木神社が鎮座する。
幹が直立し、上で枝が広がる種類の木が神木に適すると言われるが、その木に形が似るので、箒(ほうき)は前者と同じ発音になったらしい。
母木神社〔鳥取市気高町〕
伯伎国名も「箒の国」とも、考えられたらしい。
そして宝木が元もと「神木」だったから、箒は縁起の良い物として扱われた。
帚神(ははきがみ)は俗に「出産に立ち会う神」で、新しい命を与える神だと言われている。
女系家族制では、刀自は上夫(うわお)〔後夫〕を迎えることが多かった。
そのせいで、老後も姥と暮らせる翁は珍しく幸せな男だとされ、「高砂の爺婆(じじば)」の絵がもてはやされた。
その絵の中で、姥の持つ「箒」も目出たい物とされた。
それはオハセの象徴だと言われる。
同じく、爺の持つ熊手も「葉」をかき寄せるので縁起物だった。
葉は万葉集では、ホトの形として、それを例える歌が多い。
『古今和歌六帖』にある。
園原や 伏屋(ふせや)に生ふる帚木(ははきぎ)の
ありとて行けど あはぬ君かな
この歌は伏屋での逢引きを誘ったのに、来ないで逃げた男に、女が送った恨みの歌だ。
この木も、男のものを暗喩する。
園原は、昔信濃の西南端〔下伊那郡千智村布施屋〕の地で、有名な帚木があって、遠くからは見えるが、近ずくと見えなくなる木だと言われた。
帚木〔園原 長野県下伊那郡千智村布施屋〕
実際に信州にも、斎の木は多い。
その地では、わら蛇は巻かないようだ。
しかし、御神木であることは間違いない。
神木は木の種類に応じて、「松木たたえ」とか「桜たたえ」などと呼ばれる。
それは「讃え」の意味もあるが、田圃にサルタ彦の種水を溢れるほど「湛(たた)え」て欲しいとの願いを意味する。
諏訪大社・上社では、春の耕作期直前に、「たたえ神事」を行う。
村々の各たたえ木に氏子を集め、豊作の祈願誓約を御作神(みさくじん・みしゃぐじ)と取り交わす。
神使(おこう)様という神役になった童男が、たたえの前で、御杖(みつえ)柱に付けた「さなぎの鈴」とか「誓約の鈴」と呼ばれる鉄鐸〔フグリの表象〕を打ち鳴らす。
棒の鉄鐸の上には矛〔珍矛〕が立っている。
そこから弊として、木綿(ゆう)〔木皮の白繊維〕が種水のように垂れる。
佐奈伎鈴(鉄鐸)〔諏訪大社・上社〕
埼玉県大宮市の氷川神社には、江戸時代には摂社・荒波々畿(あらはばき)社があり、『江戸名所図会』に書かれている。
出雲王国が亡びた後、物部王の要請に応えて、出雲は伝統の優秀な軍勢を関東の征戦に送った。
その褒賞として、出雲の豪族が多くの国造に任じられた。
その際に、出雲系の氷川神社と荒波々畿社が建てられたらしい。
『江戸名所図会』巻之四(天権之部)に記述がある。
大宮氷川神社
大宮の駅のうち、街道の右の方に鳥居・立石あり。
これより十八町入て御本社なり。
・・・ 祭神三座、本社の右は素盞嗚尊(男体の宮と称す。奥の社ともいふ)、同じく左は奇稲田姫命(女体の宮と称す、これも奥の社と唱ふ)、本宮は大己貴尊を斎ひ奉る(簸王子宮と称す)。
これはすなはち武蔵国第一宮にして、『延喜式』名神大社、月嘗新嘗に列する第一の官社たるところなり。
荒波々畿の社
本社の傍らにあり。
手摩乳(てなづち)・足摩乳(あしなづち)二神を祀る。
『武蔵国風土記』に、「観松彦香殖稲天皇御宇三年祭るところ」とあるは、この社をいへるにや。
矢印の拡大
荒波々畿社〔大宮氷川神社摂社〕
現在は「荒波々畿社」が「門客人(かどまろうど)神社」と名称が変わっている。
折口信夫によれば「門客人」とは、外からやってきた神ではなくて、もともとここに祀られていた神のことをいう。
福島県では12月20日頃のスス祓いの日には、スス祓い餅を神棚に供える。
そして笹竹を箒にしてスス祓いをする。
それが済むと箒をスス男と呼び、壁に立てて飾る。
この箒は斎の木の変った姿で、神聖なものとされた。
この荒波々木信仰の普及で、宮城県以北には、荒波々木神社が各地で見られる。
しかし、波々木の意味がわからなくなったらしい。
脚絆の「脛巾(はばき)」と考えた人もいて、荒脛巾神社の字の社もある。
そのお社が「道の神」〔幸の神の別名〕を祭るから、旅人の脛を守る布を名前にするのも、一理はある。
そこには、脚絆と箒とワラジが奉納されている。
奈良県の水辺祭祀遺跡〔橿原市新堂町、古墳時代〕から、箒が出土したが、御神木を意味する。
そのための箒奉納だ。
ワラジ奉納には、万葉集にも歌われた道の神の伝統が感じられる。
東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定めた。
亀岡(かめがおか)〔つがる市〕は荒波波木信仰の聖地とされて、王国各地より代表が祭りに参列したと言う。
その際に祭壇にアラハバキ神像〔遮光器土偶〕が立てられて、拝まれたらしい。
だから、それらアラハバキ神像が出土する地域は、安倍王国と関係があったと考えられる。
遮光器土偶〔青森県亀ヶ岡遺跡出土〕
東北地方で発掘された有名な土女神像〔遮光器土偶〕は、巨大な目の部分に特徴がある。
潰れて腫れた目は奇形児であり、古代では奇形児を神聖なものとして拝んだという説もある。
しかし、土女神像は亡くなった祖先神であるので、目が閉じられている。
海外でも同様の例があり、例えばギリシアのミケーネで、ハインリッヒ・シュリーマンにより発掘された紀元前1500年頃の「黄金のマスク」も亡くなった人の顔を示しているので目が閉じられている。
だから、この土女神の目の部分を、他民族の「雪眼鏡」の名前で呼ぶのは誤りだ。
アガメムノンのマスク〔アテネ国立考古学博物館〕
東北地方は、縄文時代的な土焼き神・信仰が遅くまで続いたらしい。
弥生時代以後は、地元の人々がそれをアラハバキ神像と呼んでいたと言われる。
東北地方でよく見つかるこれらの祖先神の像は、出雲族の親戚の安倍族が作った土女神像であった、と出雲の旧家では伝えられている。
この神像は、安倍族の支配した東海地方や北陸地方、関東地方でも見つかっている。
東北の地元では、この神像のことを古代から近年に至るまで「アラハバキ土女神像」と呼んでいたという。
そのため、実際に呼ばれていたこの名前で呼ぶのが、最もふさわしい。
またアラハバキ土女神像は、古代の衣装を身にまとっている。
衣装の模様は、アイヌのものに似ており、出雲族がアイヌ族の衣装を真似した可能性がある。
そしてその模様は、竜神〔蛇神〕を表しているものと考えられる。
また、胸や腰の部分が膨らんでいることから、母系の祖先神をかたどり、尊敬していたらしい。
この神像の頭の上に乗せている飾りのようなものは、ランプを表現していると考えられる。
同じような形のランプ土器も多く発掘されている。
古代ではこれらのランプ土器に油を入れて、夜に灯火として使っていた。
当時、油は貴重なものであったので、通常はランプ土器を使わずに、人々は日が沈むと活動を止め、就寝していた。
ところが出産は、昼だけでなく夜にも行われる。
夜に出産する際には、暗闇を照らすため、ランプ土器に明かりが灯される習慣があった。
また、ランプ土器は村の共同所有物で、産婆が出産の近づいた家に持参して使っていた。
そのため、ランプ土器は神聖でおめでたいものと考えられた。
「動物装飾付釣手土器」=長野県宝、長野県立歴史館蔵
アラハバキ土女神像は、頭の上に出産に関連するランプ土器を乗せていることから、安産や多産を祈るために使われた神像であることがわかる。
アラハバキ土女神像は、吉野ヶ里土器時代にも使われた須恵器と同じ硬い質で作られていた。
それは、吉野ヶ里時代に海外から伝わった須恵器の技術を使って、安倍氏が作ったためであった。
つまり大和地方が吉野ヶ里時代となった後も、東北地方ではまだ縄文時代のような信仰や文化が続いていた。
北海道地方では、縄文時代のあとに吉野ヶ里時代にではなく続・縄文時代が続いていたと考えられているが、それは東北地方でも同様である。
その意味では、縄文時代に生まれていない大彦とその子孫が、東遷の過程で土着の土女神像をアラハバキ神像として利用した可能性も否定できない。
だから、アラハバキ土女神像は縄文時代の古い土神(土偶)とは、作られた時代が異なるので区別した方がいい。
平安時代の末には、安倍王家の一部は奥六郡に中心を移した。
そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに、私闘を繰り広げた。
それがいわゆる前九年の役だった。
これに敗れた安倍王家は領国を狭めた。
『前九年合戦絵詞』を見ると、安倍の軍勢がアイヌではないことが分かる。
前九年合戦絵詞
安倍家は鎌倉時代には安東氏を称するようになった。
当時はアイヌが住む北海道も支配していたから、自分の家系が東国の将軍だと自負したのは当然だった。
後の中心地は、津軽の十三湊〔港〕(とさみなと)近辺だった。
そこは初めはトミの港と呼ばれたが、後にはトサと呼ばれた。
近年、安東勢力の根拠地跡が発掘された。
その場所は津軽半島の西海岸にあり、岩木川が海にそそぐ所だった。
十三湖の日本海側に二本の長い砂州が防波堤のように伸びている。
その内潟の明神沼の入り口に護岸施設と桟橋がある港湾施設〔青森県五所川原市〕が見つかった。
十三湊遺跡〔青森県五所川原市〕
安東氏の館と家臣団屋敷を堀と土塁で守る形になっている。
堀の外側には町屋や寺院跡があった。
この十三湊と町は出土遺物から鎌倉時代初期に出現したことが分った。
1968年に函館空港の近くに、中世の志苔館(しのりだて)遺跡〔志海苔町〕が発掘された。
そこから、銅銭が37万4千枚以上見つかった。
日本列島での埋蔵銭としては、最多数だった。
これは、安東一族が埋めた可能性が大きい。
安東氏は鎌倉時代後期に、北条執権政府の支配下に入った。
それ以前は独立していたから、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言える。
国指定重要文化財「北海道志海苔中世遺構出土銭」
その後、文永と弘安年間の二回にわたり蒙古軍船の大襲来があった。
二回とも神風が同じ場所に来て、蒙古軍船は全滅したという奇妙な話が流された。
しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍等が海上で懸命のゲリラ戦を繰り広げ、蒙古の軍船を追い払った、と古老は伝えている。
羽後国で湧き出る重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた松明に火をつけて敵船に投げ入れた。
多くの敵船は燃えた。
前九年の役で敗れた安倍宗任は肥前松浦に移って、松浦姓を名のり一族は松浦党という水軍となった。
彼らも蒙古軍撃退のために活躍した。
残った蒙古の軍船は逃げ帰ったという。
鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の活躍を無視したという。
蒙古軍船の一部は安東船を追って津軽まで進み、上陸した。
しかし、蒙古兵は安東氏の指揮する軍勢により打ち亡ぼされた。
その蒙古兵のことが、今も津軽の子守唄に歌われている。
松浦党の一部はその後、先祖ゆかりの地・出雲に移り住んだという。
その後も安東水軍による海外貿易は続いたが、1341年〔南北朝時代〕の大津波が、十三湊を襲い町も亡んで、日本の名門・安東家は衰退した。
さぼ