大彦は移動の途中で、北陸地方から信濃国にかけての領地を勢力下におさめた。

北陸地方は「クナトが国」が縮まって、クヌガ国と呼ばれた。

 

『日本書紀』には「大彦はクヌガの道〔北陸道〕に行った」と書かれている。

後世に北陸から越後にかけて、大彦の子孫が豪族になったことが『旧事本紀』「国造本紀」に書かれている。

 

若狭国造は、大彦の子孫・膳臣家(かしわでのおみけ)が勤めた。

加宣〔加賀〕国造と越後国の高志深江(こしふかえ)国造は、ともに大彦の子孫・素都乃奈美留(そとのなみる)の後裔であった。

越後を中心に勢力があった越国の高国造は、阿倍臣・屋主男心(やぬしおごころ)の後裔であった。

これらの北陸地方の大彦の子孫の国造は「道(みち)の公(きみ)家」と呼ばれ、富家の親族であった。

 

北陸地方へ進んだ大彦は、越後を通って信濃国に移住した。

大彦は信濃に進出した後、更級(さらしな)郡布施の五明長者窪(ごみょうちょうじゃくぼ)を本拠地とし、その地で亡くなった、と地元では伝えている。

その屋敷跡には布制(ふせ)神社〔長野市篠ノ井布施五明〕が建てられ、大彦が祀られている。

その近くの山には、大彦の墓と言われる川柳将軍塚古墳〔長野市篠ノ井石川〕がある。

その後、その地は大彦一族の布施氏により治められた。

 

 

 

布制神社〔長野市篠ノ井布施五明〕

 

 

 

 

『古事記』には、大彦は越の国を通り、東海道を通った息子・建沼河別と会津で出会ったと書かれている。

それが会津の地名の由来とされているが、大彦は信濃国で亡くなったので、2人が会津で会うことは不可能だ。

これは、北陸地方を通った大彦勢と、東海地方を通った建沼河別勢が、会津で合流したことを示している。

 

物部王国は領地を拡大し、強力になった。

景行の王子・大碓命は安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進んだ。

安倍勢は船で常陸国に移り、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て雷神〔出雲竜神の化身〕を祀った。

中臣氏率いる軍勢が西から攻め神宮を奪った。

そこの祭神・武瓺槌(たけみかづち)も奪って自家の氏神に加えた。

そして、武瓺槌神が出雲王国の国譲りをさせたと記紀に書かせた。

出雲王国攻撃の時に、中臣氏は出雲に来なかったのに自家の手柄とし宣伝した。

右差し 鹿島神宮と鬼塚

 

彼ら出雲族は、インドの太陽神スーリアの信仰を受け継ぎ、大和に移住した後も三輪山の日の出を拝んだ。

旧大和王国の孝元大王の御子・大彦と従う人々も、同じく太陽信仰を持っていた。

 

 

 

 

 

それで、住みついた常陸国を「日立ちの国」と呼んだ。

それは「太陽の昇る国」の意味だった。

 

『常陸国風土記逸文(いつぶん)』に、鹿島の西方の「信太(しだ)郡の地は本(もと)、日高見国なり」と記されている。

 

また駿河の安倍川の東にある日本平の「日本」は「日の元の国」の意味で安倍王が名づけた地名かもしれない。

 

その国は日本列島の東方にあったので、どこよりも早く日が昇るのを拝むことができる良い国だ、ということを強調した国名だった。

 

同じように東北地方でも朝日が尊ばれたので、「朝日」という地名が多く残されている。

 

その安倍一族が北方に滞在したときには、トミ姓の方が尊敬されるので、富家に黙ってトミ姓を名のっていた。

 

山形県と秋田県の境目あたりに一時とどまっていた時には、そこの高い山に「トミ山」という名前をつけた。

しかし、富の字を使うことは禁止されていたので、人から山の名を聞かれた時は「トミ山のトは鳥の意味で、海に近いところだから鳥海山と書く。それをトミ山と発音しているだけだ」と言い訳した。

そして安倍氏が去った後では、地元の人たちは鳥海山のことを「チョウカイサン」と呼ぶようになったという。

 

 

 

鳥海山〔山形県から〕

 

 

その後、大彦の子孫の一族は、物部勢に追われて東北地方まで転々と移動を繰り返した。

安倍王国は宮殿を陸前国や陸中国へと移した。

そして国名を日高見国と称した。

 

安倍一族はさらに北へ移動し、東北地方に安倍王国をつくった。

前述の常陸国も安倍王国の領域だった。

東北地方には、今でもアベ姓が多い。

 

岩手県から宮城県にかけて流れる北上川も、元の名前は「日高見川」だったらしい。

北上川流域には、鳥海柵(とのみのさく)や厨川柵(くりやがわのさく)など、平安時代の豪族・安倍王国の防衛基地の遺跡が残っている。

その地方に住む東国の人々は、近畿地方の政府側から「蝦夷(えみし)」と呼ばれた。

 

 

 

鳥海柵跡〔岩手県胆沢郡金ヶ崎町〕

 

 

 

大彦王国が日高見国と名のったから、

『日本書紀』の景行期27年に、「東の夷の中に、日高見国あり」と書かれた。

 

二月、東(あずま)の夷(ひな)の中に、日高見国有り。

其の国の人、男女並に椎結(かみをわ)け、身を文(もとろ)けて、人となり勇み悍(こわ)し。

是を総て蝦夷(えみし)と曰う。

亦土地壌えて曠(ひろ)し。

撃ちて取るべし。

 

日高見国はその後、「日之元津国(ひのもとつくに)」とか「日本之国(ひのもとのくに)と名のった。

それを真似たらしい。

日本の尾張〔尾治〕大王(おおぎみ)から煬帝に宛てた国書が、中国の史書『隋書』〔東夷傳俀國傳:倭国の条〕の記事に書かれている。

 

日出處天子致書日沒處天子無恙云云

 

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々

 

これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」〔無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな〕と命じたという。

 

『旧唐書』〔倭国日本国の条〕には、次のように書かれている。

 

日本國者 倭國之別種也。

以其國在日邊 故以日本為名。

或曰:倭國自惡其名不雅 改為日本。

或云:日本舊小國 並倭國之地

 

日本国(ひのもとくに)は和国の別種なり。

その国は日の辺のある故に、日本(ひのもと)を名とする。

和国の蔑称・倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。

あるいは言う。日本は古くは小国で、和国と並立していた。

 

この安倍一族による東北地方の日本国は、大和地方を中心とする倭国とは別の国で、それぞれが独自の貿易を行っていた。

この貿易の続行による輸入品は、後の平泉文化にも入っている。

だから、この史書に書かれたように、日本列島に二つの独立国があったことは、外国には広く知られていた。

 

そして「日本(ひのもと)」の国名は、東北の日高見国が先に使ったものだった。

北にあった日本国の記念碑が、青森県東北町に残っている。

 

 

 

 

 

 

場所が移動したので、元あった位置の「石文(いしぶみ)」の地名から陸羽街道〔国道4号線〕をはさんで反対側の千曳(ちびき)神社近辺にある。

その南が「坪(つぼ)」の地名で坪川が流れている。

 

その石文には、浅い彫りで「日本中央」と書かれている。

浅い彫りであることが、彫る技術が未発達な古い時代に造られたことを示している。

この石文は東国の王・安倍致東が建立したと伝えられている。

 

この「坪の石文」の存在は、倭国でも古くから知られていて、和歌の歌枕として度たび使われた。

平安末期の『袖中抄』〔歌人・藤原顕昭著〕に、文がある。

 

いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみあり。

日本の東のはてと云へり

 

12世紀末に西行が、『山家集』に書いた。

 

みちのくの おくゆかしくぞ 思ほゆる

壺のいしぶみ そとの浜風

 

外の浜は津軽半島にあり、外国船が着いたとの言い伝えがある。

その辺に古い日本国の都があったことを、西行は知っていたらしい。

そして「壺のいしぶみ」の字は違うが、その重要性に感づいていたのかもしれない。

 

ところが有名な俳人・芭蕉は、苔におおわれた宮城県・多賀城碑をそれと勘違いし、感激した文を『奥の細道』に書いている。

 

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有。

今も年々十符の菅菰を整て国守に献ずと云り。

壷 碑 市川村多賀城に有。

つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計カ。

苔を穿て文字幽也。

四維国界(しゆいこくかい)之数里をしるす。

 

「多賀城」は奈良時代に蝦夷の南下を防ぐために坂上田村麻呂が設置した城柵で、芭蕉が見た石碑は江戸時代に仙台藩主伊達綱村が発掘したものだった。

 

 

 

日本中央の碑〔青森県東北町観光協会〕

 

 


 

伝承によると安倍政権には、アイヌ人の代表も加わっていたという。

アイヌ人が住んでいた渡り島〔北海道〕や樺太・千島も、安倍王国の領土であった。

だから坪の石文が建てられた時は、その場所が安倍王国すなわち、日本国の中央であったことは、誇張でないことがわかる。

 

その後、倭国は日本国の名を使ったから、大和政権の記事は『新唐書』では「東夷伝の日本の条」に書かれた。

 

咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本

 

咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて「日本」と号した

 

『旧唐書』では倭と日本が並立状態で書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。

 

それに関する記録が、若狭国の羽賀寺〔小浜市国富〕に残されている。

大彦王の子孫・安倍〔安東〕康季公がその寺の伽藍を再興した際のもので、「奥州十三之港の日本の将軍」と1435年〔永享7〕に名のっている。

この文は安倍氏の東北王国が日本国を名のった後に、倭国が勝手に日本の名を使ったことを示している。

 

 

 

「奥州日本」の記録

 

 

 

日本の古代史は、現在の奈良県にあった大和政権を中心として語られてきた。

日本最古の歴史書である『古事記』や正史である『日本書紀』も、天皇や大和政権の成り立ちや来歴について記されたものだ。

しかし、大和国からはるか離れた東北の津軽地方に、別の王朝が存在したとする歴史書が存在する。

それが青森県五所川原市の和田家に伝わったとされる古文書『和田家文書』であり、中心となるのが『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』である。

現代語の概略を以下に記す。

 

古代、津軽にはアソベ族と呼ばれる穏和な人々が住んでいた。

彼らは農耕を知らず、狩猟や採集で平和な生活を送り、アソベ山という火山を聖域としていた。

だが、中国大陸からツボケ族という荒々しい民族が渡来し、アソベ族を山地に追いやる。

やがて、アソベ族は征服され、アソベ山の噴火もあり滅びてしまった。

その頃、大和を中心とする近畿地方には、ツモミケ族のアビ彦と弟のナガスネ彦が周辺のクニを統一して耶馬台国を築いていた。

この耶馬台国に侵攻したのが九州の日向国だった。

日向軍を率いていたのが後の神武天皇で、ナガスネ彦は重傷を負い、アビ彦も敗退し、津軽に逃げ延びたという。

 

その後、アビ彦とナガスネ彦は津軽に留まり、アソベ族の残党とツボケ族、そして大陸や朝鮮半島から東北に渡ってきた部族と連合し、アラハバキ族を結成する。

アラハバキとはもともと神の名前で、東北地方を中心に出土する「遮光器土偶」は彼らのご神体とされる。

 

アラハバキ族は東北を五つに区分し、それぞれに王を置き、各王による合議制で鎌倉時代まで統一を保った。

 

なお、大和を征服した日向国は、たびたびアラハバキ国を攻めたが、アラハバキ族は防衛するだけでなく、逆に大和を制圧して、自分たちの王朝を立てたこともあった、という。

 

これが『東日流外三郡誌」に記された東北古代王朝部分のあらましで、壮大な創世神話から、大和政権との確執が描かれている。

古代以降は、東北地方の豪族・安倍氏をアラハバキ族の子孫とし、平安時代末期には宗家となった安東〔安藤〕氏が、十三湊〔青森県五所川原市周辺〕を拠点に水軍を組織。

十三湊は交易の中心になり、内外の船が行き交い大いに繁栄する。

しかし、1340年〔もしくは翌年〕に起こった大津波で壊滅した、といった安東〔安藤〕氏の鎌倉時代から江戸時代に至るまでの歴史が綿々と綴られている。

 

十三湊は初めは、富家にちなんでトミの湊と呼ばれたが、のちにトサ湊と呼ばれるようになった。

近世以降は、読みやすいという理由でジュウサン湖と呼ばれるようになり、元の意味がわからなくなっている。

 

 

十三湊遺跡

 

 

 

二つの独立国〔倭国と日本国〕並立時代は、鎌倉時代まで続いた。

日本国が初めて一つの国に統一されたのは、北条執権の時代であった。

 

今日、『東日流外三郡誌』を含む『和田家文書』は、その真贋をめぐる長い法廷論争の末、偽書ということで決着しているが、自宅の天井裏で古文書を発見した和田喜八郎氏はNHKなどのテレビ番組に出演するなど、当時は新聞やメディアも大きく取り上げた。

 

元総理大臣の父親である安倍晋太郎代議士や芸術家の岡本太郎までもが、『和田家文書』を見聞に訪れている。

 

さぼ