ヤマタノオロチ話は宗教戦争だった。
『日本略史 素戔嗚尊』に描かれたヤマタノオロチ
出雲国造の先祖は、ホヒ(穂日)と呼ばれた。
彼は紀元前3世紀の末に、徐福の命令を受けて息子のタケヒナドリ(武夷鳥)とともに海を渡り、出雲王国の八千矛王〔大国主〕に会いにきた。
彼らは徐福集団の翌年来航を控え、出雲王国への居住の許可を求めた。
そのとき土産物として、銅剣と銅鐸に似た物を秦国から持参した、と地元では伝承されている。
徐福集団の先進的な構造船
当時の出雲王国は丸木舟だった
一年後に、徐福ひきいる大船団がイワミ国に現れ、五十猛海岸に秦人の集団が上陸した。
彼らは五十猛から次第に、東に広がって住んだ。
出雲王国の範囲の先住民は、サイノカミ・太陽神が国教であったが、従属神として竜神信仰やヘビ信仰を持っていた。
八重波津身〔事代主〕の娘・イスケヨリ姫〔踏鞴五十鈴姫〕がヤマトの三輪山に移住した時、竜蛇神を三輪山に祭った。
その結果、三輪山近辺にも、ヘビ信仰が広まっている。
出雲では現在でも各村で、斎ノ木にワラヘビを巻いて、竜神祭りを続けている。
竜神を荒神と呼んだり、オロチと呼んだりする村がある。
出雲大社 龍蛇神
宗教は人々をまとめるために、古代は重要視された。
ところが自分の宗教を信じ込むあまりに、他の宗教は良くないと考える人々がいた。
徐福は神仙信仰の導師だった。
彼は海童たちを連れて夕方、丘に登り北斗七星を拝んだ。
星拝みの帰り道で、斎ノ木のワラヘビを切って回った、という。
先住の出雲人が抗議したが、受け付けなかった。
その結果、両者の衝突が各地で起こった。
特に斐伊川の上流の村々では多かった。
出雲では「徐福が来たとき、宗教戦争があった」と伝えられている。
これもヤマタノオロチの話と関係がある。
徐福が和国に来た目的は、和国の王になることだった。
そのためには、八千矛王に取って代わることが、手っ取り早いと考えたらしい。
徐福は出雲国王の娘・高照姫を、嫁にもらった。
それにもかかわらず、出雲王国の王を無き者にしようと考えた。
その頃ホヒは出雲王家に仕えていたが、隠中的な動きがあると噂されていた。
ある日、ホヒが八千矛王を出雲国西部にある薗の長浜に、誘い出した。
薗の長浜から大山を望む
その後、八千矛は行方不明になった。
八千矛王が行方不明になった時、東出雲の富王家の八重波津身王〔事代主〕は、美保港(松江市美保関町)のヌナカワ姫の屋敷にいた。
そこにタケヒナドリ〔稲背脛(いなせはぎ)〕が船で来て、八千矛の遭難を伝えた。
事代主は大国主を探すために、タケヒナドリの船に乗り、王の海(中海)を西に向かった。
そのあと八重波津身王も行方不明になった。
後日かれの遺体は、弓ヶ浜西部の粟島(伯耆国西端)の洞窟で見つかった。
死因は餓死と判定された。
その遺体は熊野山(出雲国オウ郡)に埋葬された。
この事件関連の記事が、『伯耆国風土記』や『伊予国風土記』に逸文として残っている。
八重波津身王が非業の死を遂げたあと、妻君のヌナカワ姫は実家(糸魚川市)に帰ることになった。
御子の建水方富(たてみなかたとみ)彦は出雲王国の領土を広げるために、北に向かった。
出雲兵を連れて糸魚川をさかのぼったタテミナカタトミは、諏訪盆地を支配地とし、そこに出雲文化を伝えた。
サイノカミは出雲王国の国教だったから、信州に広まった。
その結果、サイノカミ夫婦神(道祖神)の石像が信州の道に多く建てられている。
信州の道祖神
このタテミナカタトミの出雲王国拡大を、国造果安はいわゆる架空の「国譲り話」の後に付け加えた。
国譲り要求のために出雲に来た建御雷(たてみかづち)ノ神の所に、タテミナカタが来て、「力比べしようか」と挑んだ。
建御雷がタテミナカタをつかみ、投げ飛ばすと後者は逃げた。
タケミカヅチはさらに追いかけ、信濃国の諏訪湖まで攻めて殺そうとした。
タテミナカタは「諏訪の外に出ないから、殺さないでくれ」と言った。
出雲国造家が旧出雲王家を嫌い、この話で出雲王国の王子を弱く描き、弱い状態になったと思わせている。
3世紀に出雲王国が亡びた後では、「財筋(たからすじ)」という旧王家親族集団が以前と同じように、出雲国内を支配していた。
しかし、表面的には、ホヒ家当主を国造としていた。
だから出雲国造は、言わばカイライ国造だった。
史実と異なる出雲神話も出雲国造が書かせた。
「国譲り建築説」には、類似話まで作られていた。
古事記のホムチワケノ御子伝説は史実に反するが、菟上(うのかみ)王が御子のために神ノ宮を出雲に造った、と書かれた。
伝説によると、神のお告げに従い垂仁天皇が出雲大神を拝んだことにより、唖(おし)の御子は言葉を話されました、と言うこと。
菟上王とは出雲を征服に来た将軍の名前で、ホムチワケとは関係がなかった。
このような重要人物の名前は、出雲人はまだ忘れてはいなかった。
このように出雲神話だけでなく、記紀の他の部分でも、出雲国造により、史実の改変が行われた。
出雲国造・果安が出雲王国の歴史を記紀から除くことを提案し、右大臣により承認された。
出雲王国史を書く代わりに、国造果安がそれを出雲神話に変え、記紀に加えることになった。
その後、ホヒ家の果安は、徐福の名前を記紀に使わないように、忌部子人に頼んだ。
なぜならば、徐福の名前を聞くと、徐福が出雲で行った悪事を、出雲人が思い出すからだった。
果安は徐福をスサノオの名に変えて、記紀に書くことを子人に求めた。
事実上、記紀の記事決定の中心は、官史編集の経験の長い忌部子人だった。
右大臣も、スサノオの名前の採用を認めた。
右大臣と子人がスサノオ名を認めた結果、日本史の重要人物・徐福の名前は、官史から消えた。
天孫降臨を古事記に書く方針だと、忌部子人から聞いた果安は、スサノオの出雲降臨を、古事記に書くことを求めた。
それで古事記に「(スサノオノミコトが)出雲国の鳥髪という地に降り」と書かれた。
鳥上山の「上」の字は「髪」に変わっている。
地元の人は史実を知っていて、古事記の「スサノオノのオロチ退治」はおかしいと気づいた。
徐福が船で渡来したのに、鳥上山の空が海になったことを不思議がり、その山を「船通山」と呼ぶようになった。
奈良時代に、各地の風土記が作られた。
提出された各国の風土記が、記紀と食い違う箇所があるために、焼却処分された。
その話を出雲国造・広嶋は、子人から聞いた。
そこで、残っていた下書きを基にして、『私撰出雲風土記』(733年)を書いた。
この記録では、古事記の作為に合わせて、出雲王たちの事跡が神話に作り変えられた。
また、ホヒ家が有利になるように、書き改められた。
さぼ