父:可成の死により13歳で家督を継いだ長可は、家臣団の支えも有ってか早々に織田家重臣の役割を果たして行きます。
戦場でも元亀4年(1573)の第二次長島一向一揆攻めを皮切りに、同年の槇島城の戦い、翌天正2年(1574)には第三次長島一向一揆攻めに参加して、将の資質を育てていきました。
本丸から見下ろす北側の兼山城下と木曽川の流れ 金山城は木曽川を通して、犬山城と苗木城の中間にあります
本丸から西側の景観 逆光で何も見えませんが、条件が良いと犬山城や岐阜城、遥か鈴鹿山系まで見渡せる様です
天正3年、三河長篠で織田・徳川連合軍が武田軍に快勝すると、織田信長は嫡子:信忠に家督を譲り、独自の家臣団編成をさせました。
森家も信忠の与力大名としてこれに組み込まれ、以後、信忠軍団として岩村城攻め、越中侵攻、石山本願寺攻め、三木合戦などに参加していますが、この頃になると森家の当主らしい勇猛果敢な武将になっていて、その受領名:武蔵守から“鬼武蔵”と綽名されます。
戦乱が少し落ち着いた天正5年頃から、長可は美濃兼山の自領の内政に取り組みます。 城下を整備するとともに、木曽川畔に湊を整備して流通と商業の発展を企図した様ですから、金山城の縄張りが鉄砲仕様に拡充され、総石垣で普請されたのもこの時ではないでしょうか。
信長の安土城も天正4年に着工し、3年後に竣工していますから、手伝いに参加し、やや遅れて整備すれば、安土城のノウハウをそのまま移植できる訳ですからね。
本丸は広大で、多数の櫓と御殿の建物(の礎石)がありました 近年まで神社が有った様で、残骸が残っています
これは巽の櫓跡か、礎石が明瞭ですね
下の西腰曲輪を覗くと、無造作に崩された本丸石垣の天端石が散乱しています
天守跡とされる場所は、僅かに土壇が認められます
天守台から東の腰曲輪を見下ろすと… 何やら手が入って石が整理されていますね
近々に積み直し復元があるのか?…と思ったけど、国の史跡になったからそれは無いですね
天正10年(1582)、“甲州征伐”が発動されると、織田軍の総大将は信忠が努める事になります。
長可は団忠正とともに“先鋒”を仰せつかり、いち早く信濃に攻め込みました。
松尾城→飯田城→高遠城と、両者の先陣争いは白熱し、遂には信忠の本隊を待たずに高遠城に攻めかかる“軍紀違反”を犯して、信忠から叱責される場面も…(^^;
しかしこの電光石火の進撃が、武田勢に抗戦体制を整える猶予を与えなかったのは事実でしょう。
長可の隊はその後本隊を離れ、碓氷峠から上野へと向かい、武田傘下の豪族を降伏させて行きました。
甲州征伐の論功行賞で、長可には北信濃4郡が与えられ、20万石で川中島(海津城)に加増移封となります。
北に接する上杉氏の抑えが課せられた訳ですね。
旧領の美濃兼山はと言うと、信長の側近になっていた弟の成利(蘭丸)が5万石で受け継いだのですが、蘭丸に領地を治める時間的な余力は無く、長可の家老が城代となって治めた様です。
天守台脇に下りました 半分くらいまでに崩されていますね
崩落した石垣の下からは、“井戸”と説明されていましたが、集水桝の様な遺構が出て来ました
天守台北東の隅石付近 好みの違いは有るでしょうが、織豊期の野面には萌えます(^^;
東の搦手口と付曲輪は覗くだけで…
瓦片が落ちていましたが、さすがにこれは近年の神社解体時のモノかな?
甲州征伐から2ヶ月、信長が京の本能寺において明智光秀の謀反に斃れます。
側近の蘭丸も小姓に出仕していた弟二人(坊丸、力丸)とともに討死にし、織田家当主の信忠までもが自害してしまったので、国中が大混乱になります。
信濃でも、武田遺臣の土豪を中心に政情不安になり、この機に乗じる上杉の南下の動きもあって、孤立無援の長可は川中島を放棄して美濃への撤収を決め、旧領の金山城へと戻りました。
東美濃の政情もまた混沌としており、かつての配下の豪族にも離反する者が多くて、当面は近隣の安定に苦慮した長可でしたが、ポスト信長では早い段階から羽柴秀吉に接近しており、その名声を上手く利用して東美濃の再統一に成功します。
そして秀吉と織田信雄との抗争になると池田恒興と協力して秀吉側に積極参戦し、3千の兵で小牧城の奪取を試みますが、徳川家康麾下の酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5千と激闘になり、大きな損害を被りました。
下城後、城下にある森家菩提寺“可成寺”に寄りました
可成、長可と二代の廟所ですね
森家の墓所は本堂裏の崩落防護壁の裏側にあります
森家は美作津山藩が改易となった後も赤穂、三日月、新見の小藩に分かれて明治まで存続しました この寺と墓所は三藩が扶持を出し合って維持して来たのだそうです
家康も小牧山に入り、秀吉の大軍も到着しそれを包囲すると戦線は膠着状態となり、秀吉はそれを打開すべく2万の別動隊で家康の本拠:岡崎を衝く動きを見せました。
要するに、家康の炙り出し→大軍での包囲殲滅を狙った訳ですね。
別動隊に加わった森長可でしたが、これを察知した家康は自ら1万4千を率いて密かに小牧山を降りて追撃します。
総大将の羽柴秀次の隊が追い付かれ、急襲され壊滅すると、長可は引き返して家康軍と対峙し、すぐに激しい戦闘になりました。
2時間あまり、一進一退の激闘が続きましたが、いつもながら前線で槍を振るっていた長可は、水野勝成の鉄砲足軽に狙撃され討死にしてしまいました。
長可には男子は居なかった(早世した?)様で、末弟の忠政のみが後継候補でした。
ただ、長可は忠政への相続をひどく嫌がっていた…という話があります。
忠政を嫌っていたという訳ではなく、弟や妻子が今後も大名として戦乱の世界に身を置き続ける事への嫌悪であり、忠政は秀吉の側衆として文官で仕える事、自身の娘は武家でなく商家に嫁す事などを遺言していた様です。
一族の8割が討死にを遂げたという森家ですが、鬼武蔵もそんな壮絶な生き方を決して望んでは居なかったという事ですね。
森長可公の墓石 長久手で討死(享年27歳)
森可成公墓石 宇佐山城で討死(享年48歳)
左:森可行公(長可の祖父)墓石 金山城で病死 (享年77歳)
右:森可隆公(長可の兄)墓石 手筒山城で討死 (享年19歳)
本能寺で信長に殉じた3兄弟の供養塔 享年は 蘭丸(18歳)、坊丸(17歳)、力丸(16歳)
いやはや、戦国時代としても凄まじい一族です
長可の想いとはうらはらに、秀吉の裁定で森家7万石の家督は忠政が14歳で継ぎます。
そして忠政もまた、森家の男子として卓越した武勇を発揮し、慶長5年(1600)には兄の旧領だった信濃国川中島13万7,500石へ加増転封し、金山城を去りました。
金山城は廃城と決まり、犬山城主:石川貞清の管理下に移りますが、貞清は城の建物を解体して船で犬山へ運び、犬山城の改修・拡充に利用したと言われています。
おそらくこの際に石垣などの取り崩し(破城)が行われたのだと思われます。
しかし関ヶ原直前の慌ただしい中での破城工事だったのか、森家へのリスペクトを感じない雑な作業に見えて、まるで長可の亡骸が放置されているかの様で、とても哀しく残念な思いでした。
まぁ、忠政がその後に造った津山城が素晴らしく、今もとても良く保全されている事がせめてもの慰めですけどね。
完