次には今回の主目的である茶器の新調のため、常滑の『やきもの散歩道』を訪ねました。

普段使いの茶器は毎日使う物ですから実用本位で、肌触りや保温性、飽きない風情などで、常滑焼の自然灰釉モノが気に入っています。

 常滑焼は平安時代から始まった、日本六古窯の一つであり、鎌倉期からは日本全国で広く使われて、日本人の生活に深く溶け込んだ陶器ですからね。

 

さすがに常滑、路傍のあちこちに陶器産地の痕跡があります

 

『やきもの散歩道』の細道の両側には趣向を凝らした販売店舗や…

 

見るからに陶器工房を思わせる家屋が次々に現れます

 

 

 陶磁器会館に車を駐めて、案内パンフ(大野城の展望塔で入手)に沿って『やきもの散歩道』を散策します。

 ここは丘陵地ですが古くから作陶家の集住地で、狭い路地に沿って作家さんのアトリエ工房と窯が密集しています。

 店を構えて直販される作家さんも多く、少しは割高になっても直接話を聴いて、本当に気に入ったモノを買い求めよう…という目論見でした。

 

 しかし、正月三が日明けを待っての来訪でしたが、どの店先にも“4日まで休みます”との張り紙が出してあり、その思惑は見事に崩れました(^^;

他の観光客もたくさん居るのですが、皆さん一様にそんな反応ですね。

 

 『じゃあ、量販店で買うとして、町の雰囲気だけでも楽しんで行こうか…』と、パンフを手にブラブラ歩いて見ます。

 

常滑の主要な量産品は昔は壺と土管だった様ですが、残った商品は建材として活用されています

 

強度は大丈夫なのかな?と不安ですが、中身が空洞でなければ大丈夫ですよね 塀にしてるのは何だろ?

 

通称「土管坂」 観光地として常滑の特色を出してるんでしょう

 

 

 近年は郊外の大きな工場に移っての大量生産が主流なのか、はたまた後継者難で廃業を余儀なくされたのか、廃屋の窯場も多いですね。

 路地沿いには、観光向けとは思いますが、路面や擁壁などに名産の陶器を使った個性豊かな意匠が為されていて、“やきものの町”の良い雰囲気は味わえるだけに、有名観光地に育てるには、常滑市の観光協会としては“継続”が重点課題ですね。

 

 あとひとつ、パンフの表記と道沿いの看板表示が必ずしも一致しておらず、狭く複雑な路地も相俟って、経路が判りにくく歩きにくいですね。

 おまけに、路地の辻で迷って“あっちだこっちだ”とやっていると、民家の中から『うるさい!』という怒声が飛んで来ました(^^;

今や閑静な住環境のみを求めてる住民も多いのですね。

 

新たな工房はクルマが使える麓の方に移ってるやに見えます

 

それに伴い路地沿いの昔ながらの工房は、だんだん廃れてしまうんでしょうね

 

廃屋の草むらに残されたモニュメント(?) 意欲的な作品に見えますけどね

 

開いていた店舗は一軒だけでした(販売のみ)

 

 

 『常滑焼はもう要らない!』…という奥さんの一存で、常滑を後にします。

時刻はまだ早いので、気分直しに近場での墓参りに誘いました。

 『最近、城めぐりより墓参りが多いよね』という声ですが、城郭より城主の生き様が興味の主体になっている昨今、それは自然な流れですよね(^^;

 

まだ初詣客で賑わう野間大坊に着きました

 

参道にはまだ出店も出ていて、本堂で手を合わせる善男善女を横眼に…

 

 

 知多郡美浜町野間にある“大御堂寺野間大坊”は源義家の終焉の地で知られており、息子の頼朝により墓所も営まれています。

 平治元年(1159)の平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、東国に逃れる道すがらこの野間に辿り着きました。

頼朝ら子供達ともはぐれ、馬も失って近臣数名とやっとの思いで着いたそうです。

内海の野間は同道している家臣の鎌田政清の舅である長田忠致の在所であり、彼を頼った様です。

 

 京を逃れて3日、やっと一息つけた義朝でしたが、義朝の敗戦を知っていた長田忠致は息子の景致と示し合わせて、娘婿の政清を酒に酔わせて滅多斬りにすると、入浴中の義朝を襲って殺害してしまいました。

すべては清盛からの恩賞欲しさゆえの事の様です。

 

義朝さんの墓所にまっしぐら 『鎌倉殿…』の名残りか、次々に人が入って行きます これは…鎌倉の頼朝さんの墓より立派かも(^^;

 

正面の義朝の墓は大きな宝篋印塔でした  木切れが沢山積んでるのは、あれは木刀を模していて、湯殿で襲われた義朝が『この手に木太刀の一本でもあったなら…』と悔やんだという伝承から供えられているのです

 

舅に殺された鎌田政家とその妻の墓 父に夫を殺された妻は、迷わず夫の後を追って自害しました 現在では有り得ない事ですね…たぶん

 

池禅尼の供養塔 『頼朝を殺すな!』とハンガーストライキを始め、結局清盛が折れたのだそうで、頼朝は恩も怨も決して忘れずに、20年後に報いた訳ですね

 

 

 思惑通り、恩賞に“壱岐守”を貰った忠致でしたが、その行賞には不満で、『せめて美濃か尾張の国司なら…』と周囲に洩らしていた様です。

 時は流れて治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で兵を挙げると、なんと臆面も無く駆け付けたのが忠致でした。

頼朝はつとめて寛大に接し、『懸命に働いて平家を倒したら、美濃と尾張を与える』と約したそうですが、いざ平家が滅ぶとすぐに捕縛されて斬首に処されました。

 その時の口上は『わが父を騙し討ちした事は許し難し、依って約束通り身の終わり(美濃・尾張)を与える』だったそうです。

 

 義朝の墓所は野間大坊の本堂の右隣にあり、石塁で囲われた立派な墓所ですが、これは頼朝による整備と言われ、義朝の墓碑の他にも共に殉じた鎌田政清夫妻の墓と、捕らわれた頼朝の助命をした清盛の継母:池禅尼の供養塔も祀られています。

 

義朝の立派な墓の右手奥に、もう一つ小さな墓が有りますが…

 

直接関連はありませんが、織田信孝の墓(胴塚)でした

 

 

 この墓所の片隅にはもう一つの墓があります。

それは時代は下がりますが、天正11年(1583)にこの野間大坊で自害した織田信孝の墓なのです。

 信孝は清須会議までは信長の後継候補のひとりでしたが、会議の結果家督は三法師となり、信孝は岐阜城に拠ってその後見人に甘んじます。

秀吉の専横に不満な信孝は織田家宿老格の柴田勝家と結んで対抗しますが、賤ケ岳の戦いで勝家が滅亡すると為すすべが無くなり、兄:信雄の兵に囲まれて開城降伏します。

 

 この時に、家臣団の主力だった伊勢の神戸氏勢に見捨てられた信孝は、僅かな供回りだけで長良川を下り、知多の野間に移って野間大坊に入りましたが、すぐに信雄の命が届き切腹させられたそうです。

その際に詠んだ辞世が

『昔より 主を討つ身(内海)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』 と伝わります。

四百年あまり前の源義朝の古事に準え、その無念の大きさを顕した訳ですね。

 

東海道関宿にある信孝の菩提寺 福蔵寺

 

信孝の墓碑(首塚) 四百年祈に再建されました

 

この説明板で概略が判ります

 

 

 自害後の信孝の首は、近臣の大塚俄左衛門長政が伊勢神戸に運んだそうですから、この墓は“胴塚”と見て良さそうですね。

しかし神戸城では首の受け取り・埋葬を拒まれたので、長政はやむなく信長の慰霊にと建立中だった東海道関宿の福蔵寺に持ち込み、首塚を作り弔ったそうです。

 

これでやっと私の脳内で、織田信孝の首と胴がつながりました。

 

今回登場した武将

左:『清盛』より源義朝 演:玉木宏さん 眼だけで演技ができる優れた俳優さんです

右:『清須会議』より 織田信孝 演:坂東巳之助さん 軽薄な信雄との対比が面白かった