『栗田家:縄生城』 三重郡朝日町縄生2645
今回の取材の最後は栗田家の縄生(なお)城です。
栗田家は『北方一揆』『十ヶ所人数』のどちらにも加わらない独自性の強い氏族であり、朝明郡の近郷に広く根を張って浸透していた事から、鎌倉以前からの国人で、縄生城を拠点にしていたのではないかと思われます。
一説に伊勢氏綱(後北条)の氏族説も見られますが、検証はできませんでした。
縄生城址へ向かう途中にある小向城址(展望公園) ここも小領主の城でした
南西には先ほど訪ねた柿城址と遠方の高速道路の向こうに広永城址 この距離感で丘陵上に並びます
南に臨む四日市港
真東の長島スパーランド 桑名衆にとってこの展望の良さが“十楽ノ津”を扼す敵船の早期発見に有効だったのでしょう
北東は遠くに名古屋のビル群 左手の森が次に訪ねる縄生城址です
織田信長の伊勢侵攻に際して、栗田家は早期の段階で降伏・臣従した模様で、織豊期を通して攻め滅ぼされる場面は免れています。
しかしながら、寄騎した大名がすべて大戦で負け組になる不運が重なり、飛躍する機会が無いまま豊臣政権末期には帰農の途を選んだ様です。
当主だった栗田監物允秀景は、員弁川対岸の桑名郡大福に了順寺を開基して住職になったという事です。
現在も、縄生城址にある苗代神社*には氏子にたくさんの栗田さんが名を連ねていました。
朝日町史にある縄生城比定地と現状 城郭の山が削り取られ、線路と住宅団地になっています
丘の北東斜面が削り取られ、線路が敷設された様子が判りますが、この間に城郭の峰が有った様です
今昔マップ 近鉄線敷設前の大正9年の図と比較すると、北東の峰がひとつ麓から無くなっている事が判ります
古絵図を現在の地形に当て嵌めてみると、こんな配置の仮説が妥当に思えます
縄生城は朝日町北西丘陵の最北端の丘に築かれた山城ですが、公式の朝日町史によると、明治21年の関西鉄道(現:JR関西線)の敷設で一部が切り崩され、大正年間の伊勢鉄道(現:近鉄名古屋線)の敷設では主郭部が大きく削り取られ、残部もその後の土砂採取で完全消滅した城址…となっています。
しかし、訪城前の事前調査で関連する資料を調べて行くに連れ、この見解に大きな疑問が浮かんできました。
苗代神社参道入口 登りながら右に曲がって行く配置が、縄生城古絵図の大手虎口と似ています
参道を昇り詰めた社務所の平場 右手に馬出しが有り、三ノ丸跡では?
左に曲がって折り返した一段高い拝殿 位置的に登城路の途中で、本丸跡では無さそう
社務所の右手から奥に帯曲輪状に平場が繋がっています…
荒れた竹藪になって来ましたが、帯曲輪の平場が続くのが確認できますね
帯曲輪の途中で急に視界が開けます
まず、縄生城の規模ですが、朝日町史には開発前の地形図と想定する約150m四方の城郭範囲の図が載っており、発掘調査で井戸跡や陶器、鉄器が見つかった事が書かれています。
小さい…が、動員兵力100名程度の小豪族なら、アリかも知れませんね。
次に縄生城とされる古絵図があります。
これには、本丸から四ノ丸まで階段式に積み上がる縄張りと、周辺にも幾つかの曲輪が付随しており、とても150m四方に入り切る構えではありません。
下に線路があり電車が走って行くので、削った斜面の上端に出た様ですね
小径が有ったので、そのまま進めば北側の広い曲輪に着くと思い進んで行きましたが、雑草の藪が深くなりました。 想定外の行軍には装備不十分なのでここで断念。
土手を直登して二ノ丸曲輪を目指し迂回します 北から谷が入りこんで来てるなぁ
土塁状になった尾根 ちょっとイメージと違って来てる…
竹藪が開けて、送電線の鉄塔があります 位置的には二ノ丸広場?かと思うのですが、イマイチ削平が曖昧ですね
そして、縄生城が歴史資料に登場する唯一の事例が羽柴秀吉による活用です。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦において秀吉は、伊勢長島城に籠る織田信雄に対峙するため、縄生城を改造して本陣としており、11月7日入城から桑名で信雄と会見した15日までは少なくとも在城しています。
秀吉には秀長や蜂須賀正勝など羽柴家主力軍が同行しており、至近の柿城、桑部城などにも分散した様ですが、数万の軍兵が居た筈ですから、いくら何でも手狭ですね。
辺りに二ノ丸候補の平場が幾つか有りますが…
どれも広さ、土塁などの防備の不足で決定打になりません
神社拝殿裏からの登り道に出ました これを登るといよいよ本丸跡か?
期待が膨らみますが、しかし相応する平場はありません 元々本丸として十分には郭が整備されなかっただけかも知れませんね![]()
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時刻も押して来たので、最後の望みを賭けて北側の広い曲輪を見つけに竹藪に突っ込んで行きます。
最後に、隣接する苗代神社のレイアウトと神社が鎮座する山体の地形です。
失われた城址と神社のエリアを合わせると、古絵図の縄張りがスッキリと収まる気がして来ました。
神域なので滅多な事は言えませんが、苗代神社こそが縄生城址なのではないか?…
という前提で、神社裏手の山中にその痕跡を探して歩きました。
平場はぼちぼち有りますが…
見通しの効かない竹の量と倒竹に覆われ、曲輪機能の確証は持てません 近世の耕作地かも?
堀切なども部分的には確認できるのですが、曲輪としての纏まりが判別できませんね
ここの平場なんか随分広いのですけどね。
遂に検証を断念して西側の谷間道へ出ました。
『そんな筈はない…』という想いから、ちょっと深く踏査して見ましたが、山の荒れ具合が想像以上で、残念ながら確証にたどり着く事は出来ませんでした。
ただ、様々な状況証拠から神社も一体となって縄生城を構成していた事は間違いないと思います。
しかし、朝日町教委がなぜ小さな範囲で無理に纏めたのかは疑問ですね。
ひょっとして今現在、特殊利権の様な巨大な虎の尾を踏んで、踵でグリグリしてる状況なのかも知れませんね![]()
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おわり




























