2ヶ月半ぶりの久々の投稿です。
毎年恒例行事の“秋の味覚『川上屋の栗きんとん』”を求めに中津川まで出掛けたので、最寄りの美濃金山城に寄って来ました。
日本200名城 №143 美濃金山城 岐阜県 登城日:2022.9.30
別名 兼山城、烏ヶ峰城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 複合式層塔型2重2階(現存せず)
標高/比高 280m/160m
築城主 斎藤正義
築城年 天文6年(1537)
主な改修者 斎藤正義、森可成、森長可
主な城主 斉藤氏、森氏、石川氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 石垣、土塁、郭、堀、井戸跡
指定文化財 国の史跡
所在地 岐阜県可児市兼山
美濃金山城は木曽川中流域の左岸にある山城で、戦国時代には東美濃地方を代表する重要な城のひとつでした。
“金山城”という名の城は全国に多々あり、日本百名城にも上野の(新田)金山城があるので、便宜上“美濃”を付けましたが、実名は“金山城”なので、以降は“金山城”と表わして行きます。
まず城下にある『戦国山城ミュージアム』で情報収集 展示品はイマイチでしたが、概要が解るパンフや資料はありました
多少の加飾はあるとして、築城時期に珍しい総石垣の城だった様です 左下の出丸が駐車場ですね
この地形の解る立体図があると一番有難いです
初期の城主:斎藤正義の画像 今でも工事現場で見掛けそうな総髪の容姿ですが、この人が関白近衛家の御曹司で、あの近衛前久の弟なのです。
金山城が初めて築かれたのは天文6年(1537)の事で、美濃を手中にした斎藤道三が近隣の14人の豪族に命じて築かせました。
道三はこの城に猶子の斎藤正義を置いて近郷を治めさせるとともに、尾張の織田氏に対抗する拠点としましたが、武将として優秀だった正義は、斎藤家中での声望を高めるに連れ自らを“大納言”と自称するなど次第に増長が目立つ様になって行きます。
これには正義の出自の背景があり、時の関白:近衛植家の庶子に生まれた正義は幼くして仏門に入れられるのですが、武芸を好んだ正義は寺を抜け出すと、付き人の姉が道三の妾だった縁故で美濃に下り、道三の客分(猶子)に収まっていたのです。
その当時、近衛家の貴種は相当に珍重された様で、“名ばかり守護”だった土岐頼芸がらは道三よりも厚遇されていたそうです。
城址へと登って行きます 比高160mの鳥ヶ峰にある金山城ですが、城域は山頂部に限られるので、近くまで車で行けます。 南側に広がるのは光秀ゆかりの明智の郷
尾根の東側を遮断している堀切
すぐに石垣遺構が見えて来ましたが、あれが城外の出丸の様です
出丸は駐車場として整備されており、西側と北側の遺構は損なわれていますが…
南側には3m程の石垣が積まれています
もちろん野面ですが、当時のまま完全に遺る唯一の遺構だそうです
天文17年(1548)、配下の久々利頼興に酒宴に招かれた正義は久々利城内で謀殺され、金山城も久々利勢に攻め込まれ奪われてしまいます。
斎藤家にとっては支配豪族の反乱とも言える事態ですが、久々利頼興が道三によって処罰される事は一切なく、より一層重用されたと言いますから、マムシ恐るべしです。
永禄8年(1565)、織田信長が美濃への攻略を開始すると、金山城は配下の森可成に与えられます。
森氏は尾張国葉栗郡(現:岐阜県羽島郡笠松町)を地盤とする騎馬の扱いに長けた(?)豪族で、美濃守護の土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三の下克上には与せず、織田氏へと主を乗り替えました。
織田家中での可成は、尾張平定戦や桶狭間の戦いでの武勇から『攻め三佐』の異名が付けられ、美濃進攻でも活躍したのですでに織田家宿老の一人になっていました。
東美濃は甲斐武田氏の領地と接するので、地元の豪族達の帰趨に影響の有る人選だった訳ですね。
車道を少し戻ると登城口があります ここで二人の先客とすれ違いましたが、その後は貸し切りでした
廃城時に破城された城だけに覚悟はして来ましたが、すぐに破城痕が眼に入ると憂鬱になります…
殆ど積み石が無い二ノ丸の基壇 こりゃ徹底してるわ(^^;
三ノ丸と搦手門跡
此処から城下まで搦手道があった様ですが、荒れています
二ノ丸口にある碑は民間に山や樹木の活用が認められた記念碑 昭和30年まで尾張藩や皇室の御用林だった様で、遺構が保護された大きな要因でもあります
永禄11年(1568)、足利義昭の要請を受けた信長は上洛を敢行します。
先鋒は柴田勝家と森可成が努めました。
敵対する六角勢を鎧袖一触で追い払うと、京にあった三好勢は戦わずに四国まで逃げ去る始末で、難なく上洛を果たした信長でしたが、京の治安維持のため可成に命じて近江の湖西から京に至る宇佐山に新城(宇佐山城)を築かせ、東の守りを命じます。
この城は織田氏初の石垣造りの城として知られ、金山城との共通点が窺われる所ですが、この頃の可成は畿内の反織田勢力との抗争に東奔西走しており、居城の金山城に石垣普請をするには多忙に過ぎるので、それは後年の事と思われますね。
二ノ丸は本丸に匹敵する大きな郭で、侍屋敷…となっていますが、そこまで広くはないので兵舎が有ったのでしょうね
二ノ丸の奥からは左近屋敷方面への武者走りが遺っています
三ノ丸北曲輪から見上げる西腰曲輪と本丸の壁面 樹木が伐採され見やすくなっていますが、一部鉢巻き状の石垣が遺るものの、夥しい数の崩落(落とされた)石の数です
大手道の石段は一部復元されています
石段を登り詰めると、石垣で囲まれた大手枡形となっています
土砂の流入で埋まっていますが、フラットな枡形だった事でしょう 石段の上に四脚門があり、向こうの西腰曲輪には二重櫓が載っていた様です まだ弓矢の時代、何やら新しい城づくりの思想が伺えます
元亀元年(1570)、信長は三好三人衆を討滅すべく主力4万を率いて摂津に出陣しましたが、この機に浅井・朝倉連合軍は3万の兵力で南近江に進出し、信長の背後を衝こうとします。
信長の弟:信治とともに宇佐山城に居た可成は、信長に伝令を送るとともに1千の兵を率いて坂本に布陣し迎え撃ちました。
緒戦では朝倉景鏡の隊を撃退した可成でしたが、連合軍の総攻撃が始まり、本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵が敵方に加わると戦況は著しく悪化し、激戦5日の後、可成は信治とともに討死にしてしまいました。
報を受けた信長は、その4日後には近江坂本にまで本軍を戻した為、連合軍の入京はならず、比叡山に籠って対陣し、後に和睦、撤退となりましたが、有能な弟と信頼する重要な家臣の可成を失った信長の嘆きは大きく、後の比叡山焼き討ちの動機となってしまいます。
枡形から南腰曲輪へ登る石段
南腰曲輪には多聞状の平櫓があ有った様で、礎石と土塁痕が見られます
本丸高石垣の下を東へ進み、本丸虎口へ向かいます 高石垣は上部が崩され埋まっていますが、一部がトレンチされ元の壁面が解りやすく展示されています 4mほどの石垣で囲われていた様ですね
高石垣下部の角石 いちおう大石が算木に積まれおり、右の上部からの落下石も大きいので、穴太の技術が反映されていますね
本丸の枡形虎口 大手枡形よりやや小ぶりです
左折れで本丸に登って行きます 門外に溜り(スペース)が無いので、門を破っての強行侵入はほぼ不可能ですね 良く考えられています
主を失った森家ですが、可成の嫡男の可隆(19歳)はこの年の4月の越前攻め(手筒山城攻め)で初陣したものの、森家の子らしく深入りし過ぎて討死にしていたので、家督は二男の長可(13歳)が継ぐ事となりました。
《後編》につづく