ご無沙汰です。

すっかり戦場と化した自治会の仕事も一段落したこの週末、遅めのお盆休みで墓参に出掛けたついでに、ちょこっと姫路城に寄って来ました。

 

 『いまさら姫路城?』…といった感は否めませんが、何度行った城でも見てない場所は有るもので、特に“非公開”になってる部分は脳内で『見たつもり』にしてるものです(^^;

そんな“残尿感”の様なモヤモヤに火をつけたのがこのチラシでした。

 

 

 3つの小天守を従えた連立式天守で、それらがギュッと近寄る事で特有の構造美を誇っている姫路城ですが、大天守と並び国宝ながら普段は見る事の出来ない東小天守と乾の小天守の2階、3階部分とそれらを繋ぐイ、ロ、ハの渡櫓の2階部分、そして重文である天守台の南東下にある折廻り櫓の6基の建物が同時に特別公開されているのです。

これは、何を置いても見とかにゃあ!(^^)!

(以下、特別公開部分の感想は写真と添書きで紹介して行きます)

 

いつもの大手(桜門)から内堀を渡り、内曲輪に入って行きます 堀幅はともかく、高石垣は倍の高さが欲しいよなぁ…と思うのもいつもの事

 

伏見城から形見分けの菱櫓門から入城  アジア系外国人観光客が戻って来てますね

 

ろの門からはの門に掛けて土塀修理中 大きな城ですから、常に何処かを修理しています

 

連立天守が見えて来ました 小天守は記憶にないから、たぶん入った事ないと思います(右側の西小天守は今回も非公開)

 

甍の波に吸い込まれる様に、大天守から入って行きます

 

 

 姫路城は存在感のある優美な連立天守を中心に、多くの遺構と櫓類を遺す大城郭で、世界遺産が示す通りとても価値のある城には違いありません。

しかし、多くの名城を見て来てこの城を見ると、以前から凄い違和感を感じていました。

本文ではそんな独り言をツラツラ書いてみます。

 

大天守1階から見る乾小天守付近の様子 ほんとだ、人が入ってる!

 

これが東小天守への通用口の筈だが…閉まっています

 

大天守2階の格子窓から見るハの渡り櫓の様子 賑わってますね

 

同じく、乾小天守最上階の様子 何処からあそこへ行くんだろう?

 

結局は順路に沿って大天守最上階まで登り、また1階まで降りて来た所に関所がありました(^^;特別公開部分は\500の別料金です

 

くぐり戸ではなく、階段を登ってイの渡り櫓2階から入って行きます(客層は一気に日本人のマニア系に(^^;)

 

 

 現存の姫路城が池田輝政による築城なのは周知の事ですが、普請奉行:伊木長門守忠繁、大工頭:桜井源兵衛というのは、あまり一般には知られていません。

伊木忠繁の父の忠次は古くからの織田家臣で、池田恒興に請われて池田家臣団に加わり、筆頭家老を勤めた人ですから、かなり名の通った将と言えます。

 (長久手の戦の後に秀吉は、池田家の家禄の大半を忠次に与え、池田家は改易する腹積もりだったそうですが、忠次が頑なに拒んで輝政の相続に導いたという話もあります)

 嫡男の忠繁はというと、築城が始まった1601年はまだ21歳で、伊木家の相続も2年後の事ですから、武将としてはぶっちゃけ素人…ですよね。

 

イの渡り櫓2階の格子の無い窓から見る中庭 正面が台所櫓でその奥に乾小天守 大天守は左側の建物です 『え?3階でしょ?』と言う勿れ、姫路城の中庭はB1という扱いです

(次の東小天守内は団体とガイドさんでイッパイだったのでこれ幸いとパスしました)

 

その理由は…、とにかくこの日に必ず行きたい主目的の場所が此処だったんですよ(^^)

信濃松本城と同様に築城時の手斧仕上げの420年前の床板がそのまま遺っている、ロの渡り櫓です

 

国宝世界遺産の床に失礼かと思いましたが、ここは靴下を脱いで、いつも頑張ってくれてる足の裏にも最高のご馳走を味合わせやりました(^^;

 

乾小天守から 北側を見下ろすとイとロの渡り櫓、その下には勢隠丸と中堀を挟んで中曲輪の武家屋敷地だった緑地、城外の遠くには聖地:書写山も見えています

 

同じく、イの渡り櫓を見返す

 

乾小天守最上階から見る大天守 近すぎて全貌は写りません(^^;

 

中庭もこんな風に見えます

 

西小天守越しに見る姫路駅方面

 

ハの渡り櫓からは台所櫓の様子が良く判ります

 

乾小天守越しに西ノ丸の千姫御殿(化粧櫓)を見る  結局は、渡り櫓の廊下板と外側の珍しい被写アングルだけで、櫓内部にはさして見るべきものは見当たりませんでしたね。

 

 

 桜井源兵衛はというと、天守の竣工後に傾きに気付いて自殺した事以外は知らない人です。(私の知識不足なだけかも知れませんが(^^; )

…という事で、普請案に輝政や重臣達の色んな意向がゴチャ混ぜに働いてる気がします。

 

輝政の御殿跡の備前丸に降りて来ました 最後の特別公開部分は…

 

天守台の東にへばり付く様に建つ折廻り櫓です 此処は北面の多聞櫓が南へ90度折れて、大手の備前門の櫓も兼ねているので、さぞや守りに特化した重要な櫓かと思いきや…

 

いきなり茶室が現れてぶったまげ(^^; けど、窓の下の四角い枠は鉄砲狭間です

 

窓の外はへの門とその奥にニとホの渡り櫓 普段は見れないアングルです

 

この櫓の用途は一体何だったのか?、案内に居たちょっと浅田真央ちゃん風のお姉さんに訪ねて見ましたが、備前門の石落としを説明する様にだけ言われてるらしく、そればかり繰り返していました(^^;

 

外に出て来ました 腹切り丸は今日も非公開

 

チの櫓下の埋門が開いていたので、こちらから出て行きます

 

しかし、輝政は日本有数の勢力を抱えながら誰が怖かったのか、埋門だらけですね(^^;

 

これは西ノ丸のワの櫓からの絵ですが、ちょっと気付いた事があったので、この後堀の向こうの好古園に行って見ます

 

 

 渦郭というか、本丸梯郭の広大な縄張りは収容する家臣団の多さを物語り、太守の城の威容を誇っている訳ですが、平坦な外曲輪、中曲輪からさほど広くない堀と高くない石垣を越えて現存する内曲輪に入っても、平坦な広い三の丸が広がっています。(殊に技巧的な面白い城ではない)

 そして、いざ決して広くはない本丸に脚を踏み入れると、一転して何とも言えないゴチャゴチャ感に戸惑ってしまいます。

 それが得も言われぬ集合美を醸して、類稀な美しい城に仕上げられているのはその通りなんですが、登城路の小細工とも言える過剰な仕掛けの数々も、天守群の異様なまでの迎撃構造も、あまりに守りに特化し過ぎて“太守の城”には似つかわしくない…と思えてしまうのです。

 

好古園は本多家時代の西屋敷跡を使った庭園ですが、樹木に覆われていて入場料は“日陰代”になります

 

まばらな客は日本人も少なく、欧米人が主体ですね

 

気になっていたのは西ノ丸多聞群下の土塁(切岸)と石垣の状態ですが、気が邪魔してまったく見えません

 

入口に戻って、内堀端の道を北へ進んで行きます 見えてるのは西ノ丸ワの櫓とレの渡り櫓でしょう

 

しかし、予想以上に樹木が繁茂し、境目の様子は判りません これは相当上まで土壇のままで、鉢巻きの石垣は僅か…という事でしょうね

 

南勢隠門まで来たので、このまま勢隠丸の内堀沿いをグルリと廻って見る事にします 勢隠丸は北面の緩衝地兼巨大な馬出しですね

 

南勢隠門を過ぎると内堀の幅は10m前後と極端に狭くなり、切岸の様子が垣間見れる様になって来ました

 

西ノ丸化粧櫓の下まで来ると、土壇と石垣の様子が見えて来ます 石垣は3m程度の鉢巻きの様ですね

 

 

 例えば真田昌幸クラスの兵力3千程度ならやむを得ないでしょうが、70万石で兵力2万以上の池田家がそれ以上の誰と戦うのか知りませんが、3千程の家臣を厳選して本丸に籠り、ひたすら防戦して耐え、徳川の援軍を待つというコンセプトで造った城なの?…という感じです。

 やはりこの城の防衛線は内堀のラインで、内曲輪全周を高石垣と多聞で固めるべきで、逆に本丸は快適な居住空間に特化ですよね。

名手:加藤清正、藤堂高虎や蒲生氏郷の城造りのコンセプトの対極にある気がします。

どなたか、詳しい方がご教示下されば幸いです。

 

少し進むと北勢隠門の跡が見えて来たので、ちょっと見て行きます この外に中堀が巡り、中曲輪になりますが、すぐに城外に出る門と繋がっている筈です

 

中堀は石垣で護岸された豪華版な水堀でした 幅は15mほど

 

中曲輪へ出る北勢隠門の枡形の一部と、向こうの石垣は城外に出る清水門の枡形です。2つの枡形門はほぼ一体化していますので、唯一の凝った城門遺構と言えます 天守から直距離200mで城外とは…ちょっと近すぎるかも

 

内堀の端に戻って、裏天守 これもあまり見ないアングルですね

 

東をグルリと廻ってきて、帯の櫓の下から三の丸に戻ります 此処の高石垣は26mの高さがあり、大阪城、上野城、熊本城に次いで4番目の高さを誇ります

 

三の丸手前の内堀は秀吉の頃の姫路城の堀をそのまま使っていると言われます

 

堀の延長は空堀となり、やがて竪堀となって姫山の本丸に登っていた…と言われます この辺りかな?

 

 現存12天守の中では綺麗で大きな連立天守が群を抜いて威容を誇る姫路城ですが、江戸初期に荻生徂徠が姫路城を三名城に選ばなかったのは、『さぁ致命傷を覚悟で攻めて来なさい!』的な気概や覇気を感じなかったから…ではないかな?

 

 敢えて輝政に好意的な見方をすると、徳川の信頼との代償に御殿風の城に抑えるしかなく、父兄の怨みや覇気の片鱗は使えない本丸に限定し、モデル的に示した…とも解釈できます。

しかし結果として池田輝政が取り立てて“名将”と評価される事も無い訳で、後年に森忠政らがガチンコの城を造るのを見た晩年の輝政は『失敗したかな…』と思っていた事でしょうね。

 

 

*やっぱ姫路城は日本一キレイで立派な城…と思って観てる方が幸せですよ(^^;