墓参の帰り道、車が多くてトンネル続きの山陽道を避け、渋滞も無くほぼ貸し切り状態で景観の豊かな中国道を、寄り道しながらゆっくり帰って来ました。

 

 最初に訪れたのは真庭市の『神庭の滝』

例年以上に残暑の厳しい日々に、“一服の涼”を期待しての訪問で、全国的には無名ながらも“日本百名瀑”の滝ですし、数日雨が続いた後なので、水量も期待できます。

 

平日に8:30の開園を待っての入場で当然独り占め、聞こえるのは渓流のせせらぎのみで、涼感タップリです

 

滝が見えて来ましたが、やはり水量は多めですね 何時もならこの辺りにはサルの群れが遊んでいる筈なんですが… この日は別の場所へ遠征中らしい🐵

 

自然保護の為か、予算の問題か、観漠台などの人工物が無いのは結果として嬉しいですね(^^;

 

おそらく訪れるのは最後になるだろうこの滝が、今までで最高の姿で良かった(^^)

 

 地元の観光地で子供の頃から馴染みの滝ですが、おそらく水量は最大だったでしょうね。

猿は居なかったけど、予想以上の涼感に至極満足でした。

 

 

 

 また中国道に戻って東へ、 姫路・福崎からは播但道に入って北へ向かい、朝来、養父を通って出石に向かいます。

『ははぁ~ん、次は有子山城だな…』と思った貴方、半分正解ですが、家族連れなので名目はあくまでも“出石の信州そば”です(^^;

 

出石に着きました お馴染みの辰鼓楼ですが、暑いのに観光客がイッパイ居ます(^^;

 

手打そばの店もイッパイ 駐車場の観光センター周りだけでも数軒見えます 郊外にそば畑は見当たらなかったんだけどなぁ…

 

出石は伝統的建造物群保存地区にも指定されていて、古い建物が特徴のある店舗として味を出しています

 

関宿も大いに参考になりそうですが… 食べ物の力は如何とも

 

少し散策しながら、蕎麦店を物色します

 

 

 兵庫県で信州そば?… と思うのは至極当然でしょうが、実は信州上田藩の仙石氏が宝永3年(1706)に出石に移封となった際に、そば職人を大勢連れて来て始まったのが“出石そば”なんですね。

 蕎麦の技法には詳しくはないですが、出石のそばは黒い外殻を取り除いてから製粉する“更科粉”を原料にしているから、“信州そば”の技法と言って差し支えないかと思います。

*私達がやってるのは、外殻ごと石臼で挽いて篩で濾し取る“玄そば”で、殻の微粉末が入るからグレー色でブツブツが残ります

 

この店は古い石臼がいっぱい積み飾ってありました 城の石垣には使われなかったのかな?

 

この店には涼しげなオブジェが… よく見えないと思いますが、篭の中に『本日の使用粉 北海道幌加内産』と書いてあります おいっ!

 

私達が食べたのは『出石皿そば巡り』で、永楽銭3枚(チケット)入りの巾着を買い、加盟40店舗のうち好みの3店舗を食べ歩くというものです

 

最初に入ったのは駐車場近くの『花水木』さん 皿3枚が一人前ですが、薬味も豊富で、よく締まった細身の玄人受けしそうな味でした

 

次に入ったのは通り1本北の『如月』さん ここのそばは締めが緩く柔らか目で、生わさびの風味と良く合う様に考えられてる気がしました

 

 城下町:出石の始まりは、室町時代の南北朝期にまで遡り、但馬国守護の山名時義が出石を本拠地にし、現存の出石城の北2㎞の此隅山に築城して300年近く栄えました。

 永禄12年(1569)、織田信長の攻勢で羽柴秀吉軍が攻め寄せると、此隅山城は落城して山名氏は一旦毛利氏の元に落ち延びます。

しかし後の和睦交渉で織田傘下に入る事で但馬の領有を認められ、山名祐豊は出石に復帰して新たに現在の地の有子山山上に築城し、麓に居館を築いて(現在の出石城)城下町を形成し本拠地にしました。

 天正8年(1580)、山名氏は再び毛利方に転じて秀吉の進攻を受け滅亡してしまいます。

 

 

最後の店は辰鼓楼の脇の『本陣鶴屋』さん

 

この店は場所柄か団体客も入れる広い店で、薄利多売の為か配膳の仕方もこうなります(^^;

味もそれなりの味でした

 

さて、お腹も膨れて店を出て、ふと振り向くと出石城が口を開けて待っており、山上でも有子山城跡がオイデオイデしています…

 

が、しかし旧跡も多い出石の城下町 降りて来てからではパワーメーターの残りが心配なので、サラッと見ておきましょう(結果的にこれが良い判断だった)

 

木の切り株の上に造られた おりゅう灯篭

 

 

 秀吉政権下での出石には前野長泰、次いで小出吉政の豊臣譜代が配されますが、関ヶ原の戦では小出氏は吉政と弟の秀家が東西に二股して、見事に所領安堵を勝ち取っています。

 江戸の幕藩体制では吉政は、山上の有子山城を廃して麓の居館部分だけを“出石城”として幕府に登録し、石高6万石の出石藩となりました。

 その小出氏も約100年後には無嗣改易となり、新たに武蔵岩槻から松平忠周(藤井)が入封しますが、幕閣の忠周は10年後の宝永3年(1706)には信州上田に移封となり、替わって上田から仙石政明が蕎麦職人を連れて出石に移って、明治維新まで仙石氏の統治が続きました。

 

維新前に桂小五郎が隠れ住んだ邸跡 “七卿落ち”に同道した小五郎でしたが、自身はこの出石に留まり、探索の眼を逃れながら8ヶ月間にわたりアングラ活動したそうです

 

川崎尚之助生家跡 誰やねん? 大河ドラマ『八重の桜』で長谷川博己さんが演じた八重の夫ですね

 

同行の助さん格さんに『もういいでしょう?』と言って有子山を見ると、怪しげな黒雲が覆い始めています 

あっ、これヤバイ! と急ぎ駐車場に戻った刹那…

 

風呂桶をひっくり返した様な豪雨に見舞われました

 

 通り雨だからすぐに止むでしょうが、山城好きの関西人の聖地でもあり、元々ハードルの高い有子山城の登城はもう無理ですね。

 せめて出石城だけでも…とも思いましたが、この二城は一体のものですから、日を改めて同時に権兵衛イジリ…という事にします。

 

 帰りはR9から近畿道豊岡線、敦賀線を経て中国道吉川JCTに至り、出石を出た3時間ちょい後にはもう自宅に居ました。

昔は出石なんて、完全に日帰り圏外だったんですが、いやぁ便利になったもんです。