永らくのご無沙汰です。
2年任期の自治会のお役目もあと僅か… 後任も決まり、継承も順調なので、ちょっとフライングですが、『街道歩き』から復活します
今回は我が町にある東海道関宿から奈良市まで続く『大和街道』を歩き、大仏さんの顔を見てこようか…と思っています🦌
もちろんJR関西線を使った分割払いで、1日目は起点の関宿から伊賀市の御代(最寄り駅の新堂)まで歩いて来ました。
大和街道は三重、京都、奈良の山間部を縫って行くルートになり、古道の雰囲気もよく遺っていそう…
1日目は伊勢平野から加太越えで伊賀盆地に抜ける、いきなりの難所コースです
東海道関宿 西の追分 ここから西に分岐して始まる大和街道
鈴鹿峠に向かう国道1号線からは、関宿西交差点を左折します
大和街道は旧来は『加太越え奈良道』と呼ばれていました。
鎌倉街道と同様に、本来は大和に向かう道の総称が大和街道の筈ですからね。
飛鳥・奈良の時代、飛鳥板蓋宮から藤原京まで奈良盆地南部に都が置かれた時の東国への主要な道は初瀬街道が担っています。
平安時代の平安京以降は京都が都の為、東海道が発達します。
その中間の平城京の時代、東国への主街道として発達したのがこの大和街道(加太越え奈良道)ではないかと思います。
史実から見れば、壬申の乱(672)に大海人皇子が伊勢に進攻したのがこの道であり、源平合戦の頃、源義経が木曾義仲討伐に軍兵を率いて瀬田に至ったのもこの道と言われています。
また、本能寺の変(1582)に徳川家康が『神君伊賀越え』に使ったのもこの道ですから、官道に類する道だったのでしょうね。
加太川の細い谷間に国道とJR関西線がひしめいています。 亀山↔加茂間は雪・風・雨・シカに極端に弱いので有名な路線です
旧道に入った金場踏切 🔥山火事 …ではありません、スギ花粉の飛散が悲惨な状態ですね
自身は生まれも育ちもド田舎なお陰で、ただの風物詩なんですが
国道に戻って、河原にできた僅かな平場は鹿伏兎城の支城の平ノ沢城址で、石垣・土塁があります
狭隘な谷底なので、東からの関所機能が主だったか?
路傍の『栗の木地蔵』は建屋も立派で綺麗に守られていますね
江戸時代になると、沿道の大半は津の藤堂藩領となり、藤堂家により修繕・管理がなされます。
山間の伊賀と奈良・京都・大阪との交易や大和国の大名諸家の参勤交代、また東海道の裏街道としても交通は盛んで、随所に宿場が設けられ、そこそこ賑わった様ですね。
そんな事から、一般に『大和街道と言えばこの道』的な扱いになっている様です。『うちの近くにも大和街道はあるでェ』と思われた方はご容赦ください🙇
思いっきり見通しの悪い坊谷踏切を越えると、間もなく…
加太谷が広がって来ます
江戸時代には加太宿の東半分だった市場の家並み 高札場や問屋場がありました
問屋場跡の前からは国道を離れて旧道の細道に入ります この地蔵さんも良く守られてる
加太川を渡る橋は雰囲気の有る“沈下橋”になっていました
奥の山は鹿伏兎城の西の支城である梶ヶ坂城址で、街道は峠になって城址を抜けて行きます
近代の大和街道は、名称分割で上野までは国道25号線、その先は国道163号線で京都の笠置に至り、奈良県内は笠置街道から国道369号線で奈良市街に至ります。
その多くは拡幅された新道であり、旧道は市民の生活道路として遺るもの、農道と化して荒れた道、痕跡すら判らなくなった廃道まで様々ですが、それもまた街道歩きの醍醐味です。
旧跡を探して妄想し楽しみたいと思います。
橋の先にあった大和街道の説明書き🔍
峠に登って行きます 本日唯一の地道区間です😅
熊野古道や山城歩きを思わせる坂道ですが…
比高30mほどで、アッという間に峠です
また国道に戻って 路傍の石仏 ここは荒れてるなぁ
グダグダ前置きしてる間に、写真はどんどん進んで行っています
加太宿ですね。
加太(かぶと)という珍しい読みの由来ですが、諸説ある中で平安初期から有った川俣(かばた)神社が訛った…という説が有力に思います。
室町・戦国時代の加太氏の支配を経て、江戸時代には藤堂高虎の領地となりますが、狭い平地で耕地は少なく、林業の村だった様ですね。
そんな中、高虎の大和街道整備で旅人の通行が増え、加太は宿場としても賑わいます。荷駄馬が中継する問屋場がある市場集落を下加太宿、1.5km西の板屋集落を上加太宿と呼び、合わせて加太宿だった様です。
旅籠はそれぞれ4~5軒あり、上加太には藤堂藩主や家人が泊まる陣屋(本陣)もありました。
加太宿の西半分 板屋の家並みに入ります 本陣はこちらに有った様ですね
『名残松』、高虎の松並木の生き残りでしょうか?
川俣神社(現役)と川俣城址の碑 室町前期の加太氏の城が廃城となり、址に神社が遷移した様です
集落のはずれ、関西線の跨道トンネル レンガ積みの古いトンネルで、鉄道遺産じゃなかったかな? (鉄道には明るくないので)
板屋を過ぎると加太峠に向かう地形は次第にV字谷の様相になって行きます
山肌にへばりつく様に細道がウネウネと続きますが、この細道を開削したのが藤堂高虎の街道整備でした。
高虎は新しい道端に5千本の松を植えて、一気に街道らしくしたそうですが、要所には高石垣も積んだかも
それまでの加太越えの道は加太川の早瀬を何度も押し渡り、山肌の獣道を一列になってゾロゾロ登る連続で、相当な苦行だった様ですね。
トンネルを過ぎると加太越えの峠道で景色は一変 すぐに一級国道にあるまじき酷道っぷりが現れます
荒涼感の演出に貢献している砕石工場の建屋 廃屋? いえいえ現役稼働中です
平日はこの細道を砂利トラがバンバン走っています🚛
峠が近付いて伊賀市に入ると、アレ? 途端に道幅が広くなり歩道までサービスされてますやん
国は市を差別するんか?
ところで、全区間4車線以上の国道23号線に比べ、25号線がこうも酷道のままなのか、なぜ現代の土木技術で拡幅されないのか…と不可解な訳です。
やはり自動車専用の名阪国道の存在が大ですね。
つまり、地域住民の生活道路と名阪国道に乗れない原付や自転車、歩行者の道が国道25号線なんです。
まぁ、過疎化が急な地域だし、拡幅される日は来ないんでしょうね。
標高310mの加太峠頂上で街道は右に折れ小集落に入ります
一ッ家集落を抜ける大和街道の細道
すぐに国道に戻ると、左手に鴉山池の湖水が眼を楽しませてくれます 閉塞⇒開放ですね
大和街道は伊賀盆地の伊賀市柘植地内に入って行きます。
並走する広い国道を離れて、両側に適度に家並みのある旧道らしい景観です。
伊賀国の宿駅は柘植⇒佐那具⇒上野⇒島ヶ原の4ヶ所だった様ですが、この『柘植宿』に関しては、残念な事に宿場機能に関する史跡や資料に辿り着けませんでした。
*柘植歴史資料館は昨年閉館になってしまいました
室町・戦国期の柘植地域は柘植氏一族の支配地です。
織田信長の天正伊賀の乱では柘植支族の福地氏が信長に加担して織田勢を引き入れた為、一帯の寺社仏閣が焼き討ちされる事もなく、その多くが現存しています。
そうした寺社が柘植宿の本陣の役割を担ったのかも知れませんね。
*福地氏の支族の松尾氏から出たのが松尾芭蕉です
集落の外れに見られる勧請縄 近付く疫病神から村を守る結界の目的で、伊賀に伝わる風習です
路傍で見つけた『敢都美恵宮遺跡』の標柱
その反対側にある『都美恵神社』は菊紋の立派な神社でした
そんな寺社にも立ち寄って、謂われを調べて見ます。
由緒書きによると、『都美恵神社』は2世紀以前の起源と古く、祭神には倭姫命をはじめ多くの神々が名を連ねています。
倭姫命は伊勢神宮の創建者で知られますが、天照大御神のご神体の理想的な鎮座所を求めて諸国を旅して廻り、最後に伊勢の山田に落ち着きました。
その過程でこの柘植にも2年間滞在しており、その御座所が『敢都美恵宮遺跡』であり、『都美恵神社』はその跡地に霊山から遷座した様です。
柘植も『元伊勢』のひとつだったのですね。
も少し先の『徳永寺』は徳川家康に所縁の深い寺です。
本能寺の変後の1582年6月4日、家康一行は宿所の甲賀郡小川の多羅尾屋敷からこの
徳永寺に辿り着いて休息した様です。(看板参照)
その後には加太越えをして、夜には伊勢白子の湊に着き、すぐさま出港した様ですから、山間の険しい道を約60km1日で踏破とは、物凄い逃避行ですね
『神君伊賀越え』で家康が休憩した確証が遺る徳永寺
良かったらお読みください
江戸時代にはさぞ権威のあるお寺だった事でしょう
中柘植から下柘植にかけては沿道に民家が建ち並ぶものの、水に恵まれた穀倉地帯ですから、おそらくは大和街道も一面の田園と村落が点々とする長閑な風景の中を通っていた事でしょう。
伊賀国の特徴として、惣村の強さ=割拠する小豪族の屋敷を中心とした村落の形成があります。
各村々には必ず大きなお屋敷が有るんですよね。
柘植地域の心の拠り所、信仰の山 霊山(りょうぜん)です
サンガリア工場の所で国道を南に渡り、下柘植へと向かいます 工場裏には疎水が流れ、桜もあって良い散歩道になっています
下柘植に入り現れた長~い板塀のお屋敷 戦国期の中忍、江戸期の大庄屋のお屋敷なんでしょうね💰
柘植川沿いの寂しい道をしばらく歩き、御代の地内に入って来ましたが…
最寄り駅の新堂駅が見えて来たので、1日目はここまで。 関西線の汽車で帰ります🚃
2日目につづく… 予定です