雲ひとつない快晴に恵まれた金曜日、以前から気になっていながら未登城だった湖東の山城を4城巡って来ました。

 

 

 42年前に発刊された『日本城郭体系№11』には殆ど取り上げられていない、当時は無名に近い城跡だった様ですが、その後の研究の成果と地元の整備で、続100名城に選ばれるなど、山城マニアには人気の高い城跡群です。

 

 

 

近江の城  佐生城  登城日: 2022.10.14

 

 

 別名         佐生日吉城
 城郭構造      連郭式山城

 標高/比高    160m/60m
 天守構造      なし
 築城主        六角氏
 築城年           天文元年(1532)頃
 主な城主        後藤但馬守賢豊

 廃城年           永禄11年(1568)
 遺構         曲輪、石垣
 指定文化財   なし

 所在地      滋賀県東近江市五個荘日吉町

 

 

 まず最初に訪れたのは東近江市の佐生(さそう)城です。

以前のこの城は『日本城郭体系』に紹介されている近江の城572城のリストからも洩れる程のマイナーな城址でしたが、近年の調査研究により、滋賀県観光協会の『近江の城50選』に選ばれるほど有名になっています。

 

繖山山系の北の端に佐生城はあります

 

北の山麓にある墓地の駐車場を拝借しました 盆や彼岸でなければokでしょう(^^;

 

その理由は、墓地の入り口に登城口が有るからです

 

登城路は最初は急激に登りますが

 

すぐに緩斜面(最初の郭の跡か?)になり

 

さらに少し登ると…

 

北端の石積み遺構と城址看板が見えて来ます

 

 

 佐生城が有るのは六角氏の本拠:観音寺城が有る繖山の山系の北の端で、尾根続きに繋がる事から、観音寺城を護る支城のひとつとして、六角氏が築いた…と見られています。

城将は六角氏の筆頭宿老だった後藤但馬守賢豊とされており、“佐生城は後藤氏の詰め城”…という記述も散見されますが、後藤氏の居館は10kmも南の八日市市に遺るので、それは有りません。

代々敵対した北の京極氏や浅井氏の侵攻が有った場合、最前線となる城なので、その際に布陣する担当武将とする六角氏のドクトリンが有ったのでしょうね。

 

石積みは尾根の東面を3~4mの高さで続いています

 

石垣は南に100mくらい続いていますね

 

基本は野面の乱積みで、間詰め石もほとんど無い初期の様式ですが、所々に割石も使われています どっかで見た様な石垣です

 

この様に所々は堆積物で埋まってしまい、鉢巻き風になっています 発掘調査が遅れた要因のひとつでしょうね

 

 

 築城時期もこれまた難しく、一説には“織田信長の上洛阻止”の永禄11年築城説が有りますが、城主が後藤賢豊なら永禄6年(1563)の“観音寺騒動”で亡くなっていますから、これも有り得ません。

 観音寺城では天文元年(1532)、に将軍:足利義晴を迎える為、石垣を積んだ大改修が成されています。

両城の石垣の共通性などから、この年がひとつの目安になるかと思います。

但し地勢的に見て、それ以前の守護代:伊庭氏との抗争の際には既に砦機能が有った事は否めませんね。

 

南の端は横矢が掛けられ櫓台風になっています この部分は5m以上有りそうですね

 

角石は野面ながら算木積みされており、技術レベルは高そう  しかし地震の横揺れで荷重が集中する肝心かなめの根石がこれでは…(^^;

 

ふと思い出した観音寺城倉田丸の石垣です ほぼコレですね。

 

尾根筋の南側から見ると、虎口らしき遺構が見られます

 

その先はというと、平坦な尾根道が続き防御遺構はありませんでした

 

尾根伝いに繋がる繖山 あの山の裏側(南斜面)に観音寺城があります  佐生城の機能はこの尾根筋を護る支城だった事が理解でる絵柄です

 

 

= 観音寺騒動とは =

 六角定頼の代に最盛期だった六角氏は、次の義賢(承禎)の代には浅井氏に大敗し、湖北で押され始めます。

重臣の後藤賢豊は良く家中を纏めて、北伊勢に侵攻してなんとか体面を保っていましたが、義賢が家督を義治に譲ると、義治は義賢に信頼され家中の人望も厚い賢豊が何かと目障りになり、観音寺城内で賢豊と長男を殺害してしまいました。

 この蛮行には家中の殆どの国人が激怒し、義賢と義治が観音寺城から追放される大騒動に発展してしまいます。

 騒動は六角父子が頼った重臣の蒲生賢秀が仲裁し、代表権を取り上げられた“執行役国主”として観音寺城に戻れましたが、六角氏を見限って浅井氏に鞍替えする国人も多く、六角氏はその勢力を大きく衰退させる事になりました。

 

南虎口跡?には階段遺構も認められます

 

石垣は一部西側斜面にも回り込みんでいます こちらの発掘調査はまだみたいですね

 

南側から郭に登ります 幅の広い土塁に囲まれているのが印象的

 

西側には土塁痕が続いて遺っていました

 

どうやらこの城は、石垣の積まれた主郭と北の平場の副郭の連郭であった様です

 

 

 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁して上洛を開始します。

六角勢は18の支城に諸将を配置して迎撃態勢を取りますが、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉が攻めた箕作城が一夜で落城し、これに驚いた和田山城の兵が逃走すると全城総崩れとなります。

 観音寺城の義賢・義治親子も南の甲賀郡に遁走したので、観音寺城と支城は織田軍に接収され、柴田勝家が詰めた長光寺城を除きすべて廃城とされました。

佐生城もこの時に廃城になったものと思われます。

 

北虎口から北側を見下ろし、戦闘イメージを膨らませます(^^;

 

木々に覆われて眺望の効かない城址ですが、能登川の市街と琵琶湖がチラッと見えました

 

東側の土塁上には天端石に併行した石列が有ります 板塀の控え柱か?

 

主郭の中央には“後藤但馬守城址”の石碑がありました

 

 

 観音寺騒動で謀殺された後藤氏のその後ですが、次男の高治が家督を継いで六角氏傘下に残った様です。

永禄11年に高治が佐生城に詰めていたかどうかは判りませんが、義賢・義治親子の逃亡を機に信長に降伏し、織田家臣に加わった様です。

 織田家では明智光秀の軍に編成されましたが、本能寺の変の後は旧知の蒲生氏郷に3,000石で仕官したそうで、蒲生氏の家臣団リストにその名が見えます。